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<title>新・アニメ・批評</title>
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<description>　現役アニメーター。早大在学中にアニメーターとして活動、卒業後、公務員・無職などを経てアニメ業界に復帰。アニメ批評・評論・時折声優についても書き込みます。リンクはフリーです。アニメーションなどの視聴覚文化を愛する方であれば、相互リンク希望も大歓迎！</description>
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<title>『WHITE ALBUM』（第10頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第１０頁（※第１０話）のお話でございます。　★１　片腕を突き上げろ、または「停止すること」。　２９０～３００カットで程よく構成された今回の挿話では、３人の女が高らかに片腕を突き上げます。　Aパートの冒頭、夕凪市立病院の玄関前の場面を思い出してくださいな。退院したばかりで松葉杖姿の澤倉美咲。彼女は傍らで「コスプレ」をひたすら演じてい
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第１０頁（※第１０話）のお話でございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１　片腕を突き上げろ、または「停止すること」。</span></strong><br /><br />　２９０～３００カットで程よく構成された今回の挿話では、３人の女が高らかに片腕を突き上げます。<br /><br />　Aパートの冒頭、夕凪市立病院の玄関前の場面を思い出してくださいな。退院したばかりで松葉杖姿の澤倉<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BA%E9" class="tagword">美咲</a>。彼女は傍らで「コスプレ」をひたすら演じている七瀬<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>の洋服を買いにゆくことを提案します。痛々しい仕草で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BA%E9" class="tagword">美咲</a>が高らかに「左腕を突き上げた」瞬間、画面の左端からタクシーが不意に姿をあらわします。そして横並びのふたりを視聴者の視界から覆い隠すかのように、ピタリと「停車」するのです。次は河島<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%CF%A4%EB%A4%AB" class="tagword">はるか</a>です。大学のラウンジの窓際でひとり、藤井<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が佇んでいる場面。昨日の演劇部の舞台の顛末がモブキャラクターによって語られておりますと、窓ガラスに「反射」した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>の姿があらわれます。無表情なまま<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>の方を向いて立ち上がる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>。そして、スタスタと緩慢な動作で歩き始める<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>の足元が画面の手前から俯瞰のアングルで描かれることで、緊張感が張り詰めます。ところが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>！」という場違いな明るい声音が、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>の歩行を「停止」させるのです。その直後に連なるカットでは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>の描かれた前景に対して、後景で無邪気に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%CF%A4%EB%A4%AB" class="tagword">はるか</a>が「右腕を突き上げている」のです。<br /><br />　３人目の女は森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>です。今回の挿話のラストシーン。振り付けの訓練に勤しんでいる彼女を仰角から描いたカット。「初めての/気持ちだ」という「浮き文字」とともに、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が高らかに「右腕を突きあげて」降ろした瞬間、画面は「ブラックアウト」します。こうして「物語」が「停止」することで、ED<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションが始まるように見えるでしょう。また、このカットの直前の場面では、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>のアパート前に「停車」した自動車での彼と篠塚<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EF%C0%B8" class="tagword">弥生</a>のやりとりが確かに描かれておりますよね。しかるに、「女たちの突き上げられた片腕」は、きまって、「停止」という出来事を「物語」に導入いたします。ですからそれらは、画面の連鎖に「停滞感」を波及させる役割を担っているようにもみえるのではないでしょうか。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★２　ぴんと伸ばされた女たちの人差し指</span></strong><br /><br />　女たちの「片腕を突き上げる仕草」の変奏であり、「停止の契機」でもあるそれらの身振りと共鳴音を響かせているのが、頻繁に描写される「女たちの人差し指」であります。とはいえ、『WHITE ALBUM』という作品にあっては、今回の挿話にかぎらず、「手芝居」に演出的な過剰さが見出されることも、あらかじめ指摘しておきましょう。<br /><br />　では、今回の挿話で描写された「女たちの人差し指」をトレースしてみます。緒方英二の邸宅にレッスンを受けに来た<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>との会話において、篠塚<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EF%C0%B8" class="tagword">弥生</a>は「まだ終っていません」とつぶやきながら、ぴんと「人差し指」を突き立てて見せます。ラウンジで向かい合って座る<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%CF%A4%EB%A4%AB" class="tagword">はるか</a>を横の構図で描いた場面では、「今日の女神？」という台詞とともに、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%CF%A4%EB%A4%AB" class="tagword">はるか</a>は「人差し指」でみずからを指して見せますね。喫茶エコーズの地下室では、緒方<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>がぴんと「人差し指」を突きたてながら、会話を中断させて<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>に地図を買いに行かせます。「スナッピン（※指パッチン）」の効果音が画面に重なり、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>と桜団が「縦の構図」の「切り返しショット」で対峙するテレビ局の廊下の場面では、桜団の長髪のメンバーが、同じくメンバーの幼いひとりの台詞をいさめるかのように、「しーっ」と言って「人差し指」をくちびるにあてて見せます。その直後、両者の緊張状態を緩和するかのように<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が画面の奥からあらわれますよね。すると画面には、こちらは「男」ですが、司会者がぴんと「人差し指」を突き立てている「歌う！ポップスタジオ」のポスターを描いたカットが周到に挿入されるでしょう（※アイドルたちが番組で「しのぎ」を削るという意味では、「トップをねらえ」という意味さえも担うことができます）。そして<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>のレッスンを描いた場面では、ぴんと伸びた「人差し指」が他の４本の指を導いてゆくかのようなカットが幾つがございます。<br /><br />　しかるに、繰り返して描写される「ぴんと伸びた人差し指」は、きまって何らかの行為を「中断（≒停止）」させ、あるいは「遮（※さえぎ）る」契機として機能しているようにみえます。とりわけ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の「人差し指」はわかりづらいですが、クリスマス・イヴに催される「公会堂」コンサートのための彼女のレッスンを描いた画面の連鎖それ自体が、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の遭遇の機会を「遮っている」のですから、当然といえば当然でございましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★３　「覗くこと」、あるいは「覗き魔にされる視聴者」。</span></strong><br /><br />　さて、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を視聴するとは、ある「フレーム」を通して覗き魔になるということです。今回の挿話では、そのような事態が露見されるようにもみえます。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の記者会見の様子は夕凪大学のテレビ画面にも映し出されておりましたよね。その場面では、いささか不自然な影の落ちている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>が柱の物陰から鋭い目付きで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BA%E9" class="tagword">美咲</a>に視線を投げかけ、それに彼女が気づきます。ここで見逃してならなにのは、隣にいる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>も含め、この空間の中で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BA%E9" class="tagword">美咲</a>を除いて誰ひとりとして<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>の存在に気づいているようには見えないことです。ところが、この空間において、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>の覗き魔的な存在に気づいている人物がもうひとりだけおりますよね。そう、答えはあなたです。言葉を換えるなら、「あなた」というもうひとりの「覗き魔＝視聴者」の存在を前提にすることで、この場面における<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BA%E9" class="tagword">美咲</a>の「覗き」をめぐる「緊張関係」が初めて成立するのです。<br /><br />　そのような「覗き魔＝視聴者」をあぶり出すテクニックが、今度は篠塚<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EF%C0%B8" class="tagword">弥生</a>と緒方<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の元マネージャーである平木とのやりとりにおいて使用されていることを見逃した方はおられますまい。場面は誰もいない夜の事務室。「縦の構図」を使った「ロングショット」で描かれた篠塚は、ゴソゴソと何かを整理しているかのように見えますね。そして、唐突にかかってきた電話に対する戸惑いの仕草を演じた後、画面には「ボトムショット（※真下）」からぐるぐる回転する「魚眼パース」ぎみで描かれた「膨張した蛍光灯」がしばらく映し出され、受話器が取り上げられます。すると、いかにも「変態めいた男のあえぎ声」が受話器から聞こえてくる。彼女はその「あえぎ声」の主を「平良木さんですね…」と見事に的中させると、平良木は「怖く…ないのか？」と応じます。そして次のカットですね。キャメラ位置はいきなり屋外に設定されます。その視界はブラインドで覆われているのですが、嘘としか思えない出鱈目ぶりで、ブラインドの真ん中が「覗き穴」のようにねじれている。すると、視聴者は「平木の声の持ち主」であるかのような「覗き魔」のポジションをいかんともしがたく強制されてしまうわけです。<br /><br />　そうして、この場面によって、「平良木の声の持ち主」にされた「覗き魔＝視聴者」が、決定的なかたちで露呈されるのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>のレッスンの場面です。この場面を含む「ラスト・シークェンス」は、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>（レッスン室）＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と篠塚<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EF%C0%B8" class="tagword">弥生</a>（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>のアパート前）＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>（エコーズの地下）の場面の「並行モンタージュ」で構成されておりますね。しかし、それらの「並行性＝平衡性」にあって、圧倒的な突出点をかたちづくることで不均衡を炸裂させるのが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>のレッスン画面に重ねられている彼女の「荒い息遣い＝あえぎ声」なのであります。どういうことでしょう。彼「女の乱れた息遣い」は、「物語」の水準を超えて平良木の「いかにも変態めいた男のあえぎ声」と共鳴することで、きわめて「セクシャルなイメージ」をかたちづくってしまうのです。そしてその「セクシャルなイメージ」を可能にするのが、「覗き魔＝視聴者」であることは申しあげるまでもありますまい。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★４　驚くべき「フレーム内フレーム」のテクニック</span></strong><br /><br />　「並行モンタージュ」は全編がぶっきらぼうな「ストレートカッティング（※ワイプやオーバーラップ、フェードなどを使用せずにカットとカットを繋いでゆきます）」で編集されている今回の挿話にあって、いかにもふさわしいテクニックでありましょう。この「並行モンタージュ」はラストシークェンスのほかに、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の記者会見の場面でも使用されておりますね。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の記者会見の場面では、「テレビ」というメディアを通じて「複数の空間が同時的であること（※並行モンタージュ）」を繊細に描いてゆきます。複数の空間に設置されている「テレビ」はこの場合、「フレーム内フレーム」としても同時に機能しております。「フレーム内フレーム」というのは、ようするに、「視聴者にとってのテレビの画面のなかに、キャラクターたちが見ているテレビ」が描かれている「入れ子構造」であると考えてください。<br /><br />　ところで、このような「並行モンタージュ」と「フレーム内フレーム」の同時的な共存ぶりは、とりわけ驚くには値しないささやかな事態です。そうではなく、視聴者のまなざしを不意討ちするのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>のマネージャーとして「テレビに映し出されてしまった<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>を<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が視聴してしまう」という倒錯ぶりのなのです。いいかえるのなら、この記者会見の場面にあって、いつのまにか「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の人物配置が逆転」してしまっている、ということです。「テレビの中（アイドル）と外（一般人）」の階層秩序がしかるべき的確さで崩れ去る瞬間、見る者は思いがけず絶句してしまう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★５　落下する断片１、あるいはガラス。</span></strong><br /><br />　ここで、多くの方が、今回の挿話の「キー」であるとおっしゃる「リフレクション」と「手紙」についてのお話をしてみたいと思います。<br /><br />　頑健な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の父親が１階の部屋を「そのままにしておく」ために妻の遺影を持って２階に上がろうとすると、主観ショットで描かれた階段の「フォーカス（※焦点）」が不意に狂います。そして遺影が落下することで写真を覆っていた「ガラス」が粉々に割れてしまいますね。他方で、この断片化されたガラスと酷似した輪郭におさまってしまうのが、夜の事務室の場面で、篠塚<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EF%C0%B8" class="tagword">弥生</a>によって、ばらばらに断片化されてゴミ箱に落下する「手紙」なのです（※いかなる空気抵抗も受けず、画に描いたようにすべてがゴミ箱に収まってしまう律儀さときたら！）。<br /><br />　「ガラス」にあっては、誰もが指摘するとおり、今回の挿話では「鏡」という舞台装置と「コーヒー」という小道具と緊密に連繋しております。それらは、ひたすら「反射＝反映」する虚像を画面の連鎖のいたるところに氾濫させます。きわめて印象深いのは、喫茶エコーズの地下室の場面、大写しで描かれた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の「サングラス」の見事なまでの「反射＝反映」ぶりでしょうか。上下さかさまの状態でカウンターに置かれた「サングラス」の鏡面には、「無数の酒ビン」が「反射＝反映」しており、定義上、「ビン」自体も物体を「反射＝反映」することができますから、この小道具においては、「合わせ鏡のような無限の乱反射」が実現されていることになります。<br /><br />　今回の挿話では、このような「リフレクション演出」に繊細な配慮がなされていることは誰の目にもあきらかでございましょう。あまりの氾濫ぶりに、見る者はめまいさえも覚えるのではないでしょうか。けれども、単純な事実として見落としてならないのは、これらの「反射＝反映」の氾濫ぶりはすべて、粉々に「断片化された遺影のガラス」の残滓として機能していることです。言葉を換えるなら、氾濫する「反射＝反映」の主題系においては、その端緒に「遺影の断片化されたガラス」が配置されているという事実なのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★６　落下する断片２、あるいは手紙。</span></strong><br /><br />　「手紙」という小道具も、今回の挿話では色濃い存在感を放ちながら、画面を活性化しておりますね。<br /><br />　もちろん、わたしたちの関心は誰の手から誰の手紙がわたったか、などの事実関係の確認にはございません。エドガー・アラン・ポーの小説・『失われた手紙』に言及することでテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションを侮蔑する行為も慎まねばなりますまい。肝腎なことは、落下する断片として描かれた「ばらばらの手紙」が、今回の画面に見出すことのできる無数の手紙を集約する「提喩」として機能していることであります。<br /><br />　今回の挿話では、手紙の描かれたカットが２５カット前後存在しているはずです。いいかえるなら、本編の８パーセントほどを「手紙」が占拠しているということでしょうか。それらのカットは理論的にも物理的にもすべて、断片化することができますよね。だとするなら、それらの断片は篠塚<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EF%C0%B8" class="tagword">弥生</a>によって「断片化された手紙」とにわかに通底し始めるのです。そして「断片化された手紙」は、喫茶エコーズの地下の場面で、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>によってひそかに「再構成」されますね。そのとき、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>は確かに「再構成された手紙の断片」に向けて視線を「落として」おります。<br /><br />　しかるに、「再構成された手紙に視線を落とす<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の身振り」と「理論的にも物理的にも断片化することが可能な２５カット前後の手紙」の描写は、本編を振り返ってみますと、結果的には篠塚<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EF%C0%B8" class="tagword">弥生</a>によって「（彼女の「視点ショット」による俯瞰のアングルから描かれた）ばらばらに断片化されて落下する手紙のイメージ」の輪郭にきっちりとおさまっているようにみえるのではないでしょうか。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★７　落下する断片３、または「すれ違うこと」</span></strong><br /><br />　「落下して断片化された遺影のガラス」と「落下する断片化された手紙」のイメージは、前者が「実体と虚像」を生み出し、後者が「（手紙の）等価交換の失敗」を生み出すという意味で、ほとんど同じ役割を演じております。<br /><br />　言葉を換えてみますと、「実体と虚像の分離、あるいは両者が見分けられなくなる」ことは、「手紙の交換がうまくいかない」ことと全く同様に、徹底して何かと何かが「すれ違う」という出来事をみごとな手さばきで「物語」に導入しているということなのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★８　レトリスム、あるいは見ることの困難さ。</span></strong><br /><br />　今回の挿話にあっては、これまでのシリーズと同様に、視聴者はひたすら画面にあらわれる文字や数字の解読を迫られます。<br /><br />　たとえば、手紙を読んだり、書いたりしているキャラクターに「内的独白」をあてるといったきわめて陳腐で親切な演出と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」はほとんど無縁であります。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあっては、「内的独白」がほぼ存在せず（※わたしの記憶が確かならば、１０話にいたるまで１～２回しか使用されていないはずです）、視覚的な美しさを措くならば、定石では「内的独白」で処理すべきカットや場面にあって、いささか淡白なフォントの「浮き文字」を、きまって画面の上で視覚化するという戦略が採られているようにもみえます。<br /><br />　今回の挿話を見ておりますと、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の緊急会見が映し出されたテレビの電源が消された夕暮れ時の場面、桜団が所属するM３の神崎社長の「視点ショット」から描かれた数字の羅列を解読するには、まぎれもなく「反＝人間」的な動体視力が要求されるでしょう。「カット・ズームイン」で「４７９７」という数値を視認することはできますが、「K」・「C」・「A」がそれぞれ「公会堂」・「カルマ」・「アリーナ」の略号であり、それらのアルファベットの隣に並ぶ数値である「２０００」・「１３００」・「３００００」が各会場のキャパシティであろうというところまでは誰もが視認できるように思われます。しかし、そのほかは誰にも不可能なのではないか、と洩らす人がいても不思議ではない尺の短さは、「伏線」を超えて「見ること」の困難さを突きつけているかのようにみえます。これと同じ種類の困難に、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>が喫茶エコーズの地下で「再構成した手紙」をひそかに読む場面にあっても、見る者は直面いたします。こちらの場面でも、「カット・ズームイン」が３回ほど使用されており、それによって、断片的ながらも意味のある文字列をかろうじて読み取ることができます。けれども、やはり、それらの文字列を繋げて、さらなる文意を「読み取る＝見て取る」ことはきわめて困難であり、むしろ人はその「見ることの困難さ」を見てしまうのではないでしょうか。<br /><br />　そしてそれらの「見ることの困難さ」に直面していながらも、人が涼しい顔でそのような事態をやり過ごせるのは、別のカットや場面で、映像なり、聴覚的な記号として、的確な「コンテキスト（※文脈）」を与えられているからでございましょう。神崎社長のデスクに置かれたメモ用紙が「観客の動員値」に関わる「レトリスム」であることは緒方英二の台詞からたやすく想像できますし、再構成された手紙にあっては、顔を両手で覆い隠し、「遅すぎるよ…」と悲痛な声音でつぶやく<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の振る舞いから、しかるべき「コンテキスト」が与えられることで、人は「見ることの困難さ」を回避することができるように見えます。<br /><br />　しかるに、何よりも感動的なのは、「見ることの困難さ」という「反＝親切」を突きつけながら、それと同時に曖昧に理解できる余地を的確に視聴者に提供することで「伏線」を機能させるという二重性の素晴らしさでございましょう。たとえば、「『攻殻機動隊』シリーズのジャーゴン（※衒学的な隠語）はBGMとして無視すればよい」といった意見を仄聞することがございます。けれど、「画面を見ることの困難さ・音響を聞くことの困難さ」という本質的な主題を無視する姿勢は、いかにも「非＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」的である気がいたします。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★９　「反＝親切」、あるいは「つなぎ間違い」という制度。</span></strong><br /><br />　今回の挿話にあって、「反＝親切」について触れておかねばならぬカット、あるいは場面がございます。ひとつめは、大学内に設置されたテレビに映し出された<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の記者会見の模様を学生たちが見つめる場面でございます。<br /><br />　この場面は先ほどもお話させていただいた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BA%E9" class="tagword">美咲</a>と彼女を覗き見るかのように鋭いまなざしを投げつける<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>を描いた場面でもあります。ここでは「スクリーン・ディレクション」の「つなぎ間違い」が２回存在しております。状況説明的な俯瞰のロングショットで空間内の構造が画面に提示された後、学生たちのグループ（A）のカットは誰もが画面の右端に視線を向けているのに対して、学生たちのグループ（B）のカットは画面の左端に視線を向けているので、前者は全員が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の会見を見ているようにみえるのですが、後者は全員が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>を見ているようにみえるのです。これらが<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BA%E9" class="tagword">美咲</a>を描いたカットを挟んで繰り返されます。<br /><br />　もうひとつは桜団と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>がテレビ局の廊下で対峙する場面であります。両者が画面の奥から手前に向かって歩いてくるさまが「切り返しショット」で呈示され、続いてほぼ「真俯瞰」のアングルで衝突寸前の両者の位置関係を視聴者に知らせるカットが入ります。しかし、次の瞬間、驚くべきことに画面は「横の構図」に唐突に切り替わり、嘘としか思えない不自然さで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>と桜団は「すれ違う」のです。つまり、ワン・カット、どちらかが廊下の脇にそれるカットを挟まなければ、どう見ても衝突しているはずなのですが、そのカットが「省略」されているのです。<br /><br />　両者はともに「つなぎ間違い」です。いわゆる「切り返し」における「イマジナリーライン」の踏み越えなどと呼ばれる事態と同種のものでございます。けれども、だからといって早計に糾弾してはいけませんよ。たとえば、前者にあっての「つなぎ間違い」は、空間において異様な殺気を発しているように見える<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>とテレビの向こう側のアイドルである<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>を対等に併置させているようにも見えるでしょう。さらに後者の「つなぎ間違い」にあっては、必要なるワン・カットの「省略」によって、見事に桜団と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の、お互いに譲り合わないという心理的な均衡を視覚化しているようにも見えるからです。<br /><br />　「つなぎ間違い」は制度的な約束事であって、「反＝親切」な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションには避けて通れない道であります。というのも、コンテ・演出論的な問題として、「制度的な約束事」を遵守するよりも、「つなぎ間違い」を組織的に使用するほうが遥かにむつかしいからであります。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」では、これまでの挿話においても数多くの「つなぎ間違い」が存在しておりますが（※今回の挿話では他にも、「錯時法」を使って<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%CF%A4%EB%A4%AB" class="tagword">はるか</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>がラウンジで入れ替わる場面が批評的な危険さを感じさせます）、きっちりとダブルミーニングが機能している点をけっして見逃してはなりますまい。<br /><br /><br />　<br />　それでは、本日はこのあたりにしておきましょうか。ここまでお付き合いしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。<br /><br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-03-09T17:39:50+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『WHITE ALBUM』（第9頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第９頁（※第９話）についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？　★１　反射と反映、あるいは「模倣すること」。　今回の挿話（※エピソード）にあって、ひたすら視聴者を不意撃ちするのは、「反射＝反映」という出来事でございましょう。　幾つか例を挙げてみましょうか。ファーストカットではいきなり、道路反射「鏡」が姿をあらわしま
 </description>
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第９頁（※第９話）についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１　反射と反映、あるいは「模倣すること」。</span></strong><br /><br />　今回の挿話（※エピソード）にあって、ひたすら視聴者を不意撃ちするのは、「反射＝反映」という出来事でございましょう。<br /><br />　幾つか例を挙げてみましょうか。ファーストカットではいきなり、道路反射「鏡」が姿をあらわします。この満月のように丸い鏡は「止まれ」という文字を反映しておりますね。その直後、舞台衣装を身にまとう藤井<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と澤倉美咲のすがたが全身「鏡」に映し出されます。さらに、あからさまに暗い雰囲気を作品に導入する曇天の下、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>のお父さんが息子と「お揃い」の衣装で「ランニングする姿」と「止まれ」の文字が冒頭の「反射鏡」に映しだされますよね。また、美咲がAパートの冒頭で舞台衣装を運ぶ白い大型車は、Bパートの終盤でほとんど同型の救急車へと変貌いたします。そして、誰もが指摘されるように、「演劇の舞台」にあっては、巧妙な「並行モンタージュ」の技法によって、視聴者にとって、「舞台/舞台裏」が互いを模倣する演劇の舞台であるかのように機能しております（※後述）。もちろん、森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が姿を消した夕暮れ時の「ステージ」は、美咲と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が姿を消した「演劇の舞台」と見事な共鳴音を奏でております。<br /><br />　戸惑いを隠しきれないほど、いたるところで出来事が反復されます。すべてを例示することは難しい程に。しかるに今回の挿話にあっては、あらゆる出来事が徹底して「反射＝反映」の関係におかれます。すなわち、姿を変えて１度目を２度目が「模倣」するかのように、何もかもが嘘としか思えないデタラメさで「繰り返される」ように見えるのです。<br /><br />　この徹底した「模倣」ぶりが感動的なのは、今回の題材である「演劇」が、まぎれもなく「何ものかの模倣＝再現」としてしか存在できないからにほかなりません。繰り返される視覚的な細部が、「演劇」という題材を、画面の連鎖において遥かに活性化している点が素晴らしいのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★２　女たちの声の剥奪、あるいは覚醒の契機。</span></strong><br /><br />　今回の挿話にかぎらず、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあっては、「アイドル歌手」という題材と緊密に連繋しながら、「声の剥奪」という出来事が頻繁に発生いたします。<br /><br />　さしあたり今回にかぎさせていただきましょう。自室でひとり言をつぶやく観月<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%CA" class="tagword">マナ</a>は、寝入っている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>に接吻（※直接唇が触れ合っている描写は省略されています）することで、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の寝息を完全に奪うと同時に、視覚的なイメージにおいても、音響的なイメージにおいても、「声の剥奪」を遂行いたします。画面はハーモニーであるかのようなイラスト調のやわらかいタッチの絵柄に変容し、そこにラジオの音声だけが、「音先行」という音響演出によって重ねられます。もちろん、いかにもメロドラマ的な「切り返しショット」の連鎖を舞台裏でくりひろげて見せる美咲と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>も「接吻」によって、その言葉が奪われます。そして何より決定的なのは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が野外ステージの上で、何かを観客たちに告げ知らせようとした瞬間、ふいに場面転換が行われ、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の声が「省略＝剥奪」されるのであります。<br /><br />　「女たちの声の剥奪」という出来事は「物語」にいかなる影響を及ぼしているのでしょうか。答えは、きまって「睡眠からの覚醒」という出来事を導入しております。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%CA" class="tagword">マナ</a>から接吻された<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は眠りから覚醒しますね。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と美咲の接吻は、美咲の拒絶とその後に連なる身振りからもあきらかなように、「恋愛からの目覚め」を惹起いたします。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の「声の剥奪」にあっては、その次のカットで、画に描いたように、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が夕暮れ時の実家で目を覚ます瞬間を見逃してはなりますまい。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★３　『WHITE ALBUM』における「コスプレ」とは何ぞや？</span></strong><br /><br />　２９０カット前後の平均的な「物語の速度」（※私見によれば、２００を切るとかなり遅く、４５０を超えるとかなり早い印象を視聴者に与えることができます）で流れてゆく今回の挿話にあって、見逃せないのは「コスチュームプレイ」でありましょうか。<br /><br />　アバンでは確かに、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と美咲が「コスプレ」を鏡の前で披露しており、大学のステージやテレビ局で反＝日常的なステージ衣装を身にまとっている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>（※ステージ上の衣装は奇抜に見えないかもしれませんが、司会の青年の衣装と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BC%C4%C4%CD%CC%EF%C0%B8" class="tagword">篠塚弥生</a>の変わり映えのない仕事着が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の舞台衣装をきわだたせております）。さらに、あれだけ見る者を苛立たせる演劇部の部員でさえもが「コスプレ」しており、いささか滑稽な失笑を買わざるを得ない七瀬<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>の黒い神父姿の「コスプレ」も同様ですよね。<br /><br />　これらの「コスプレ」にあって実に奇妙だと言わざるを得ないのは、「着衣━着脱」の場面が省略されることですが、視聴者が見落としてならないのは、それらの「コスプレ」が、きまって「視線の交錯よるコミュ二ケーション」を遮断することでありましょう。<br /><br />　アバンでは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の視線が隠蔽されることによって、彼と美咲はひとつの鏡におさまっており、ステージ上の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%CA" class="tagword">マナ</a>の声援に対して、音源（※<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%CA" class="tagword">マナ</a>）を見定められぬまま、曖昧に手を振りますし、控え室で同じ衣装を身に纏った<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と「出会い損ねる」場面が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「剥奪された叫び声」とともに、的確に描かれております（※後述）。いかにも意地悪な演劇部員の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>はステージ上でいかなるキャラクターとも視線を交錯させることなく、「美咲さん！」とつぶやく<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>を描いた「ストック・カット（※バンク）」の畳み掛けるような「オーヴァラップ」を切断するかのようにあらわれる神父姿の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>から告白された美咲は、彼の背後から差し込む「電子的な光のイメージ」の眩しさに気圧されるかのように、思わず目を背けて倒れてしまう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★４　「劇中劇」、あるいは音の通底。</span></strong><br /><br />　今回の挿話でシェイクスピアの『ハムレット』を頂点にいただく「劇中劇の技法」が使用されていることはみなさんもお気付きでございましょう。最近ですと、『CLANNAD』（１期）のシリーズ終盤で「スポットライト」演出を巧妙に画面に紛れ込ませながら、シリーズの「クライマックス」において使用されておりましたよね。<br /><br />　『WHITE ALBUM』の劇中劇において見逃せないのは、「並行モンタージュ」です。実際の舞台上とバックヤード（※舞台裏）を交互に見せてゆきます。ここで指摘されるべきなのは、「並行モンタージュ」が「クロスカッティング」とは異なるということであります。後者は、「異なる空間の出来事・キャラクターが最終的にひとつの場面で遭遇すること」を前提にした演出ですが、前者の「並行モンタージュ」はこの場合、徹底して異なる空間が同時的に描かれながら、両者は間違いなく出会わない。<br /><br />　にもかかわらず、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」の創意を評価せざるを得ないのは、「音＝崩れ落ちる鉄パイプの効果音」がふたつの空間を見事に通底せしめることであります。両者の空間における「出来事≒キャラクター」は決して遭遇しないのだけれども、「音声のイメージ」が見事にふたつの空間を繋いでいる点を見逃してはなりますまい。この「音声だけのイメージ」がふたつの空間を通底せしめることにより、「キャラクターの遭遇」という出来事を画面の推移から排除しながら、にもかかわらず両者の空間に「変容」を被らせる。これは大変にささやかでありながら、巧妙な演出であると言わざるを得ません。<br /><br />　また、この場面にあって、視聴者は表舞台で「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>たちの演劇を観る観客」と視点を共有しながら、それと同時に、舞台裏で演じられている「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と美咲の恋愛ドラマ」を観る観客という、二重の位置に同時に置かれるようにもみえるのではないでしょうか。これも手が込んでおりますね。そして忘れずに指摘しておかねばならないのが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」という「物語」じたいが、「アイドル声優のバックヤードもの」という題材を描いておりますから、ここに「演劇部員のバックヤードもの」というエピソードが加わることで、事態は幾重にも錯綜した様相を呈しはじめます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★５　曇天、あるいは光の顕現。</span></strong><br /><br />　今回の挿話を視聴する誰もが目にするのは、ひたすら画調を彩る重々しい１１月の曇天の暗さであり、そこからの救いであるかのように、ときおり差し挟まれる「光」の描写であります。<br /><br />　驚くべきことに、物語の終盤において、地下の奈落に光を差し込ませる窓を仰角から描いた固定のカットから、神父姿の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>が神の使いでもあるかのように登場する「大探検」のシークェンスをのぞきますと、律儀すぎる徹底さで「入射光」などと呼ばれたりもする演出が自粛されているように見えます。<br /><br />　このいかにも馬鹿馬鹿しい「闇と光のコントラスト」は、それ自体としては凡庸きわまりまりない。にもかかわらずそれが素晴らしいのは、暗い地下の室内への「光」の導入が、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と美咲による「大探検」の開始と終了の視覚的な符牒（※しるし）として機能していることでありましょう。多くの方が言語化できぬまま、今回の挿話で「美咲パート」は終わりだろうと不埒な推論を交し合うのは、あくまでもこの「照明用の小部屋」をめざす<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と美咲の「大探検」が、闇における「光の開始━経過━終了」という視覚的な演出を経るからであって、多くの方が論じておられるような「目には見えない物語」が機能しているからではいささかもございません。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★６　『WHITE ALBUM』、または水と映画。</span></strong><br /><br />　今回の挿話に耳を澄ましておりますと、その鼓膜を震わせるのは、ふいに画面に重ねられる「雫（※しづく）が落下する」ような効果音でありましょう。<br /><br />　「ぽちゃり、ポチャリ、ぽちゃり…」という不穏な効果音とともに、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>のステージはもちろん、当初の目的であった美咲のゲネプロの付き添いをできなかった<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「モンタージュ・シークェンス」が始まります（※この水滴の効果音の使用はおそらく、シリーズで２度目です）。６～７カットで構成されているこの「モンタージュ・シークェンス」の場面にあっては、きわめて平面的な「横の構図」が使用された演劇の舞台が主に描かれているように見えます。この場面の前に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>と遭遇しておりますが、そこで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>が「傘」を持っていたことを覚えておられる方は、かなりの動体視力の持ち主でありましょう。さらに演劇の舞台の地下を「大探検」する場面にあって、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>はごく自然な配慮であるかのように、隠し持っていた「清涼飲料水（※ジュース）」を美咲に差し出して、ふたりは自分たちの置かれている空間があたかも「映画館」のようだと囁きあいます。そんな空間のなかで口論した後、ふたりが接吻を交わしている最中においても、美咲の頬を「涙」がつたいますよね。そうして、さきほど「傘」を持っていた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>が、まるで「映画館のプロジェクター」から発せられたかのような後光を身にまといながら、画面に姿をあらわします。<br /><br />　七瀬<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>の「小説のコスプレ」にせよ、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「モンタージュ・シークェンス」において描かれるあたかも「スクリーンであるかのような平面的な演劇の舞台」にせよ、ともに「映画館」であるかのような地下の空間とはるかに共鳴しております。これらは、きまって「映画（館）的なもの」、より厳密には、「舞台的なもの」のイメージをまぎれもなく「物語」に浸み込ませております。そして、今回の挿話が「舞台的なもの」を題材にしていることは、誰の目にもあきらでございましょう。すなわち、そのような「舞台的なもの」という「題材」を、「水のイメージ」が確実に招き寄せて視覚化しているように見えるのであります。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★７　水と風、あるいは声の剥奪。</span></strong><br /><br />　それらの「落下する水のイメージ」と呼応するかのように、今回の挿話にあって、決定的な役割を演じているのが無方向に吹き荒れる「風のイメージ」です。<br /><br />　「風のイメージ」が画面に姿を見せるのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が住まうマンションの前で、おそらくその口ぶりから「ゆ・き！」と叫んだであろう「声が剥奪される」瞬間なのです。キャメラ（※画面のフレーム）が俯瞰のアングルから３段階の「カット・ズームアウト」で、バッバッバッとこちらを見上げている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>から遠ざかります。不気味なささやき声が映像に重なりはじめ、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「視点ショット」→下手（※画面左）側面からの口元の「クローズアップ・ショット」→再び俯瞰のアングルという画面の連鎖において、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は何事かをまちがいなく叫びます。しかしそれが、「風の音のイメージ」によって暴力的にかき消されてしまう。にもかかわらず、「落下する水のイメージ」が「無方向的で暴力的な風のイメージ」と遥かに連繋することで、しなやかに「物語」を紡ぎだしてゆくのです。<br /><br />　そして今回の挿話にかぎらなければ、『WHITE ALBUM』における「風が吹く」という出来事は、多くの場合、不吉さの予兆として機能しているよう見えることも指摘しておきましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★８　等価交換の失敗、あるいは「縦の構図」の残酷さ。</span></strong><br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあって、見る者が目を奪われるのは「縦の構図」と「横の構図」の洪水めいた氾濫ぶりであります。これは以前からくりかえして主張してまいましたね。今回の挿話でも、画面のいたるとろに見出すことができるでしょう。さしあたって、「縦の構図」とは奥行きの深い縦長の構図であり、「横の構図」とは演劇の舞台を正面から見たようなフラットな構図のことである説明させてください。そのような縦横の構図のなかでも、とりわけ「縦の構図」が機能不全に陥るとき、きまって画面にあらわれるのが、「交換関係の失敗」という出来事です。<br /><br />　たとえば、アバンですと、徹底して「縦の構図」が使用されておりますが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の父親を描いたカットを介してふたりの「手伝う＝手伝わない」の交換関係に不均衡が導入されるように見えます。おもいきり縦と横の構図を利用した美咲と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>たちの舞台衣装の受け渡しの場面でも、美咲の右目を「超クロースアップ」で描いたカットを介して「受け取る＝受け取らない」という不均衡が生じてしまう。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が最初にあらわれる場面でもロングショットで縦の構図が使用されますが、鋭い「カット・ズームイン」が続き、彼女と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%CA" class="tagword">マナ</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B2%CF%C5%E7%A4%CF%A4%EB%A4%AB" class="tagword">河島はるか</a>の間で「見る＝見られる・見られない」という不均衡が見出されます。また、「縦の構図」でステージの脇に描かれた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BC%C4%C4%CD%CC%EF%C0%B8" class="tagword">篠塚弥生</a>による、いつもの時計を指さす振る舞いによって、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>はその場を立ち去らざるを得なくなり、さらには何かを告げようとしたら、場面転換が生じてしまいます。この場面でも、「縦の構図」の機能不全は、いかんともしがたく「交換関係を失敗させたいらしい…」と視聴者に残忍な微笑を強いてくるかのようです。<br /><br />　そうして画面の推移を追跡してゆきますと、文化祭初日・夕暮れ時の夕凪大学のキャンパスで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>が遭遇する場面。あからさまに「横の構図」と「縦の構図」が使用され、衣装の不均衡、文学的な知識に関する不均衡、美咲の行方を「知っている＝知らない」という不均衡が画面で炸裂します。雑談している「はっぴーず」のふたり組を<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が発見する「縦の構図」の場面でも同様であります。また、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が手紙をしたためる場面でも、最初に「縦の構図」、篠塚の登場もまた「縦の構図」で正面と背面を２回描き、その手紙は「届く＝届かない」という不均衡を画面に導入いたします。この場面は、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>のマンションに向かって叫ぶ場面とも「並行モンタージュ」されておりますから、その不均衡ぶりはきわだっておりますね。<br /><br />　本番当日の舞台裏のシークェンス。最初の場面から思いきり「縦の構図」がずうずうしく姿をあらわしたかと思いきや、やはり美咲と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は追い出されてしまう。おまけにその後の縦の構図でキャメラが後退移動してゆく場面での美咲の台詞から、チケット購入をめぐる「金銭の交換関係さえも不可能」であることが視聴者に知らされます。そして。キャメラが「パンアップ」で壁をぶち抜く「トラック・スルー・ソリッド」の技法が印象的な「大探検の」場面でもひたすら「縦の構図」が使用され、舞台の開演時刻には間に合わず、「好き＝好きでない」という恋愛関係の不成立までが繰り返し描かれたあげく、仰角気味のアングルからの縦の構図で「キャメラの頭上」を美咲をのせた担架がとおり過ぎてゆく残酷さ。その直後に、ビラ配りをしている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が描かれますが、この場面でも廊下を描いた「縦の構図」が使用されており、嘘のように、彼はビラを受け取ってはもらえませんよね（※受け取る＝受け取らない）。<br /><br />　しかるに、「縦の構図」は、「視覚的な装飾性」をはるかに超えたまがまがしさを画面に波及させながら、きまって「交換関係の失敗」を描き出す機能を果たす「残酷な構図」に変貌するのであります。もちろん、「交換関係の失敗」をいささかロマティックな「すれ違い」などと、もっともらしく言い換えてみても構わないのかもしれませんな。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★９　『WHITE　ALBUM』、または赤と黒の誘惑。</span></strong><br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」の画面にあって、「赤と黒」という色彩が支配的であることは、これまでの「批評と解説」シリーズで幾度も言及させていただきました。復習の意味も込めて、これらの色彩が画面の推移においていかなる役割を演じているのか、今回の挿話にかぎって確認してみましょう。<br /><br />　アバンの冒頭で描写される藤井家の自家用車を彩る「赤と黒」。観月<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%CA" class="tagword">マナ</a>の自室の学習机に置かれたラジオカセットの「赤と黒」。彼女の部屋で、家庭教師の最中に眠りこけている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が胸に抱いているブラウニングの詩集の「赤と黒」。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と電話する美咲が身に纏っている半纏の「赤と黒」、あるいは冬屋のジャンパーのにおける「黒い生地と赤いF」の文字。演劇の本番では「暗い（※黒い）背景に重なる効果音とともに赤い照明」が舞台上に注がれておりましたね。そして「物語」の終幕まぎわの美咲が運ばれてゆく場面、「救急隊員の衣装の赤と黒・救急車の赤い回転灯・美咲に付き添う<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>が身にまとう黒い衣装」が画面の連鎖を占拠するように見えるのではないでしょうか。<br /><br />　画面における「色彩の政治学＝経済学」にあって、反復される「赤と黒」という視覚的な記号は、「物語」にいかなる変質を被らせるのでしょう。答えは、「沈黙する」という出来事を「物語」に導入するのです。「沈黙」の主題は、「声の剥奪」の変奏でもありますね。わたしたちの視聴作法にあっては、くりかえされる記号の主題系が、１本、１本…の糸を構成することで、互いに絡まり合いながら、網の目のような「テクスト」を織り上げてゆきます。<br /><br />　アバンの自家用車は、時報を知らせる効果音を停止させ、目を覚ましているのに「沈黙」を保っている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の父親を真俯瞰から描いたカットを招き寄せます。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の部屋の「赤と黒」を基調とした固定電話と嘘としか思えない共鳴音を響かせるラジカセと詩集は「ハーモニー」におけるキャラクターたちの「沈黙」を「物語」に導入します。美咲のいかにも所帯じみた半纏姿は、「階段という特権的な舞台装置」を背景に描かれる森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の電話の不通状態＝「沈黙」を惹き起こしていますね。このふたつのカットはほぼ同じ構図におさまっていることも指摘しておきましょう。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>のジャンパーは「声の剥奪」を惹き起こすと同時に、「大探検」の場面ではなぜか着脱されている点を見逃してはなりません。「赤と黒」のジャンパーを脱ぎ捨てた彼は、暗い舞台裏で饒舌に台詞を継いでゆくかに見えますが、接吻、さらには舞台裏からの撤退を強いられますよね。つまり、美咲に対する「沈黙」を確かに強いられているのです。演劇の表舞台における照明の演出は、誰の目にもあきらかなように、爆発音の効果音と重なることで、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%C4%B4%DD" class="tagword">田丸</a>を一瞬、「沈黙」させます。美咲が救急車に運ばれてゆく場面では、倒れてしまった美咲は「沈黙」せざるをえず、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%B4" class="tagword">彰</a>の台詞なども画面に認めることはできません。さらにその直後の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>のビラ配りの場面では、「モンタージュ・シークェンス」の技法が使用されておりますから、ひたすら「沈黙」を強いられている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>を描いたカットがつらねらます。そしてけっして見逃してはならないのが、その「沈黙」ぶりをきわだたせて見せるかのように、いささか淡白なフォントの「浮き文字」が、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「内面の声」であるかのように、画面にあらわれては消えてゆくことなのです。<br /><br />　ですからまとめますと、今回の挿話においては、「赤と黒」という色彩のカップルが、きまって「沈黙する」という出来事を「物語」に誘惑しているかのように見えるのであります。<br /><br />　　<strong><span style="color:#FF0000">☆関連</span>　</strong><a href="http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20090227" target="_blank" title="反＝アニメ批評さん：『とらドラ！』における赤の誘惑～『とらドラ！』第２０話の色彩をめぐって">反＝アニメ批評さん：『とらドラ！』における赤の誘惑～『とらドラ！』第２０話における色彩をめぐって</a><br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１０　澤倉美咲と高本めぐみ。</span></strong><br /><br />　あまり衆目を集めている気配はございませんが、澤倉美咲を演じている高本めぐみさんについてもお話しておきましょう。彼女自身の細やかなプロフィールはネットで検索していただきたい。いま、指摘されるべきは、役柄や彼女自身のキャリアの影響も多分にありますが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあって、典型的な芝居を免れているのが彼女だけかもしれないということです。ごく正確に言って、澤倉美咲というキャラクターに高本めぐみさんの芝居が見事に応えている。同時代的なアニメの感性からはあっさり背を向けながら、これしかないと感じさせる彼女の微妙な声の演技は、メロドラマの湿った風土を的確にかたちづくっていますから、「これはなかなか、したたかな声優だ」と思いがけず耳を奪われるのではないでしょうか。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さんや<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%BF%CC%EE%B0%BD" class="tagword">平野綾</a>さん、戸松遥さんといった有無を言わせぬキャスト陣にあって、升望さんは別格としても、まぎれもなく高本めぐみさんの芝居は、複雑な陰影だの華麗なる存在容態だのとはあからさまに無縁な、「高度な自然さ」を画面にみなぎらせているようにみえます。人が軽い驚きを覚えざるをえないのは、彼女がいかにも見事な画面との同調ぶりで、すーっとその存在感を消してみせる点でありましょう。端的に言うのなら、彼女が「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」で話題として取り上げられる機会が少ないのは、相対的な人気や知名度の問題ではなく、絶対的な資質なのではないか、などと人につぶやかせる瞬間が確かに存在するということです。<br /><br />　<br /><br />　それでは本日はこのあたりにしておきましょうか。ここまでお付き合いしてくださったみなさま、どうもありがとうございます。<br /><br /><br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-03-02T10:50:42+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<item rdf:about="http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-278.html">
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<title>『WHITE ALBUM』（第8頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第８頁（※第８話）についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？　★１　「十字架」の不吉な予兆　さて、視聴者が思いがけず不吉な「しるし」を見て取らざるをえないのは、画面にあらわれる「十字架」のイメージです。　レコーディングスタジオの屋上の場面。いかにも意味深長な会話劇が藤井冬弥と緒方理奈によって演じられます。屋上の金
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<![CDATA[ はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第８頁（※第８話）についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１　「十字架」の不吉な予兆</span></strong><br /><br />　さて、視聴者が思いがけず不吉な「しるし」を見て取らざるをえないのは、画面にあらわれる「十字架」のイメージです。<br /><br />　レコーディングスタジオの屋上の場面。いかにも意味深長な会話劇が藤井冬弥と緒方理奈によって演じられます。屋上の金網を背景にして、いささか落ち着きを欠く理奈の振る舞いは、金網に両手をかけることによって、「十字架」のイメージを２度、繰り返して見せます。<br /><br />　さらに１１月２９日に迫る学園祭のために、冬弥の実家で彼と澤倉美咲は舞台の小道具なり衣裳なりの制作に勤しむ場面が描かれます。ここでも嘘のように、「十字架」のように見える木製らしき短剣をふたりが制作しておりますね。<br /><br />　今、指摘させていただいた場面における「十字架」のイメージは、きまって「由綺との離反」という出来事を「物語」に導入いたします。前者の場面は、由綺の「素のヴォーカル」を聞いた直後の場面ですから、理奈の「（スタジオに）戻らないか」という誘いを冬弥がきっぱりと拒絶することは、「素のヴォーカルの由綺」からの「離反」と同義でありましょう。後者の「実家」の場面は、「モンタージュ・シークェンス」の技法の中に組み込まれておりますが、その直前のカットで「冬弥のアパート」に電話するテレビ局内の由綺が描写されております。言葉を変えるなら、この「実家」における不吉な「十字架」のような短剣作りの作業が、冬弥を由綺から「離反」させているように見えるわけです。<br /><br />　けれども今回の挿話にあって、画面の連鎖にただならぬ不吉さを波及させながら、それ以上に画面をひきしめている「十字架」のイメージか確かに存在しております。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★２　「縦の構図」と「横の構図」、あるいは「十字架」について。</span></strong><br /><br />　勘のよろしいみなさんはお気付きでしょうし、わたしも以前から何度も指摘してきましたが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションは、まぎれもなく今期放映されているテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の中で、もっとも「縦の構図」と「横の構図」に自覚的な作品であります。<br /><br />　「縦の構図（※ディープ・ステージング）」とは画面の奥行きをきわだたせる構図のことであり、たとえば、長細い廊下や高架下で向かい合う冬弥と理奈、あるいは河島はるかと観月マナがいかにも悪人めいた連中と対峙する祭に使用されていた構図であります。この奥行きをさらに強調する場合は、「ディープフォーカス」と言って、前景のキャラクターなり事物なりをピンぼけさせて、後景の人物に焦点を設定します。それに対して「横の構図（※プレーン・ステージング）」とは、要するに演劇の舞台のような平面的な舞台にキャラクターを乗せて、側面から彼らを描きます。<br /><br />　今回の挿話はおよそ、２８０～２９０カットで程よく「コンテ割り」されておりますが、「縦の構図」と「横の構図」が頻繁に使用されるあまり、交錯する「縦と横の線」が画面の連鎖において、見事に「十字架」のイメージを描き出してしまいます。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあっては、第１話の電車とテレビ局の卓越した「縦の構図と横の構図」の交錯ぶりは目を見張るものがございますし、冬弥が理奈のアルバイト・マネージャーとして初めてテレビ局にやってくる挿話でも、、局内の廊下で交錯する「縦と横の構図」の圧倒的な不気味さが、見る者の度肝を抜いてくれるでしょう。しかるに今回の挿話でも決定的な場面にあっては、きまって「縦の構図」と「横の構図」が使用されており、「十字架」のイメージがしかるべき的確さで画面の推移を活気づけているのです（※例外的に物語の終幕間際では真俯瞰からの魚眼＝広角パースで室内が描写されております）。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★３　「クロス・カット」、あるいは「十字架」について。</span></strong><br /><br />　「クロス・カット（≒クロス・カッティング≒並行モンタージュ）」という技法についても、わたしはこれまでに何度も指摘してまいりましたね。この技法は、ある作品が「メロドラマ」であるかどうかを識別する重要な符牒（※しるし）にさえなる見逃せないテクニックです。<br /><br />　おさらいいたしましょう。「クロス・カット」は、異なる複数の空間で同時的に生じている出来事を交互に編集することで、緊張感や切迫感の印象を生み出します。そして「サスペンス（※宙吊りの状態）」に巻き込まれた視聴者の緊張感や切迫感の解消＝カタルシスのために、最終的に同じひとつの場面で複数の出来事・それを担っているキャラクターを遭遇させて見せるわけです。<br /><br />　たとえば今回の挿話ですと、屋上での冬弥と理奈の会話劇の場面に、はるかとマナが悪漢たちと対峙する危機的な状況が描かれます。そんなはるかの危機を視聴者でもない冬弥は知るわけもないのですが、きっちりとふたりはあの「幻想的な場面」の直後、冬弥の部屋で遭遇している。マナの場合も冬弥と遭遇したことを知らせる家庭教師の短い場面がしたたかに挿入されておりましたでしょう。そして、いかにも劇的なのは、「モンタージュ・シークェンス」と「画面分割」の技法を介して、ひたすら視聴者を焦らし続けた冬弥と由綺が、嘘としか思えないデタラメさで遭遇することでしょうか。<br /><br />　けれども、見逃してならないのは、この反復される「クロス・カット」というテクニック自体が、文字通り、「十字架（※クロス）」のイメージを画面の連鎖に刻みつけるかのようにみえることでありましょう。しかるに、「十字架」というイメージが、あからさまに「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」の画面を活性化している事実に、見る者は気づくほかはないのであります。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★４　不在、あるいは「嘘を吐くこと」</span></strong><br /><br />　今回の挿話にかぎるなら、突然、隣にいた人物が姿を消すという事態が視聴者を不意打ちするでしょう。さらには、その変奏として、「そこにいるべきはずの人がいない」という事態にさえも、視聴者は頻繁に直面いたします。<br /><br />　もっとも判りやすいふたつの場面を思い出してみましょう。ひとつめはいかにも悪人めいた二人組を追い払ったはるかとマナが並んで歩く場面です。キャメラ（≒画面のフレームは）彼女らの歩みにしたがってゆっくりと後退移動してゆきます。彼女らは冬弥というキャラクターの設定を巧みに利用することでお互いに嘘を吐いて見せます。つまり冬弥の不在が彼女らの「嘘を吐く」という出来事を物語に導入しているのです。<br /><br />　もうひとつは、はるかと冬弥が緒方理奈の誕生日プレゼントを購入しにゆく場面です。ここでもふたりを画面に映し出すキャメラはゆっくりと後退移動してゆきますね。この場面でもショーウィンドウ越しに「円環」のイメージを無数に形成している指輪のなか、涼しい顔で描写されている「十字架」の装飾を見出せることを見落とすべきではないでしょう。冬弥による、高校生の頃の駅舎での他愛のない誕生日をめぐるやりとりを描いた回想シーンが終わりますと、唐突に、はるかが姿を消して見せますよね。そして、あたかも「自分も誕生日には運動靴が欲しいなあ」と物欲しげな視線を送っているはるかの側に冬弥は駆け寄ってきます。すると、画に描いたとしか思えないデタラメさでその光景がマナに目撃されていることが視聴者に知らされます。前回の美咲との買出しを目撃された場合と同様に、「あれが由綺」とつぶやくマナから冬弥は「勘違い」されてしまうわけですが、結果的に遙かの消失、さらには由綺の不在という事態が、マナに対しては「嘘を吐くこと」として機能してしまっている。<br /><br />　しかるに、いかにも胡散臭い不穏さを「物語」に浸み込ませる「嘘を吐く」という出来事は、画面のいたるところで反復されるのですが、きまって、そこには「誰かがいない」。言葉を変えるなら、「誰かの不在」が「嘘を吐く」という出来事を物語に導入するための前提条件を担っているように見えるのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★５　夢と回想、あるいはひそやかに成立する対話。</span></strong><br /><br />　多くの視聴者が思わず目を奪われてしまう場面と言えば、ことによると、河島はるかの夢の場面と冬弥の回想シーンかもしれません。<br /><br />　ほとんど「繋ぎ間違い」ではないかと思わせかねない「反＝親切」ぶりで篠塚弥生の電話の場面と由綺の電話の場面が続きますと、いきなり原始的な「ストレートカッティング」であらわれる「ボトムショット（※真下）」で描かれた回転する森林の繁茂ぶりが、見る者を激しく動揺させます。その圧巻の映像に「子供の泣き声とひぐらしの鳴き声」が重ねられます。この象徴的な夢の場面は黒画面へのフェードアウトで終わるのですが、消え行く映像にはマナの「嘘つき！」という加工（※リバーブ加工）された台詞が重なります。この夢の場面における最初のカットと最後のカットが人の耳を惹きつける音声のイメージに挟まれているという点は、冬弥の回想シーンと遙かに共鳴音を響かせております。というのも、彼の回想においては、音先行という音響演出で冬弥の笑い声がフラッシュバックによる白画面に重ねられ、回想の締めくくりにあっては、再び白画面へフェードアウトしてゆく映像に、マナとまったく同じ制服を身に纏った高校生の由綺のリバーブ加工された台詞が重ねられているからです。<br /><br />　さらには、夢の場面ではマナと彼女の持つ懐中電灯からやってくる「目もくらまんばかりの青い光」が、これまた、回想シーンでは画面の奥から「もの凄い速度で画面の手前にやって来る電車」とほとんど同じ輪郭におさまっている点をけっして見逃してはなりません（※まるでヴォーカルレッスンを受けたことがあるかのようなマナによる、大きな叫び声をあげる場面でのキャメラの素早い後退移動も、これとほとんど同じ輪郭におさまっています）。<br /><br />　わたしたちは、精神分析めいた「夢解釈」ではなく、この夢と回想の類似性にこだわってみたい。というのは、このきわめて類似したイメージで構成されている「非＝現実的」なふたつの場面は、緊密な連繋ぶりを演じているからであります。どういうことでしょうか。それは、「はるかの夢」は由綺が「どうしちゃったのかな、冬弥くん…？」とつぶやくカットによって導き出されており、「冬弥の回想」は「少しだけ…現実になっているじゃないか」と由綺に返答する冬弥のカットで締めくくられておりますから、あたかも両者は、由綺と冬弥の対話からなるシークェンスを構成しているかのように見えるということでございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★６　「中断すること」、あるいは「視覚的な不均衡」。</span></strong><br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあって、「中断」という主題はきわめて重要であります。というのも、シリーズの全編にわたって、肝腎な場面や描写はどういうわけか回避・省略・迂回される傾向があるからです。それはたとえば、性描写に関してとりわけ顕著ですし、各話の構成にあって、「反＝カタルシス」・「反＝クライマックス」という発想が選択されることが多いという事実からもあきらかでございましょう。<br /><br />　簡単に画面を追跡してみますよ。Aパートの冒頭では、冬弥が「由綺の素のヴォーカル」を聴くことを「中断」いたします。はるかに絡んだ男たちは、マナにより目的の「中断」を余儀なくされますし、はるかは胸を触れられて強いショックを受けたかのように倒れたり、自転車の車輪の回転の「中断」に続くマナの消失により、彼女らの会話は「中断」されます。理奈のレコーディングの同伴も冬弥は「中断」して帰宅の意思を告げます。翌日、冬弥は着替えを取りにアパートに帰ることで、美咲との作業は「中断」されてしまい、「モンタージュ・シークェンス」の場面では、美咲の後姿をなめるように眺める冬弥の作業の手は「中断」し、彼をバイト先の喫茶店から自宅まで送る自動車も当然、自宅前で走行を「中断」いたします。画面分割の場面では、由綺は冬弥への電話を「中断」せざるをえず、彼はマナの家庭教師の最中に居眠りすることで職務を「中断」しております。１１月２３日には冬弥の自宅にかかってきた電話をとるために美咲は作業を「中断」いたしますし、由綺はまたしても冬弥との会話の「中断」状態を受け入れざるをえなくなります。理奈の誕生日プレゼントの購入場面の描写は省略され、かわりに、冬弥の回想とはるかの消失が同じ場面に「中断」という主題を持ち込んでおりますね。１１月２４日の緒方英二と神崎社長の電話での会話は前者により強引に「中断」されていました。１１月２６日。眠りこける美咲は作業を「中断」しておりますし、「♪ハッピバースデ～」の歌は容赦なくはるか→マナ→場面転換というコンテ割りによって「中断」されてゆきます。さらには長尺の静止画を浮き文字だけで成立させる大胆な場面でも、冬弥と由綺の会話は「中断」を重ねます。由綺のレコーディングへの冬弥の立ち会いも「中断」されてしまい、篠塚による自動車の走行を「中断」した車内でふたりのラブシーンが描かれるかと思いきや、当然のごとく、EDという時間の壁によって本編が「中断」されて第８頁は終幕いたします。<br /><br />　このように「物語」を別の視点から織り上げ直すと、あたかも今回の挿話の主人公が「中断という身振り」であるかのように見えるのだからおそろしい。それでは、繰り返される「中断」という出来事は、画面の連鎖にいかなる波紋をひろげてゆくのか。答えは「視覚的な不均衡」です。どういうことか。具体的に申し上げますと、「中断する」という出来事は、きまって「目をつぶること」・「一方的に見られること」・「目が描かれないこと」・「見えないこと」・「目が合わないこと」という風に「視覚的な不均衡」という出来事を画面に誘発することで、「物語」を推進させてゆくのであります。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★７　「視覚的な不均衡」と「フレーム内フレーム」。</span></strong><br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」という作品にあっては、現代のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションらしく、幾多の「フレーム内フレーム」が画面に氾濫しております。<br /><br />　誰もが記憶しているのは、おそらく、冬弥のお父さんが「作品内のテレビ（※フレームの中のフレーム）」で見ていた火山が噴火する光景でありましょう。このような描写を、時代設定を作品に導入させるための小ざかしい時代符牒であると批判することは、いともたやすい。けれども、設定批判など、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションを見る喜び」とはほとんど無縁な愚行であります。さらにまた、この描写に関しては、執拗に反復される「赤と黒」という「色彩の経済学」をまたしても指摘できますが、今回は措いておきましょうか。他にも「フレーム内フレーム」として、森川由綺のオーディション写真の描写も数カット存在しておりましたね。もちろん、冬弥の部屋に貼られているポスターを指摘しても構いませんよ。<br /><br />　肝腎なことは、これらの「フレーム内フレーム」として描写されている各種のメディアが、きまって「見るもの/見られるもの」という選別と排除の力学に従わざるを得ないことであります。いいかえるなら、ここにも「視覚的な不均衡」という主題を見出すことができるのでございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★８　「視覚的な不均衡」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」</span></strong><br /><br />　この「視覚的な不均衡」という主題を、わたしたちはあえて取り上げなければなりません。なぜか。電話という題材なり小道具なりにあっては、煎じ詰めるのなら、固定電話であろうが、車載電話であろうが、携帯電話であろうが、例外なく「視覚的な不均衡」を回避することができないからであります。そしてその力学圏からは、圧倒的な不特定多数のファンの視線を集める「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%A4%A5%C9%A5%EB" class="tagword">アイドル</a>（古典的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%A4%A5%C9%A5%EB" class="tagword">アイドル</a>であれ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%A4%A5%C9%A5%EB" class="tagword">アイドル</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>であれ）」もまた、けっして逃れることができないからです。<br /><br />　さらに決定的なのは、そもそも「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」という作品とそれを視聴する圧倒的多数の視聴者の間にも、原理的に「視覚的な不均衡」が機能しているという事実です。それだけではなく、『WHITE ALBUM』とは「フィクションと呼ばれる何モノか」ですから、視聴者にかぎらず、制作者との間にも、「視覚的な不均衡」が存在していることは確かであります。申し上げるまでもございませんが、制作者もまた、視聴者と同じように「フィクション」ではございませんからね（笑）。<br /><br />　しかるに、今回取り上げただけの細部に過ぎない「視覚的な不均衡」は、かくも緊密に、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」と呼ばれる作品と連繋しながら機能しているのであります。この慎ましやかな周到さを、けっして見逃してはなりますまい。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★９　 「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>」と呼ばれる「スタア」。</span></strong><br /><br />　第５頁では、川沿いの道路を舞台にして篠塚弥生を演じる朴さんが殺気立った凄まじい長広舌を披露なさる場面がございましたよね。今回の挿話では、駐車場をも兼ねているらしきレコーディングスタジオの屋上を舞台にして、緒方理奈を演じる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さんの素晴らしい長台詞が、見る者を画面に惹きつけます。<br /><br />　とりわけ緒方理奈という配役にあっては、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>」という<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>だけに許された特権を享受するかのような晴れがましさをこそ特筆すべきでございましょうか。ふたつの場面にわたって、内省的な台詞と挑発的で悪戯めいた台詞を的確な呼吸で使い分けながら、彼女はみずからの圏域に冬弥を演じる「前野智昭」をゆるやかに吸収してみせます。やれ声音（※こわね）が多彩だの的確な感情表現だの音域の広さだの、そういう問題とは無縁な場所で、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>」は輝きを放っていると言うほかはない。まぎれもない「スタア」としての彼女の資質は、アグレッシブに状況を変容させながら、同時に見る者のまなざしを武装解除に誘うのであります。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>批評にあっては、「スタア論」が著しく欠如しておりますから、水樹さんの存在が、そのような欠如を埋めることを切実に願わずに入られませんな。<br /><br />　<br />　はてさて、そのようなわけで本日はこの辺りにしておきましょうか。お付き合いしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。　<br /><br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-02-22T10:09:40+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『WHITE ALBUM』（第７頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第７頁（※第７話）についてのお話でございます。　★１　「泣くこと」、あるいは「声の不在」。　アバンからいきなり見る者を惹きつけるのは、観月マナが自宅でひとり、夕食をとる場面です。何かに憤ったかのように彼女はぶっきらぼうに桶の中の寿司をすべてゴミ箱に捨てております。けれど、見逃せないのは次ですね。彼女は律儀に寿司桶を水洗いするので
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第７頁（※第７話）についてのお話でございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１　「泣くこと」、あるいは「声の不在」。</span></strong><br /><br />　アバンからいきなり見る者を惹きつけるのは、観月マナが自宅でひとり、夕食をとる場面です。何かに憤ったかのように彼女はぶっきらぼうに桶の中の寿司をすべてゴミ箱に捨てております。けれど、見逃せないのは次ですね。彼女は律儀に寿司桶を水洗いするのです。このカットの残酷さは、マナが背後から描かれているため、彼女の表情が描かれず、その身体が流れ落ちているはずの水道水の描写を覆い隠していることです。流れ落ちる水道水の効果音だけが、映像に重なります。それはあたかも、「マナの見えない涙」であるかのように孤独に響きわたります。<br /><br />　続いて同じアバンの場面ですが、レコーディングを終えたらしき森川由綺は、響き渡る無言の拍手と緒方理奈の寡黙なピースサインに触発されたかのように、思わず「涙」を流してしまいますよね。<br /><br />　さらに物語の終幕まぎわ。夜も更けた誰もいない冬弥のアパートの部屋の前。「お兄ちゃん」と口を滑らす河島はるかまでもが感極まって涙を流してしまいます。彼女の台詞からあきらかなのは、「冬弥がいない」という事実より、「冬弥との言葉のやりとり」の不在が、彼女の「涙」を誘発したかのように見えることであります。<br /><br />　しかるに、今回の挿話に見出される「泣く」という出来事は、きまって「声の不在」が惹き起こします。観月マナの場合など、執拗にインサートされる「文字だけのカット（※母親の「ヴォイスオーバー」が重なる演出は断固として回避されます）」が「声の不在」をきわだたせているのではないでしょうか。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★２　「歌の欠如」、または二重の「黙説法」。</span></strong><br /><br />　さしあたりは今回の挿話に限定させていただきますが、奇妙なことに、視聴者は「アイドルたちの歌」を聴くことができません。<br /><br />　「森川由綺が歌う」場面は、こともあろうに、レコーディング直後から描かれます。また神埼社長が率いる音楽事務所の「作詞・作曲・演奏までこなしてしまう才女」・「まつやまめのんの歌」は、ラジオから歌が聞こえ始める直前に、どういうわけか観月マナが妨害いたしますよね。そして挿話の最後の場面、「緒方理奈の歌」は「画面分割」の技法とともに、「桁違い」という「浮き文字」を画面に残して、白画面に「フェードアウト」してしまいます。<br /><br />　「シリーズ構成」といういささか穿った見方をするなら、すべてが次回以降の「伏線」になっているように見えるのですが、ここではふたつのテクニックを指摘させていただきたい。ひとつめは、「黙説法」という技法です。すべての歌を視聴者は聴くことができないのですが、きまって歌に関する明確な「情報」が与えられます。由綺の場合は「相当に歌い込んだ出来映え：ミキサー談」、めのんの場合は「素人じみた桜団との対比で本格派：マナ・冬弥談」、理奈の場合は「桁違い：（おそらく）冬弥談」という風に。ですから、言葉を換えるなら、「歌を直接的に描かず、間接的に描いている＝黙説法」というわけです。ふたつめは「メタ構造」です。端的に指摘するなら、視聴者はまぎれもなく「由綺≒<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%BF%CC%EE%B0%BD" class="tagword">平野綾</a>」・「めのん≒？」・「理奈≒<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>」の歌声をどこかで耳にしているはずです。いいかえると、「作品の題材（※アイドルもの）」と「キャスティング（※アイドル声優）」の的確さが「メタ構造」を発生させているということですね。<br /><br />　とはいえ、「メタ構造」それ自体はどうでもよろしい。、肝腎なことは、「メタ構造」の存在によって、「黙説法が二重に機能する」という事態の巧妙さを見落とさないことであります。しかるに、人はいかんともしがたく、「作品の本編においてアイドルの歌声を聴いてみたい」誘惑に駆られてしまう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★３　「捨てること」、あるいは「室内空間の移動」現象。</span></strong><br /><br />　今回の挿話では、冒頭から一貫して何かが「捨てられること」に目を奪われます。<br /><br />　追跡してゆきましょう。誰もいない自宅に帰ってきたマナは高校のカバンをその場に「捨て」、ゴミ箱には「捨てられた」大量の寿司が描写されますね。Aパートが始まりますと、冬弥のお父さんに挨拶する澤倉美咲が描かれますが、この場面では冬弥が父親からトイレットペーパーと雑誌を相次いで「投げ捨てられます」ね。また、「縦の構図」と特権的な舞台装置である「階段」が巧みに使用された観月家におけるマナと冬弥のやりとりでは、マナがうっかり「由綺は…」と口を滑らした後、問題用紙が彼女の手からひらりと「投げ捨てられます」。喫茶店エコーズの場面では、「投げ捨てる」かのように、美咲はぴしっと千円札をカウンターに差し出して、その場を後にしてしまう。また地下の隠し部屋の場面。「手芝居」が見る者を惹きつける会話が打ち切られた後、フロアに戻ってきた冬弥と緒方英二・理奈。だが、「真俯瞰（※真上）」から描かれた冬弥の食べ残しのカレーは、時間に急かされている状況を考慮いたしますと、「置き捨てられる」ことが推測できるでしょう。緒方英二の自動車の中の場面では、抱腹絶倒の会話劇が展開されたあげく、冬弥は美咲との関係を説明することを「放棄（≒説明を捨てる）」いたしますね。<br /><br />　「捨てること」は作劇的には「憤り」や「あきらめ」の表現として使用されることが多い。けれども、わたしたちの批評的な関心は、そのような抽象ではございません。肝腎なことは、「捨てる」という出来事が、きまって「室内空間の移動」という出来事を画面の連鎖に刻みつけることであります。繰り返しますと、「捨てる」という振る舞いは、ある人物を「室内空間Aから室内空間Bへ移行させる」きっかけとして機能しているのです。よろしければ、是非とも確認してみてくださいな。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★４　この嘘を肯定せよ</span></strong><br /><br />　以前から『WHITE ALBUM』の批評と解説シリーズを読んでくださっている方はご承知だと思うのですが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」という作品ではシリーズの全体を通して、「赤と黒」という色彩の記号が画面に氾濫しております。<br /><br />　その前提の上で今回の挿話をご覧になれば、爆笑するしかない事態に見る者の瞳は直面してしまうでしょう。まず、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあって支配的な「赤と黒の色彩」が、あろうことか、藤井家の自家用車まで占拠している事実に今回の挿話では不意打ちされるはずです。もちろん、それだけではありませんでしたね。嘘としか思えないデタラメサで、何とまあ観月マナの部屋のラジオの基調色までが、「赤と黒」なのです。<br /><br />　「色彩の政治学」はときおり、制作者の意図をはるかに超えた「無意識」を画面の連鎖に反映いたします。これは色指定（・色設・仕上げなど）にかぎらない制作現場の事実です。どんなに優秀なコンテ者や原画者であっても、本人が自覚していない「癖」が存在いたします。だが、その是非は重要ではない。そうではなく、この笑うしかないデタラメサ加減を画面の上で「肯定」するところから、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションを見る」という体験は始まるのではないか、ということです。とりわけ、実写のテレビドラマや映画と比較して、「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は馬鹿馬鹿しいくらい楽天的なもの」ですから、この姿勢は擁護されねばなりますまい。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★５　暴力の顕現、あるいはその失敗。</span></strong><br /><br />　今回の挿話では、誰もが指摘してやまぬ「暴力描写」に触れずにはおられませんね。<br /><br />　冬弥の実家の場面。美咲との儀式的な挨拶を終えた後、冬弥の父親はその場を立ち去ろうとします。そしてその直前に、「アフターサービス」と「セルフサービス」の違いを息子の冬弥に指摘され、寸止めではありますが、あからさまな「鉄拳」が父親の「視点ショット（≒主観ショット）」で描写されますね。さらにテレビ局の場面。M3の神崎社長に挨拶を済ませた由綺ですが、その直後に人物の位置関係と尺を考慮すると、荒唐無稽としか思えないでたらめな暴力が、したたかに由綺を襲います。そして物語の終盤。冬弥の部屋の前で演じられたあまりにも生なましく悲痛な升望さんの演技で見る者を絶句させた河島はるか。彼女は繁華街を彷徨するわけですが、ボコボコと街ゆく通行人と衝突し、あげく、観月マナとまでぶつかってしまいますよね。<br /><br />　このほかにも、無数に「自分で自分を痛めつける」という描写は存在いたします。たとえば、棒にぶら下がって筋トレに励む冬弥の父親を模倣するかのように、マナは冬弥からわたされた問題を解き終えた後、まったく同じ「伸び」という身振りを演じて見せるでしょう。<br /><br />　言葉にしてしまえば当然なのかもしれませんが、これらの暴力描写はすべて失敗してしまいます。どういうことかと言いますと、「視覚化（※顕在化）した暴力」はことごとく受け流されてしまうのです。この問題を考えるのであれば、「ジャンルの制約」を無視することは出来ません。たとえば、「ロボットもの」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>というジャンルでこれだけ頻繁に「暴力」が発動したら、経験的にですが、間違いなく連鎖的に暴力を生み出して、その結果、いわゆる「ケンカ」という出来事が物語にすがたをあらわすでしょう。けれども、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあってはそうでない。<br /><br />　「暴力の顕現」はきまって「暴力をやり過ごす」という出来事を画面に呼び起こすのです。「暴力が暴力を惹き起こし、弁証法的にケンカが開始され、終結する」のであれば、これは古典的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションです。しかし、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあっては暴力が暴力を惹き起こし、その暴力が弁証法的に解消される」カタルシス（※解放感）を徹底して斥けます。この「反＝カタルシス」は暴力描写に限られず、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」という作品のいたるところに見出され、固有の磁場をかたちづくっているのです。この「反＝カタルシス」が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>史的な正当性を持っている点を見抜いて評価しないかぎり、「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は子供のもの」であることを決してやめはしないでしょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★６　物語言説と物語内容</span></strong><br /><br />　いくつかのサイト・ブログさんの「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」についての記事を読ませていただいておりますと、「時間がほとんど経過していない」という指摘を見かけることがございます。<br /><br />　これは正しい指摘であります。あえて解説するならば、「物語言説と物語内容における時間の不一致」を技法的に利用しているということです。ようするに、作品がはじまって１月以上が経過しているが（※物語言説のレヴェル）、作品の中では１ヶ月どころか３週間も経過していないじゃないか（※物語内容のレヴェル）ということです。早い話が、長い時間をかけて、集中的に歴史的なある一時期、すなわち１９８６年の１１月という実在した日付を描きたいということですね。これは技法としては膨大なパターンが<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の歴史にございますから、それ自体では評価対象にはなりえません。<br /><br />　そこで、作品の画面外の事象、すなわち時代設定に目をむけて見ましょうか。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★７　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」に秘められた野心</span></strong><br /><br />　まず今回の挿話から判ることを考えてみます。みなさんもご存知のとおり、神崎社長が率いる「桜団」というアイドルユニットは、かなり戯画化された「お二ャン子クラブ」のパロディーにみえます。観月家において、マナと冬弥の間でかわされるさり気のないアイドル談義は皆さんも覚えていらっしゃいますよね。マナはキッパリと桜団を「素人の寄せ集め」と言い切って見せますし、それに対して緒方理奈やあるいは「まつやまめのん」、将来的には「森川由綺」さえも、古典的なアイドルとして「桜団」と対比されているようにみえるのではないでしょうか。けれども、歴史的な事実にあっては、「古典的なアイドル像」が「素人の寄せ集め」に圧倒され、その下地を背景にして「アイドル声優」が、そしてそれに対応するかたちで『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%FE%BE%AF%BD%F7%C0%EF%BB%CE%A5%BB%A1%BC%A5%E9%A1%BC%A5%E0%A1%BC%A5%F3" class="tagword">美少女戦士セーラームーン</a>』（１９９２）と『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%B7%C3%CF%CC%B5%CD%D1" class="tagword">天地無用</a>』（１９９２）以後に顕在化する「マルチヒロイズム型<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」が「萌え＝美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」として、時代を席巻いたします。<br /><br />　ここで忘れてはならないのが、「おニャン子クラブ」の結成が１９８５年、すなわち、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」の時代設定である１９８６年のわずかに前年であったということです。何が言たいかというと、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」におけるアイドルたちは、現在の「アイドル声優」たちが誕生するか否かという「歴史のクリティカル・ポイント」に位置している人物であるということであり、当代を代表するトップ声優（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さん→<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%BF%CC%EE%B0%BD" class="tagword">平野綾</a>さん→<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B8%CD%BE%BE%F4%A3" class="tagword">戸松遙</a>さん）たちが、その「起源」を<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品においてあらためて反復するという事態が担っている「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの歴史に対する批評」性なのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★８　俗・「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」に秘められた野心</span></strong><br /><br />　さらに１９８６年という西暦にこだわってみるならば、これは言うまでもなく、日本のNTTで「携帯電話」が誕生する１９８７年の前年だということです<br /><br />　繰り返して「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」が携帯電話のない時代の物語であるというアナウンスがなされていたことはみなさんもご承知でございましょう。そんな宣伝文句はテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションとはほとんど関係のない資質の持ち主が考えるものですが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」にあって、いかにも狡猾だと見る者を驚かせるのは、自動車に付属している「車載電話」の存在であります。「携帯電話」という小道具がテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションのみならず、あらゆる物語・芸術に強制した変質は誰も否定できませんよね。そして間違いなく、「携帯電話」という小道具が、あからさまにテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションにおける「映像言語」を変容させたことも否定はできませんよね。<br /><br />　そのような歴史性に目配せするかのように、１９８６年という、あまりにもしたたか過ぎる時代設定のもと、いわゆる一般家庭における「固定電話」や「（文章の）書き置き」文化を「携帯電話」文化へと架橋するために実在した「車載電話」が作品において、無視し得ない機能ぶりで画面を動揺させるとき、見る者は「ノスタルジー」とは無縁なかたちで、思いがけず「感動」の一語をつぶやかざるをえないのであります（※固定電話━車載電話…→携帯電話）。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★９　時代考証的リアリズムと批評的リアリズム</span></strong><br /><br />　わたしは『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B3%A1%BC%A5%C9%A5%AE%A5%A2%A5%B9" class="tagword">コードギアス</a>』シリーズは大好きですし、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%DE%BD%F1%B4%DB%C0%EF%C1%E8" class="tagword">図書館戦争</a>』に関してさえも、必ずしも否定派ではございません。ただ、それらの作品が目配せした「時代設定」とは全く無縁の批評性が、『WHITE ALBUM』には確かに宿っているようにみえるのです。それは「眉毛の太さや髪の毛の色といった時代考証的なリアリズム」の尺度ではけっして批評することのできない、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」に固有の貴重さではないでしょうか。<br />　<br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１０　オマケ</span></strong><br /><br />　☆第６頁の批評と解説でも告知させていただきましたが、twitterを始めてみました。そちらでもいろいろと発言しておりますので、お気軽にフォローしてくださいな。<br /><br />　それでは本日はこの辺りにしておきましょうか。ここまでお付き合いしてくださったみなさん、どうもありがとうございます。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-02-16T02:46:03+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『WHITE ALBUM』（第６頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第６頁（※第６話）についてのお話でございます。「物語」はいよいよ、折り返し地点に差し掛かりますよ。　★１　狡猾にして華麗な「クロス・カッティング」　アバンからAパート冒頭の場面にいたるまで、驚異的というほかない素晴らしい「クロス・カッティング」の技法がいきなり見る者を不意撃ちいたしますね。　「クロス・カッティング」は「並行モンタ
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<![CDATA[ 　　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第６頁（※第６話）についてのお話でございます。「物語」はいよいよ、折り返し地点に差し掛かりますよ。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１　狡猾にして華麗な「クロス・カッティング」</span></strong><br /><br />　アバンからAパート冒頭の場面にいたるまで、驚異的というほかない素晴らしい「クロス・カッティング」の技法がいきなり見る者を不意撃ちいたしますね。<br /><br />　「クロス・カッティング」は「並行モンタージュ」と呼ばれることもあります。これは異なる空間で生じた複数の出来事を交互に編集することで、時間的な同時性と推移をきわだたせ、最終的にはそれら複数の出来事を同じひとつの場所で遭遇させて「サスペンス（※宙づりの状態）」を解消させるテクニックでございます。<br /><br />　とはいえ、テクニックとしてはさほど面白いものではなく、やたらな人が使うときわめて凡庸で弛緩した画面の連鎖を見る者は強いられます。ではどうするか。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」の答えはこうです。すなわち、「カット・バック（※回想）」を使って「現在と過去」という異なる時間に生じた出来事を「クロス・カット」しよう。さらには、藤井冬弥と澤倉美咲の「クロス・カット」でありながら、同時に冬弥と森川由綺との「クロス・カット」も同時にやってやれ。そして、視聴者にお手頃な「カタルシス（※サスペンスの解消）」を与えることを避けるため、いずれの「クロス・カット」も「反＝クライマックス」として失敗させてやればよい。<br /><br />　その結果、冬弥は美咲との会話を回想しながら由綺のマンションに向かうのですが、篠塚弥生とその自動車に気圧されるかのように、彼は由綺のマンションの前から引き返してしまうのです。この「シークェンス」では、「過去の回想」に属する美咲の音声だけが「オフ台詞」で「現在の冬弥」を描いたカットに重ねられる音響演出の妙技をよそに、冬弥が階段を昇ると、背の高いマンションがそびえ立っており、その中に幽閉されている「由綺＝お姫様」を「篠塚＝門番」が監視しているという、いかにも図式的な舞台が涼しい顔で仕立て上げられています。そんな象徴的な舞台での「クロス・カット」は多くの場合、挿話の終幕まぎわに配置するものと相場がきまっておりますね。ところが「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」はそれをしない。あえて冒頭に配置して、そこから今回の挿話を紡ぎだしてゆくのです。そして、この荒っぽいデタラメさが呆気ない場面転換を迎えるのだから、視聴者は途方にくれてしまう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★２　ファースト・シークェンスからの演繹</span></strong><br /><br />　では、この茫然自失ぎみの視聴者を、画面の推移はどのように導くのでしょうか。答えはこうです。冒頭に配置された「クロス・カット」の「シークェンス」を見た者が、意識的・無意識的に視界におさめた幾つかのイメージ群を連鎖的に繋いでゆけばよい。<br /><br />　そこで、それらを簡単に追跡してみようと思います。具体的には、記憶、光源、コーヒーカップ、「主観ショット」による「ドリーアップ」のテクニック…などなどでしょうか。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★３　コーヒー、あるいは「出会い損ねること」。　</span></strong><br /><br />　まずはわかりやすく「コーヒーカップ」を追跡してみましょう。以前も指摘させていただきましたが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」という作品では第１頁（※第１話）から、ひたすら「コーヒー」のイメージが画面に頻出いたします。今回もその延長に位置づけられると考えてください。<br /><br />　ファースト・シークェンス。篠塚の妨害で冬弥との「遭遇」に失敗した由綺ですけれども、彼女は健気にも空の「コーヒーカップ」を「ふたつ」、テーブルに並べる描写がございました。場面転換いたしますと、そこは翌日の夕凪大学。食堂かラウンジらしき場所に向かい合って座る冬弥と七瀬彰の「ふたり」。すると嘘のように「紙コップに入ったコーヒー」が確かにふたつ。さらに街で舞台衣装の材料を買い集めるふたりは、「白く彩色された食器」という意味で、「コーヒーカップ」の変奏であるお皿をショーケース越しに発見いたします。こちらは「ふたつ」ではないですが、「きれいに積まれたお皿」と「そこに立てかけられたお皿」という意味では、やはり、「ふたつのコーヒーカップ」に類似した輪郭におさまっていると指摘させてください。さらに冬弥のバイト先の「喫茶」店での篠塚とのやりとり。ここでも「コーヒー」のイメージは拭いがたい。そして、美咲が疲労困憊した様子で冬弥のアパートを訪れる場面。ここでも、あの不意にインサートされる「ハーモニー」風の「カット・バック（※回想あるいは想像）」でコーヒーを飲む美咲が描かれており、冬弥は切らしていたミルクを買うために外出まで演じてみせます。<br /><br />　では、これらの「コーヒー」のイメージが画面に導入されるとき、物語に何が起こるか。答えは、きまって「出会い損ね」という出来事が生じてしまうのです。ここまで列挙させていただいた「コーヒー」のカットの前後で必ず誰かと誰かが「出会い損ね」ておりますから、よろしければ確認してみてくださいな。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★４　「ドリーアップ」、あるいは「クロス・カット」の成功。</span></strong><br /><br />　次は「主観ショット」の「ドリーアップ」というテクニックについてお話させてください。<br /><br />　「ファースト・シークェンス」の画面を鮮烈に彩った「キャメラ（≒画面のフレーム）」ワークを思い出してください。冬弥の「主観的なまなざし」から画面の奥にそびえ立つマンション、さらには鬱蒼と生い茂る樹々が時ならぬ緑の色彩で画面に描かれており、やや仰角ぎみのアングルから「キャメラ」はさーっとなめらかに前進移動してゆきますね。これを「ドリー・アップ」と呼ばせていただきましょう。<br /><br />　この「キャメラ」ワークは再び、今度は大学の構内で使用されます。しかし、今度の「キャメラ」は主観ショットかどうか決定不可能なので視点ショットと呼びます。この視点が冬弥と美咲のものであることは、そこに重なるふたりの会話からあきらかでございましょう。「キャメラ」はむせかえるような樹々を映しだすことはなく、画面の右上端から差し込む「入射光」とともに枯れ木の間をさーっと滑走してゆきます。<br /><br />　両者を比較したときに見逃してならないこと。それは同じキャメラワークの反復において、前者では先述のとおり失敗した「クロス・カット」が、後者において成功しているということであります。ましてや後者のキャメラワークでは、ふたりが「共通の視点」を同じひとつのカットで獲得しているようにもみえるでしょう。さらに前者における時ならぬ樹々の繁茂ぶりと枯れ木があからさまに対比されており、由綺の存在を考慮するなら、前者のおとぎ話的な舞台装置に対して殺風景な後者の日常ぶりは、いかにもいたましい。ともあれ、後者がまぎれもなく前者と演繹的な共鳴関係を結んでいることは誰の目にもあきらかでございましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★５　『WHITE ALBUM』における記憶という主題</span></strong><br /><br />　そして、どうあっても見逃しえないのは、「記憶」という主題です。お気づきの方もたくさんいらっしゃると思うのですが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」は他の同じクールの作品と比較しても群を抜いて「記憶の描写」が巧い。さらに言うと数量的にも膨大でございましょう。これは偶然でもなんでもなく、そういうコンセプトで制作されているとしか思えない巧みさであります。<br /><br />　議論を混乱させないために今回の挿話に話をかぎりますね。今回の挿話でも多くの「回想すること」、「思い出すこと」（、「忘れること」）などが描かれております。しかも、「これから回想が始まりますよ」という視覚的な目じるしである「ホワイトのフェード」などはまったく使われておらず、すべてがぶっきらぼうな「ストレート・カッティング」によって、「現在の描写」とモンタージュされてゆきます。とりわけファースト・シークェンスの「クロス・カッティング」で画面の連鎖に鋭いリズムを刻みつけてゆく「カッティングワーク」の的確さは見事だというほかはない。<br /><br />　さらに誰もが指摘している冬弥の回想。食堂かラウンジらしき場所で彰と向かい合って座る冬弥。彼は「昨年はたった１度しか由綺と会ってない」ということを「思い出」します。ここでは、いわゆる「同ポジ」、すなわち３回連続で同じカットを反復してみせるという、あまりの過剰さが見る者をいきなり不意撃ちいたします。けれども重要なのは、そのようなテクニックではありません。というのも、真に見逃しえないのは、この冬弥の回想が、彰の呼びかけによって強制的に断ち切られ、結果的に会話のやりとりが「冬弥を美咲のもとへと向かわせる」ように見えることだからです。<br /><br />　そのような過激な同ポジ回想の衝撃は、何かの均衡を保とうとするかのように、冬弥と美咲の衣装の材料探しのシークェンスにおいて、美咲の恐怖心の発露でもある回想と遥かに共鳴しております。この場面では、はしゃいで身体のバランスを崩した美咲を背後から冬弥が抱きとめた瞬間、田丸の「クロース・アップ」カットが短くインサートされ、彼女は戸惑いをあらわにしてしまいます。これまでの挿話を見ておりますと、まずは河島はるかの「兄の死」の記憶が、冬弥と由綺の初めての出逢いに関する「記憶の齟齬」が、理奈の「過去のスキャンダル」が、そして美咲の「過去の心の傷」が、という風に、小出しで「記憶にまつわるエピソード」があかされてゆくのだから、確信犯的に練り上げられた巧みな構成であると同時に、主題としての「記憶」の輪郭が徐々に浮かび上がってくるのではないでしょうか。<br /><br />　さらには、冬弥の部屋の場面。コーヒーをめぐるやり取りでは、ふいにインサートされる「回想のハーモニー」をきっかけに、冬弥は外出することになりますよね。そうすると、嘘のように美咲は眠りに落ちてしまいます。だから、いくつかの「記憶」にまつわる描写をながめておりますと、やはり、ファースト・シークェンスにおける過去と現在の「クロス・カット」の記憶の描写から、画に描いたように「記憶の主題」が演繹されてゆくように見えるのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★６　「モンタージュ・シークェンス」、あるいは挑発する「錯時法」。</span></strong><br /><br />　やはり、こいつはしたたかなものだ、と見る者をさりげなく興奮させるのは、「モンタージュ・シークェンス」の場面でしょうか。<br /><br />　ついに由綺のレコーディングが始まります。ただ口だけをパクパクと動かしているだけにしか見えないガラス越しの彼女を「ミディアム・ショット」で描いたカットは、作品のジャンルが「バックヤードもの（※本当のアイドルなんてこんなもの）」であることを考えてみれば、けして手抜きと断言することは出来ないでしょう。さらに聞こえてくる抑揚を欠いた歌声が映像に重なります。「♪すれ違う～」などと由綺はしれっと歌い出し、その歌声が「（歌）台詞からBGM」に変容して、次々とキャラクターたちを描いたカットがモンタージュされ、時間の経過が描かれます。こういうテクニックを「モンタージュ・シークェンス」と呼ぶのですが、それ自体としては何ら面白くない。使い古された古典的な技法であります。しかし、見る者の目を惹くのはそれとは別なのです。<br /><br />　それはいったい何でしょうか。答えは、「モンタージュ・シークェンス」のなかで、パッと見た限りでは、何だ「つなぎ間違い」じゃあないのか、と思ってしまう篠塚弥生の衣装の変化です。カレンダーを描いた短いワン・カットを見逃していたなら、間違いなく彼女の衣装がありえない「つなぎ（※編集）」の順番でズボンからスカートに変わっているようにみえる。早計に揚げ足をとるのは、まあ少し待ってください（※どう考えてもおかしいと思った場合は遠慮なく主張しても構わないと個人的には考えています。その方が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションのためになりますからね）。<br /><br />　それは断じて「つなぎ間違い」ではありません。なぜか。以前の挿話を思い出してください。高校時代の由綺と冬弥が電車の扉越しにわかれの挨拶をかわす場面があったはずです。そこでも視聴者を挑発しているとしか思えない凄まじいカットワークで由綺の髪の毛の色を変容させ、「つなぎ間違い」の寸前で、きわめて高度な時間操作の技法（※錯時法）が使用されていたからです。今回も同じだと考えてもかまわない。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」はきわめて「反＝親切」に設計されていますから、見る者を混乱させるためとしか思えない高度な「錯時法」の使用をまったく恐れているようにはみえません。実際、今回使用された「モンタージュ・シークェンス」は、「台詞からBGM」に変容したはずの由綺の歌声が再び「BGMを経て台詞」に戻ってシークェンスを終わらせるという驚異的な超絶技巧と併用されております。このような、視聴者におもねらぬ姿勢をあえて、痛快さとして肯定したい。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★７　背景のグラデーション</span></strong><br /><br />　今回の挿話では奇妙な背景とでも言うべきものが画面に描かれていたはずです。<br /><br />　それは冬弥の部屋を美咲が訪れるシークェンスです。その室内描写において、背景の様子がどうもおかしい。それも限られた場面だけなのです。遠近法を用いる必要もなければ、フォーカス（※ピント・この場合は被写界深度）を浅くした「シャロウ・フォーカス」が使用されているわけでもない。にもかかわらず背景が水分をたっぷり含んだ水彩絵の具で描かれたかのように、あきらかに「にじんでいる」ように見えました。<br /><br />　その圧倒的な「異化効果」に人は目を奪われますが、それは不意にあらわれた「にじんだ背景」だけの効果ではありません。どういうことかと申しますと、通常背景━「にじんだ背景」━「ハーモニー」風のカットの背景というかたちで、ある種の「グラデーション」を背景が緊密に形成しており、それらの「グラデーション」があってこそ、画面に奇妙な「異化効果」を波及させているようにみえるのです。<br /><br />　それは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>の新房組」作品で多く使用されるスタイリッシュでフラットな背景とはまるで異質であり、『RIDE BACK』の人目を奪うCGIの融合背景とも一線を画しております。そして、この何の変哲もない室内空間のまがまがしい変貌ぶりに、見る者は虚を突かれた思いさえいたします。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★８　「洗練」から遠く離れて、あるいは「露悪的なもの」。</span></strong><br /><br />　今回の挿話を視聴していて思いがけず爆笑せざるを得ないのは、冬弥と美咲の買い物の場面における「切り返しショット」でしょうな。<br /><br />　「クロース・アップ」で２回だったと思いますが、その反復される「切り返しショット」において、ふたりの顔は画面の左から右へ,(美咲)、右から左へ(冬弥)と「夢遊病者」のようにふわふわと流れてゆきます。この場面では「映像のイメージ」と「音声のイメージ」が乖離するという「ソニマージュ」的な技法がいきなり使用されますから、「幻想」的で浮世離れした雰囲気が画面を包み込みます。けれども、そのあまりの唐突さは、見るものに滑稽な笑いを提供するのに充分な破壊力を備えております。だから、この「現代」的な場面は「ギャグ」として、思う存分に爆笑を炸裂させるべきでしょう。申し上げるまでもなく、この「滑稽さ」は「残酷さ」へと滑り落ちてゆきますから、それに先んじるかたちで、思い切り「露悪的なもの」が醜く誇張されているようにみえます。<br /><br />　とはいえ、これもまた、やたらな人にはできない芸当であって、多くの場合、ここまでの「露悪性」は「無意識に自主規制」されてしまいます。あるいはそのような覚悟はなかなか持ちえない。にもかかわらず、この「洗練さ」からは思い切り離れた画面の推移こそ、ほかならぬ「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DB%A5%EF%A5%A4%A5%C8%A5%A2%A5%EB%A5%D0%A5%E0" class="tagword">ホワイトアルバム</a>」に固有の作品風土であり、その魅力をかたちづくっていることは、皆さんもご承知の通りでございましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★９　オマケ</span></strong><br /><br />　☆あとは、つけ加えるとすれば、冬弥が嘘を吐く場面。眠りに落ちている美咲を背中にして、父親が痔を患っているなどという口からの出まかせを由綺に述べた後、冬弥のお母さんの遺影のクロースアップ→失笑を禁じえない屈強な父親の腕立て伏せ…というカットの割り方はいかにもセクシャルにみえます。また緒方英二の言動も仔細に見ていると、どこかいかがわしく、性的なニュアンスを帯びた台詞やそのような仕草が多々、描かれているようにもみえるのではないでしょうか。<br /><br />　☆twitterをはじめてみました。ですが、始めたばかりなので奇矯な振る舞いを演じるかもしれません（※いや、嘘です＞笑）。いずれにせよ。よろしければお気軽にフォローしてくださいな。<br /><br />　それでは、本日も長々とお付き合いいただき、どうもありがとうございます。<br />　<br />　<br />　 ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-02-10T16:30:18+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>わたしたちは声優についていかに語るのか━━声優とは誰なのか⑥</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は久しぶりに「声優」についてのお話でございます。　実はわたし、２００９年の初頭に「雑誌ユリイカ１２月臨時増刊号　総特集♪初音ミク━━ネットに舞い降りた天使」を購入していたんです。しばらく積読していたのですが、やっと目を通し終えることができました。しかるに、この雑誌を枕に「声優」を語ってみよう、と。　★１　「藤田咲」と「初音ミク」、あるいは圧倒的な不均衡。　この雑誌を読
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は久しぶりに「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」についてのお話でございます。<br /><br />　実はわたし、２００９年の初頭に「雑誌<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%E6%A5%EA%A5%A4%A5%AB" class="tagword">ユリイカ</a>１２月臨時増刊号　<strong>総特集♪<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>━━ネットに舞い降りた天使</strong>」を購入していたんです。しばらく積読していたのですが、やっと目を通し終えることができました。しかるに、この雑誌を枕に「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」を語ってみよう、と。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」、あるいは圧倒的な不均衡。</span></strong><br /><br />　この雑誌を読まれた方の感想を読んでおりますと、ごく稀に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>・「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」の固有名が欠如していると指摘されております。藤田さんと言えば、いまやアーツの看板<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>のひとりであり、言わずと知れた「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」さんですね。そこで計測してみると、驚くべき不均衡があきらかになります。<br /><br />　<strong>「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」　言及回数　６４０回(ミク・みく・初音・はちゅねミク・ローマ字表記を含めると<span style="font-size:large;">９３４</span>回)</strong><br />　<strong>「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」　　言及回数　１６回(「藤田」・「藤田氏」を抜くと<span style="font-size:large;">９</span>回)</strong><br />　<strong>「<a href="http://blog.fc2.com/tag/Perfume" class="tagword">Perfume</a>」　 言及回数　（少なくとも）<span style="font-size:large;">１９</span></strong>回<br /><br />　概算なので多少は前後するかもしれません。けれど、かくも視覚的な言及回数に溝があれば、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」の不在を指摘する方がおられるのも無理からぬ事態でしょう。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」特集とはいえ、ほかならぬ「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」のファンは悶絶必死であります。いかなる力学がそのような不均衡を生み出すのか。思いきって断言してみましょう。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」という誰も知らない概念を抑圧することで、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」を語る言説は成立しています。そこで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>批評の観点から、重要だと思われる３つの論文を取り上げてみます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★２　否定を介してあらわれる「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」</span></strong><br /><br />　まずは増田聡さんの論文・『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>から遠く離れて』を読んでみましょうか。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>批評の古典、ロラン・バルトの『声の肌理』が紹介されていますね。要するに「客観的に計測可能な声」と「もの自体としての声」を区別せよ、ということ。で、「もの自体としての声」は肉体から切り離せないという意味で身体性を前提にしている。人はその身体をこそ、「歌」において愛しているのだ。けど、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>にはその身体が見当たらない。じゃあ、その愛すべき身体はどこにあるんだ？次です。<blockquote><p>　P３９　人々の愛着はどの身体に差し向けられているのか？ソフトウェア『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>』の音声データベースの素材を録音した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>に対してではないことは明らかだ（ニコニコ動画には「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の口真似をする<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>の口真似をする<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」という三重シミュラークル作品すら存在する）。現実の身体を持つ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>と、＜<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>＞は別人格として位置づけられているし、実際に両者の「声」は「異なる肌理」をそれぞれ持つものとして聞こえる（当然ながら似ているが容易に区別できる）。</p></blockquote>雑誌の冒頭から数えて１２０回以上、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」という語をスルーしましょう。すると、読者は「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」という語に遭遇いたします。けど、いかにも居心地が悪いのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>・「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」が「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」に向けられる「愛着」と無縁であるとあっさり斬って捨てられること。すなわち、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」という固有名は否定されるためにテクストにあらわれ、配置されているのです。ここで、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」の批評的な可能性に対する、あからさまな「排除」の身振りを見ることはいともたやすい。<br /><br />　ここが「クリティカル・ポイント」です。貧弱な論拠で「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」を否定した直後のテクストによれば、「シミュレーション」の反復による「現実の声」への接近こそが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>に向けられる愛着である。しかし、「シミュレーション」が「現実の声」に到達することは不可能である。ゆえに「現実の声」を聞こうと試みる聴覚を「虚構の耳」として肯定せよ。すると、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」というテクノロジーに固有の美（※剰余）が聞こえるだろう。それは、「新しい主体性」に接続されている。とはいえ、議論の要約や真偽はさしあたりどうでもよろしい。「無意識は否定辞を介して真理を語る」などとも言わぬつもりだ。「仮想身体」論も措いておく。重要なことは、テクストの折れ目に「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」が「否定」辞とともに配置されているという、誰の目にもあきらかな事態なのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★３　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>とは誰なのか</span></strong><br /><br />　誤解のないように、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>に関する５つの公理を言い添えておこうと思います。<br /><br />　１.<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>とは、複合的なメディア・テクストの効果によって生じる万華鏡のようなイメージである。<br /><br />　２.<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>とは、れっきとしたキャラクターである。<br /><br />　３.<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>とは、記号である。<br /><br />　４.<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>とは、職業名であると同時に、ひとつの概念である。<br /><br />　５.<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>とは、ただの人間である。<br /><br />　言われてみれば当たり前なのですが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>に関心のある人ならば、誰もが承知している<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>批評の成果は、局外者が論じるとき、きまって忘れられるものです。少なくともこの国における<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>批評・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>研究はアマチュアによって担われてきました。必然的にそのような資料は「同人誌」というかたちを取ることが多い。特殊な情報網や会合さえもバラバラに存在する。それらは、だから、大学の研究者がたやすく収集・コミットできる類のものではなく、「アーカイブ」をめぐる難しい問題があるのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★４　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>と消費者」という虚構</span></strong><br />　<br />　さて、続いて、石田美紀さんの論文・『「中の人」になる…』を取り上げてみましょうか。<br /><blockquote><p>　P89　ボーカロイドは完全に身体を欠いてはいない。音声ライブラリがどれほどデータ化されていても、＜<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>＞は声を提供した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>の身体とは物理的な因果関係を完全に失っていないからである。ボーカロイドに欠けているのは、身体そのものではなく、身体の「姿」にすぎない。</p></blockquote>では肝心の身体の「姿」とは何か。信じがたいことに、その答えに該当する記述が「省略」されているのです。それが「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」のパッケージに描かれた「視覚的なイメージ」だの、「設定」だの「固有名」だの、「物語」であるとさえ仄めかされず、読者は当惑せざるを得ません。テクストは、いきなり<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>の「声」と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の「声」の違いは何かと問いかけます。前者の声は主体性を持ち、キャラクターに対して対等あるいは優位に立ち得る。しかし、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」と「物理的な因果性で繋がっている」にもかかわらず、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声は違う。<blockquote><p>　P９０　＜<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>＞に声を提供した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>は収録時を次のように振り返っている。　<br />　<br />　東京にあるスタジオに行きまして、歌詞だといただいたのは「意味のないカタカナの羅列」でした。ちゃんとメロディーもあって「流れてくる音に合わせて歌ってください」と収録が始まったんです。<br />　<br />　藤田の発言から窺えるのは、＜声もどき（※引注：ヴォーカロイド）＞がその源である＜声＞の所有者に占拠されていないことである。</p></blockquote>テクストは語ります。事実、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>が言葉を話すのは困難ではないか。ゆえにボーカロイドは「声」を保証するロゴス中心主義と断絶しているのだ。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」の声のように「主体」や「魂」に足るものではない。ゆえに<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声には「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」以外の人間が入り込む余地が生まれる。だから、消費者は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>という「他人の声」を使って「いかようにも」自分で歌えるのだ。<br /><br />　もちろん、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」がインタビューで「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の設定を知った上でイメージを膨らませて演技した」と証言している事実には触れずにおきます。あるいは、藤田さんがみずからを「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の素材である」と「メタレヴェル」から証言している事実にも触れずにおきましょう。重要なことは、このテクストが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」が「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」を使って作曲する可能性を「排除」していることです。いいかえれば、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」である「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」を「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の消費者」という捏造されたカテゴリーから「排除」することで、このテクストが理論的に成立しているということなのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★５　キットラー、ラカン、デリダ、あるいは「無意味な固有名」の羅列。</span></strong><br /><br />　次は、中田健太郎さんの論文・『主体の消失と再生…』を読んでみます。<blockquote><p>　P２００　そもそも、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声は、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>という<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>の音声ライブラリーから生み出されるものだ。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>の声を用いているという点においても、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>キャラの主体の間には、たしかな連続性があるようだ。/　しかし…<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声は、音素ごとにあらｊかじめ断片化され、データベース化されている点で、やはり<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>キャラの場合とは区別される。…われわれはセカイ系的主体を、現実界と想像界を縫い合わせることによって、あらたな主体性のあり方を再構築するものとして位置づけた。おそら<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>は、あらかじめ声を寸断されてあることによって、この主体性の再構築を徹底的におしすすめるための最適な構造を備えているのである。</p></blockquote><a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>キャラの声を区別するのは、「音素ごとにあらかじめ断片化されてデータベース化されている点」とテクストに書かれておりますよね。これはそうですね、わたしも精神分析の用語を濫用させていただくなら、ただの「誤認」です。なぜか。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>キャラの声」も、マイクを通過し、録音・加工され、編集・合成されてゆく過程で「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」たちから切り離され、いつでもどこでも持ち運び可能なデータとして、「潜在的」には「音素ごとにあらかじめ断片化されて寸断されたデータベース」状態になるからです。だから、ここで指摘されている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>キャラの声と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声のちがいは、量的な程度の差異であって、質的な差異ではございません。それをこそ、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」という「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」の固有名のもとで「たしかな連続性」としてきわだたせなければならない。<br /><br />にもかかわらず、やれキットラーだのラカンだのデリダだのと西欧人の名前を羅列したあげく、結局のところ、日本人の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」・「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」という固有名を含む文章を起点にして、テクストは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>キャラの声」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>の声」をばっさりと断ち切ってしまう。「たしかな連続性」を保証しているはずの「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」とは「そもそも」何なのだろうか、と読む者が逡巡する余地は、このテクストに残されてはいないのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★６　誰が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を殺すのか。</span></strong><br /><br />　誰もが知っており、使い古された紋切り型の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A8%A5%F4%A5%A1%A5%F3%A5%B2%A5%EA%A5%AA%A5%F3" class="tagword">エヴァンゲリオン</a>」論を展開する紙幅があるのなら、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」という「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」が、ラジオとテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の両メディアで演じて見せた「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」を論じてみせてほしい。あるいは、図像なしの「ラジオドラマ」と図像ありの「ドラマCD」の区別を論じてみせてほしい。そこでは、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>」のステータスはどのように変化しているのでしょうか。あるいは、いかにも醜悪たらざるを得ない<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>のモノマネを公共の電波に乗せる喜多村英梨はどうか。そんなことを考えたことはあるのだろうか。でたらめな現代思想もどきで「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>表現の独自性についての考察」なるものを「フランス文学者」にやられたら、「こちら」がいたたまれない。<br /><br />　さて、こうしてお話をすすめてきたわけですが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BD%E9%B2%BB%A5%DF%A5%AF" class="tagword">初音ミク</a>」を語る言説が、いかにして「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%BC%CD%A5" class="tagword">声優</a>＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」を抑圧するのか、その現場をわたしたちはきわめて大雑把に俯瞰しました。この大雑把さは非難されこそすれ、誉められるものではけっしてないでしょう。けれど、何より恐ろしいのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションを愛してもいなければ、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションが滅んでも一向に気にしなさそうな連中が、かくも横柄に「殺人事件」を理論の言葉で反復する、ということです。<br /><br />　しかるに「犯罪集団」というものは、いつだって「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」に花を添え、見る者の胸をドキドキさせる輩でなければ、画（え）にはなりますまい。<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>声優</dc:subject>
<dc:date>2009-02-07T03:25:27+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『WHITE ALBUM』（第５頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第５頁（※第５話）についてのお話でございます。物語はいよいよ中盤に差し掛かってきましたね。　★１　「水」、あるいは拒絶すること。 今回の挿話（※エピソード）では、徹底して「水のイメージ」が画面を湿らせております。しかし、それらの「水」は、循環や浄化とは無縁の「拒絶」作用を誘発しているように見えます。　本編を追跡してみましょう。たとえ
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<![CDATA[  はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第５頁（※第５話）についてのお話でございます。物語はいよいよ中盤に差し掛かってきましたね。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★１　「水」、あるいは拒絶すること。</span></strong><br /><br /> 今回の挿話（※エピソード）では、徹底して「水のイメージ」が画面を湿らせております。しかし、それらの「水」は、循環や浄化とは無縁の「拒絶」作用を誘発しているように見えます。<br /><br />　本編を追跡してみましょう。たとえばアバンの「シャワー」。この「水」を藤井冬弥が浴びている間に森川由綺は眠りに落ちてしまいますから、ふたりは「ひとつ」になれません。さらに、シャワー音と睡魔がインターホンを押したであろう篠塚弥生までも「拒絶すること」になりますね。夜が明け、彼女は冬弥を自動車に乗せて「遠回り」をするわけですが、その目的地が「川」沿いの道路なのです。キャメラ（※画面のフレーム）はひたすら「川を流れる水」を背景にしながら、由綺との「拒絶」を冬弥に強いる篠塚弥生を捉えます。彼女は冬弥をデートに誘うのですが、こともあろうに映画館を出ると「雨」が降りはじめますね。レストランで篠塚の口にする「赤ワイン」は冬弥の視線を釘付けにすることで、彼の食事を「中断≒拒絶」させ、別れ際の場面、冬弥は篠塚による買収を「拒絶して」います。その間に澤倉美咲が冬弥の部屋を訪問するのですが、彼は不在ですから、結果的に彼女も「拒絶」されるわけです。そして、冬弥は美咲との約束を守るために、電話をかけてきた緒方理奈の誘いまで「拒絶すること」になります。<br /><br />　翌日になると「雨」は上がるのですが、その事実を視聴者に知らせるための最初のカットでは嘘のように「水たまり」が描写されています。この前後の場面を思い出してみますと、直前には電話に出ることを「拒絶」された由綺の描写が、直後にはノートに文字を書いて会話する場面、不意に冬弥とのやりとりを「拒絶」して窓の外を眺める河島はるかの描写が配置されています。講義の後、彼女は冬弥を「水泳」に誘うのですが、彼は「拒絶」の意思を表明いたします。その夜、はるかから由綺の伝言の書かれた紙切れを受け取る冬弥。彼は「（篠塚が由綺の）代わりになんかなるかよ！」と啖呵を切って外出しようとするのですが、電話がかかってくるのです。電話に出る冬弥。すると、嘘のように美咲が「涙」声で泣いており、この「涙(声)」によって、冬弥から由綺が遠ざけられる（≒拒絶される）と同時に、本編の流れまで「断ち切られる」（※画面の連鎖を「拒絶」することで本編が終了する）ようにみえるのです。<br /><br />　しかるに今回の挿話では、回想シーンで不穏なリズムを刻む「水滴」の効果音も含め、「水のイメージ」が惹き起こす「拒絶」という出来事によって「物語」が紡がれてゆくようにみえます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★２　「昼メロ」、あるいは「舞台」について。</span></strong><br /><br />　ところで『WHITE ALBUM』という作品は、制作スタッフの口からでさえも「昼メロ」的と形容されてしまう作品でございます。<br /><br />　「メロドラマ」を劇作的に定義しますと、勝利をかけてふたつの価値観がぶつかる生真面目な「諍(いさか)い」のことですよね。たとえば「父と子・男と女・地球人と宇宙人のいざこざ」から「アメリカとソ連の冷戦構造」にいたるまで、すべて「メロドラマ」です。定義上、「メロドラマ」のキャラクターは「人生を劇的に生きる」ほかない者のことですから、『WHITE ALBUM』における「アイドル」という人物設定は、「人生」と「舞台(※ステージ)」を照応させる意味で、きわめて的確であることを指摘されねばなりますまい。<br /><br />　そこで、今回の挿話で見落とせないのは、何とまあ澤倉美咲までが「演劇」部で脚本の執筆さえも担当する「舞台人」であるという事実でしょうか。おまけにキャンパスのベンチに腰を下ろした七瀬彰の台詞によれば、彼が所属しているミステリー研究会の学園祭の出し物は「古典ミステリの事件現場の再現」らしい。「再現」とは英語でもフランス語でも「(劇などの)上演」という意味がありますから、「ジャンル」とひそやかに共鳴する「細部」という意味で、なかなか、したたかだと言わざるを得ない。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★３　「反映」、あるいは分身の氾濫。</span></strong><br /><br />　そして、シリーズが中盤に差し掛かることで「物語の構造」における「舞台」と「日常」の距離は、「人物配置」を介してあからさまに接近し始めます。すると、それに呼応するかのように、キャラクターや事物の輪郭も揺らぎ始めるようにみえます。<br /><br />　たとえば今回の挿話ですと、鏡、ガラス、川面、水たまり、テレビのディスプレイなどに「反映＝反射」するキャラクターやビル群の執拗さに見る者は目を奪われます。そのような描写はあわせて１５カット前後あるはずですが、テクニックとしてはいささかも奇を衒ったものではなく、むしろ凡庸きわまりない。そうではなく、その虚像のほとんどが徹底して冬弥のものであり、『WHITE ALBUM』にあっては特権的な舞台装置である電車内を描いた場面、横に並び立つ冬弥と篠塚弥生を一緒におさめたワン・カット、いきなり実像と虚像の境界線が崩壊して(※両者の識別ができなくなって)視聴者の不意を突くあたり、鈍い興奮の高まりとともに、尋常ならざるものをふとかいま見た気さえします。<br /><br />　さらに今回の挿話を見ておりますと、『WHITE ALBUM』の画面を全話にわたって色彩的に占拠している「赤と黒」の記号が、篠塚弥生が持参した傘の基調色となっており、さらには彼女が冬弥とデートしている間に彼の部屋を訪れた澤倉美咲の傘にまで「赤と黒」は飛び火しております。それだけではありません。普段の篠塚がパンツスーツにあわせている「紫と黄色」のピアス、デート時の紫の長髪が映える水色のマフラーと黄色のピアスとまったく同じ配色のネックレスを、翌日の美咲は大学で身に着けておりましたでしょう。彼女はまたしても冬弥と出会い損ねるわけですから、「反映」というにはあまりに残酷な画面の推移であります。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★４　「スナップ・カット」、あるいは分身の氾濫。</span><br /></strong><br />　何よりも恐ろしいのは、篠塚が自動車を運転しながら冬弥に緒方理奈の過去のスキャンダルを語る場面でしょうか。<br /><br />　ここでは延々と続くかに思われる篠塚の独白が画面の連鎖に重ねられますが、そのなかにモノクロ画調の「スナップ・カット」が連続して挿入されておりましたね。「スナップ・カット」とは、要するに写真のファインダー越しにキャラクターたちを捉えたかのようなカットのことです。カットとカットを浅くて短い「ブラック(かホワイト)・フェード」あるいは「フラッシュ」で繋ぎ、「かしゃっ」という効果音を重ねて（※どちらかがなくても問題はない）アクションを停止させますと、写真で今まさに撮影しているかのような印象を視聴者に与えることができます。<br /><br />　では、何が恐ろしいのか。まず、「スナップ・カット」が連続してモンタージュされているのにキャメラマンの姿を描いた描写・キャメラマンの存在を画面の背後に感じさせる手ぶれやピント合わせなどの演出が完全に省略されていること。すなわち、非人間的に「複製＝分身」である写真が自動生成されてゆくかに見えるのが途方もなく不気味であります。ふたつめ。「スナップ・カット」の直前の場面では理奈、篠塚、ふたりのいかがわしい男性関係者が描かれるわけですが、この場面も「スナップ・カット」と同じモノクロの画調であり、きわめて大胆な「カット・ズームイン」で静止画をモンタージュしているだけですから、こちらの場面も含めた回想シークエンスの全体が、「スナップ・カット」のように機械的な印象を与えるのです。そうすると、この回想シークエンスは「篠塚弥生の過去の記憶」に基づいているわけですから、彼女の語りの効果とあいまって、彼女の記憶じたいが機械的で複製的、ひいては彼女の存在じたいが機械的で複製的、あるいは「人形」的であるかのようにみえるのです。<br /><br />　この回想シーンでは、主に理奈が描かれているわけですが、彼女はこれまでの挿話で「機械」やら「ガラス(の声)」やらと形容されていたことを思い出してください。そんな複製的な理奈がさらに複製的な篠塚のイメージで描かれていることの恐ろしさ。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★５　「スナップ・カット」、あるいは視聴者＝芸能キャメラマン。</span></strong><br /><br />　そして最大の恐怖は、自動車のシークエンス全体の冒頭で篠塚がつぶやいた台詞に起因いたします。彼女は冬弥に「キャメラの気配を感じなかったか？」、「カーテンは閉じていたか？」などと質問しておりましたでしょう。彼女の回想シーンでは文字通り＝映像通り、「キャメラマン」の気配はありませんでした。さらに視聴者は冬弥が由綺の部屋でひとり、「カーテンの隙間」から漏れてくる朝の光を浴びているカットを確かに覚えているはずです。そう、わたしたちはそれを「見ており」、「知っていて」、「覚えている」。もっと言うなら、キャメラの「ファインダー」さえも「芸能キャメラマン」の「主観ショット」を媒介にして覗き見たのではなかったか。<br /><br />　しかる後に視聴者が驚かされるのは、「画面に視線を注いでいるみずから」が、実は「芸能キャメラマン」の視線に共犯者として加担しているのではないか、と気付くときなのです。その事実が、きわめて緻密かつ巧妙に篠塚弥生の饒舌で暴き立てられた結果、今後、視聴者の全員は２００８年の３月末に物語が終わるまで、もうその「共犯関係」から逃れることはできなくなってしまいました(笑)。この、恐るべき理不尽さ！<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★６　「レトリスム」、あるいは「読むこと」の試練。</span></strong><br /><br />　『WHITE ALBUM』における簡素でどこか間の抜けた「浮き文字」。そろそろ視聴者が慣れてきた第５頁(※第５話)ですけど、試練のときが訪れます。<br /><br />　たとえば、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>の「親房組」作品に見られる洗練された「浮き文字」が画面に映し出されるとき、それを「見る＝読む」ことに視聴者の多くはいかなる困難も覚えはしますまい。なぜか。それらは多くの場合、読んでも読まなくてもいい「デザイン」だからであり、あくまで画面を装飾的に彩る「過剰さ」そのものだからです。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』や『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%B5%A4%E8%A4%CA%A4%E9%C0%E4%CB%BE%C0%E8%C0%B8" class="tagword">さよなら絶望先生</a>』シリーズの「テロップ」なり、「スーパー」なり、「浮き文字」なり、「インポーズ」なりに対応するための動体視力などは必要とされません。<br /><br />　しかるに、今回の『WHITE ALBUM』はいかがだったでしょうか。美咲さんの書いた「台本」が『魂』の「シナリオ」であり、「演劇部の学園祭のための脚本」であり、「あした冬弥と大学のロビーで会いたい」旨が書かれていることを、視聴者はみずからの動体視力を使用して「見＝読ま」なければ、誰も教えてはくれません。あっという間に画面は推移してゆきます。そして、Aパートの冒頭で冬弥がくしゃくしゃにする由綺への置き手紙の文字、冬弥の「視点ショット（≒主観ショット）」から、ブランコのように右往左往する人を喰ったキャメラワークが捉えるノートに書かれた文字での河島はるかとのやりとり、さらには彼女の持ってきた紙切れはどうでしょうか。この場面では、わざわざ冬弥の「視点ショット(≒主観ショット)」で由綺が暗号で書いた紙切れが描写されますよね。「25 03 81 61 54 71 34 03 01004」と書かれていたはずです。はるかは律儀に「こんやはねません・まってます」と解読してくれます。まあこんなものは「平仮名のあかさたな～」の縦横に数字をふらずとも、誰もが解読できますが、「０１００４」を「まってます」に変換するための規則が前者とは異なっていますよね。<br /><br />　これを流れ星のように消えてゆく画面の連鎖において「見る＝読む」ためには、まぎれもない動体視力が要求されます。そして「０１００４」の規則が前者とは違うんじゃないか、と「見る」ことに成功した者のみが、なぜ、その直後に冬弥が「まってます…？？」とつぶやいたのか、さらには終幕間際、美咲と冬弥のやりとりが描かれる場面、画面にあらわれる「どうしたらいいのか/わからないのは/俺です」などの「浮き文字」の技法が「ダブルミーニング」として機能している「ギャグ」なんじゃねぇのか、などと「リアルタイム」で見て取ることもできるのであります。<br /><br />　これはなんという「不親切」ぶり、なんという「どS」ぶりでしょうか。この「融通無碍」を擁護できるなら、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの名において、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>の新房組」でさえも「まだその域に達していない」と人はたやすく確信できるのかもしれません。いいかえるなら、「フリーダム」だの「カオス」だのといった最高級の賛辞をやたらに使うべきではない、と。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★７　「フレーム内フレーム」と「もうひとつのフレーム？」</span></strong><br /><br />　さて、「フレーム内フレーム」についてですが、これは視聴者が実際に見ているテレビ画面のなかに、さらに架空の画面を描く技法のことであります。さきほどお話した写真の「スナップ・カット」もそこに含まれますし、演劇部室内に置かれた書き割りの背景画、喫茶エコーズ店内のポスター、冬弥の部屋のテレビなどもその例でございます。<br /><br />　今回の挿話で見逃しえないのは、一般的な意味で「メディア」として認知されている「写真」、「背景画」、「ポスター」、「テレビ」が「フレームの中のフレーム」として本編にあらわれるとき、人はきまって「もうひとつのフレーム」を見出すということであります。<br /><br />　どういうことでしょうか。たとえば「スナップ・カット」の場合では、「写真のファインダーのフレーム」と「画面のフレーム」が一致しておりましたが、カットとカットの間に短くて早い「フェード」による「闇」が「もうひとつのフレーム」として確かに紛れこみます。演劇部室内では見通しの悪さの隠喩でもある煙がうっすらと立ち込めており、書き割りの背景画を文字通り＝映像通り、背中にした美咲の視線の先には「ハレーション」を起こしたかのような「光」が扉の向こうに充満しているように見えます。さまざまなポスターが壁に貼られたエコーズの場面では、なにやらもの思いにふけっている冬弥をわき目にマスターが「隠し扉の闇」を視聴者に開陳して見せます。その冬弥の部屋では、原理的に「実写なのか<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>なのか識別することの出来ない」人物がテレビの中でしゃべったり、相撲をとったりしておりましたね。彼がテレビを消して外出しようとしたそのとき、美咲から電話がかかってくるわけですが、そのカットではキッチンへと通じる「扉」が「黒々とした闇」に塗りたくられています。<br /><br />　このように「メディアとしてのフレーム内フレーム」が画面にあらわれる場合、きまって「メディア」とはまったく性質の異なる「光や闇に隠蔽されたもうひとつのフレーム」が室内の密閉性を完成させるように見えるのです。つまり、それらの光や闇は、「設定」の上では通過できるはずですが、視覚的にはいかんともしがたく、「塗りたくられた光であり闇」なのです。これらは「フレーム内フレーム」の一種ですが、「通路を持たない、いわばメディアとしては機能することのないフレーム」として今回の挿話に姿をみせております。<br /><br />　この「開かれていながらも密閉された空間」が、まがまがしい停滞感を画面に張りめぐらせ、見る者に唐突な絶句というか、不穏な興奮を煽り立ててゆくようにみえます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★８　「右に回ること」、あるいは「均衡の力学」。</span></strong><br /><br />　２８０～２９０カットで構成された今回の挿話を見ていて、Aパートの冒頭から見る者の目を惹きつけるのは、「右に回る」という出来事です。<br /><br />　たとえば、バスルームでは蛇口を右に回してシャワーを止める「クロース・アップ」のカットがあり、篠塚弥生の運転でくるりと荒っぽく自動車が回転するのもやはり右回りで、ひたすらこの自動車は迷路から脱出するかのように右にハンドルを切ってゆきます。おまけに停車した後の場面、自動車内でも篠塚が「何かえたいの知れない数値のついた歯車のようなもの（※ヒーターでしょうか）」を右回りに回転させるカットも見逃せない。<br /><br />　では、「右に回れ」ば何が画面で起きるのか。何かの均衡を保とうとするかのように、「元に戻る」のです。たとえば、冬弥が蛇口を回しても、鏡に映った蛇口は左に回っているように見えます。篠塚の自動車はさきほどみずからが走っていた対向車線からやって来る自動車ときっちりすれ違って均衡を保ちます。ロングショットで捉えられた停車中の自動車の後部を描いたカットでは、その前景に「白いもや」がかかっており、これが「黒い歯車のようなもの」とは逆に右へ、右へと地を這うように流れてゆきます。また彼女の饒舌は、理奈のスキャンダル（※逸脱）から回復への経緯さえも語ってしまいますよね<br /><br />　こうして、ささやかな細部において繰り返される小さな逸脱は、そのたびごとに均衡を取り戻すことで、画面の連鎖にリズミカルな「シーソー運動」、あるいは「サスペンス（※中吊りの状態）」を蓄積してゆくかのように見えます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★９　ちょっとだけ声優さんのお話</span></strong><br /><br />　淡々とした素振りで長広舌をふるった今回の篠塚弥生。彼女を担当されている朴さんの微妙な抑揚で人を苛立たせながらも殺気立った凄みを感じさせる演技は、多くの方が指摘しておられるとおり、わたしも見事であったと思います。<br /><br />　けれど、わたしが惹かれたのは河島はるかを担当する<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%A3%CB%BE" class="tagword">升望</a>さんの演技でしょうか。とりわけ、冬弥に由綺の伝言が書かれた紙切れを渡す場面、「由綺からの伝言だよ、まいどありぃ…」あたりの台詞はその呼吸の的確さ、あえて何かを自粛することで得られるずうずうしくも儚げな演技に対して、鈍い興奮を禁じえません。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さんに関しては、もう『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%BC%B0%A6" class="tagword">深愛</a>』が凄いことになっているそうで本当に良かったなあと思いますが（※ミュージシャン・声優さんがタイアップしている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品が楽曲の足を引っぱるという事態では立つ瀬がなくなります）、今回にかぎらず電話越しに緒方理奈が話す場面の芝居には、かなり詳細なディレクションが入っているらしく、毎回、異なる演技に仕上がっていて聴き応えがございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#FF0000">★１０　オマケ・素粒子・天声人語</span></strong><br /><br />　☆ちまたで話題の『BAKUMAN　１巻』（作：大場つぐみ・小畑健）を読みました。嘘としか思えないでたらめな展開をひたすら組み合わせることで、「ご都合主義」のそしりの余地を完全に払拭する手腕に感心。今の小学生や中学生はこういう作品を読むようになったのか、と頼もしくもあり、少し怖くもあります。いわゆる「バックヤードもの・職業もの」をあんまり小さいうちから読ませないほうがいいんじゃないか、という小ざかしい大人の教養主義を真っ向から否定する姿勢には、作家としての価値観のようなものを強く感じます。<br /><br />　☆『BAKUMAN』を読んで興奮したためか、その夜、２～３年ぶりに京都市内の木屋町通りに繰り出して明け方まで騒いでました。で、まあBARで飲むから必然的に仕事の話になり、仕事がら＆場所がら京アニの話を滔々としていると、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CE%C3%B5%DC%A5%CF%A5%EB%A5%D2" class="tagword">涼宮ハルヒ</a>」や『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%E9%A4%AD%A1%F9%A4%B9%A4%BF" class="tagword">らき☆すた</a>』などは若い世代のなかに知っている人もいて何となくうれしい気持ちになりました。ただ「萌え＝エロ」という誤認は拭いがたくあるみたい。けど、他業種の方や学生さんと話す機会が最近ではめっきり減っておりましたから、あらためて夜遊びの重要性を実感。大人になればなるほど、ああいう場所は楽しくなる。久しぶりに新宿のゴールデン街にも顔を出してみたいなあと考えています。<br /><br />　☆さきほども言及しましたが、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>版の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』のお話。＜<a href="http://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/diary/diary.html" target="_blank" title="「ミクロKOSモス」さん：「まりあ†ほりっく」を少し真面目に批判する">「ミクロKOSモス」さん：「まりあ†ほりっく」を少し真面目に批判する</a>＞←の記事で指摘されていたのですが、「変態」・「レズビアン」・「百合」を区別せず、それらを主人公が揶揄しているのはいささか気がかりです。原作者の許可を得て、主人公に「お前なんか本物のレズビアンじゃねぇ」みたいな台詞を第１話で言わせておけば、ある程度ですが「政治的な正しさ」や「表現の自由」などの問題は回避できたのかもしれません。「レズビアン」はあからさまに政治的な概念（※歴史的に勝ち取られてきた権利）で、「百合」は文化現象（※将来的にどうなるかは判りません）ですから、製作のどこかの段階でしかるべき人物が言わないといけない。これは『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』というよりもむしろ、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>業界の制度的な問題である気もいたします。<br /><br />　はてさて、本日はこのあたりにしておきましょうか。お付き合いしてくださった数少ないみなさん、どうもありがとうございます。<br /><br />　<br /> ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-02-02T17:00:05+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『WHITE ALBUM』（第４頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第４頁（※4話）についてのお話でございます。　★１　「クロスカット」と「アンチ・クライマックス」　本編のおよそ３１０～３２０カットのうち、驚くべきことに２５パーセント以上が回想で構成されている今回の挿話（※エピソード）。さらに「音先行」や「音残し」といった音響演出、聴覚的なイメージ（※森川由綺の台詞など）だけの回想もありますから、視
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第４頁（※4話）についてのお話でございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★１　「クロスカット」と「アンチ・クライマックス」</span></strong><br /><br />　本編のおよそ３１０～３２０カットのうち、驚くべきことに２５パーセント以上が回想で構成されている今回の挿話（※エピソード）。さらに「音先行」や「音残し」といった音響演出、聴覚的なイメージ（※森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の台詞など）だけの回想もありますから、視聴者はおおいに混乱させられます。<br /><br />　ところが、「物語」をサラッと形式化すると、いかにもメロドラマ的な「クロスカット」の成功と失敗を重ねているだけのごく単純な輪郭におさまります。「クロスカット」とは、異なる空間のできごとを描いたカットを交互に編集することで、できごとの同時性を強調しながら、それらのできごとを最終的に同じ空間で遭遇させて切迫感を解消させる（※カタルシスを与える）技法であります。<br /><br />　今回の挿話では幾多の回想をまじえながら、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と緒方<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>の「クロスカット」の失敗→<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と女子高生の話数をまたいだ「クロスカット」の成功→<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と河島はるかの「クロスカット」の失敗が描かれるわけですが、結局それらは、本編のラスト・シークエンスにおける<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の「クロスカット」による「カタルシス」を盛り上げるための「切迫感」や「じらし」を補強する機能を果たしているように見えます（※「回想＝カットバック」の多用は「停滞感」の印象も与えます）。さらに今回の挿話では、第2話・第３話と比較して１００カット以上も多いカット数が使用されており、必然的に視聴者は「サスペンス（※宙づりの状態）」が解消されるのを延々と待ち続けなければなりません。<br /><br />　そして何より見事なのは、それだけ引き延ばした「カタルシス」を何とまあ「クライマックス（※大団円）」として与えてやるまいという、「クロスカット」と「反＝クライマックス」の緊密な連繋ぶりでございましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★２　記号としての看板、あるいは「浮き文字」との結託。</span></strong><br /><br />　そんな大胆不敵な挑発をひき継ぐかのように、視聴者の目を惹きつけるのは背景に描かれている「看板」でございます。<br /><br />　電車にのって蛍ヶ崎駅にむかう<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>を正面から描いたカット。しれっと「コクと香り」などと書かれた缶コーヒーの「看板」が画面の右に描かれておりましたね。『WHITE ALBUM』には無数の「コーヒーの記号」が氾濫しており、今回の挿話でも伊吹町の駅舎に「コーヒー」の文字が見出されもしますから、気にとめる程度にしておきましょう。<br /><br />　けれど、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が駅の構内で「物語の最期のヒロイン・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B4%D1%B7%EE%A5%DE%A5%CA" class="tagword">観月マナ</a>」と遭遇するあたりから、「看板」が奇妙な官能性と不気味さを帯び始めます。たとえば、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>とストローをくわえた彼女が向かい合う場面の背景には「精算所」という文字が見出され、その文字の下には得体の知れない「真っ黒な穴」が描かれており、いかにも卑猥で気味が悪い。そして伊吹町駅で画に描いたような遭遇を果たし、人目も憚らずひしと抱きしめ合う<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>。その背後の不動産屋の「看板」に「女性歓迎」の文字がきっちり描かれている点を見逃した人はおられませんね。さらに<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の回想シーン。高校生の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>は閉まる電車の扉を境にして向かい合います。この場面は扉が閉まる前と後で背景と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の髪の毛の色が一致していない「つなぎ間違い」のようにも見えましたが（※正確には高度な「錯時法」が使用されています）、それを無視していると<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「視点ショット（≒主観ショット）」で描かれた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の背景に「葬儀屋」の赤い「看板」があらわれ、電車が動き出すと（※<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が離れ始めると）「産婦人科」の「看板」までが彼女の背景にあらわれるのだから、このデタラメさに微笑を隠し通せる人はおられますまい。<br /><br />　このように今回の挿話では、キャラクターの「内的な独白（※本音）」が視覚化される「浮き文字」の技法と、それ以上に「無意識の欲望（※性の欲望と死の欲望）」を視覚化したかのような「看板の文字」がひそかに共鳴音を響かせながら、画面を充実させているようにみえるのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★３　見えるものと見えないもの、あるいは「すれ違うこと」。</span></strong><br /><br />　多くの方がきまって見落とされている（＝言い落とされている）のは、『WHITE ALBUM』は「すれ違い」や「電話」のドラマではなく、「見えるものと見えないもの」をめぐるドラマだという単純な事実でございましょうか。電話で会話していようが、自分が走り過ぎてしまった隣の公衆電話を彼女が使っていようが、「すれ違う」」とは文字通り＝映像通り、「見えていない」ということなのです。<br /><br />　試みに今回の挿話を見てみましょう。夕凪駅で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>を待つ変装した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>はサングラスという自らの視線を遮る小道具まで身につけていながら、通行人たちの視線を惹きつけてしまい、結局、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と遭遇することはありません。彼女は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>にとって「見えないもの」であり、「モブ」にとっては「見えるもの」ですね。それに対していかなる変装もすることなく堂々と通行人や高校生のあいだを闊歩する<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>は「見えないもの」です。誰も彼女には気付きません。そして<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>にとっての彼女は「日常」＝「見えるもの」ですから、時間の切迫という迂回路を経ますと、ふたりは無事に遭遇できるようにみえます。<br /><br />　それでは、嘘としか思えないほど「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>」と語感の似ている「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B4%D1%B7%EE%A5%DE%A5%CA" class="tagword">観月マナ</a>」はいかがでしょうか。第３話を思い出してみてくださいな。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>にとってマナは「見えないもの」であり、「今日は帰って」と紙飛行機を投げつけたマナにとって<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は「見えるもの」でした。そして当然のごとく、第3話のふたりは「すれ違い」の身振りを演じましたね。では今回の挿話はいかがでしょう。マナがどんなに「痴漢」と叫ぼうが、大声で高笑いしようが、「ばっかじゃないの～！」という台詞を「リバーブ」加工されようが、その直後に必ず挟まれる「モブ」カットでは誰ひとりとしてマナと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>に気付かないのです。そう、モブにとって「見えないもの」であるマナと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は、周囲の人間から「見えない」が故に、お互いが「見える」かのようであります。さらに、大学の手続きを終えて<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の部屋にやってきた河島はるかは「見えないもの」として描かれておりましたね。つまり、「誰にも見られず」自転車で走り去ってゆく後ろ姿だけが、「誰もいない」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の部屋の窓越しからのロングショットで描かれていました。<br /><br />　しかるに「すれ違い」とは、「大前提」・「設定」・「お約束」などの胡散臭い代物ではございません。そうではなく、「見えるもの」と「見えないもの」の不均衡が画面で生じたときに、きまって惹き起こされる「出来事」なのであります。<br /><br />　（※これに関連して、もしも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>が「変装」していれば、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>がすれ違っても「すれ違い」には見えず、何より「変装した姿」では、長時間は画面が「もたない」という無粋な解説もしておきましょう。）<br /><br /> <strong><span style="color:#ff0000">★４　「隠喩的モンタージュ」と「模倣すること」</span></strong><br /><br />　今回の挿話では助監督の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C5%C4%C2%D9%BB%B0" class="tagword">吉田泰三</a>さんがコンテと演出を担当されておられますが、誰もが指摘するとおり、「隠喩的モンタージュ」が頻繁に使用されております(※ちなみに「リヴィール・フレーミング」という、キャメラが移動する被写体に遮られた瞬間を起点にしてカットを割る技法も目立ちました)。<br /><br />　「隠喩的モンタージュ」というのは、たとえば煙突を描いたカットに鉛筆を描いたカットを続けて編集するような技法のことで、「視覚的な類似性」にもとづいてカットとカットを繋いでゆきます。アバンのファーストカットでは黒地にゆらゆらと浮かんでいる抽象的な白線が電話線に変容いたしますし、「ここはどこだ」と惚けている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の目の前で蛍ヶ崎のプラットフォームが「オーヴァーラップ」で変貌したり、さらには駅舎の時計が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の部屋の時計と連続して編集され、あるいは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の腕時計がバス停の丸い標識に変わったりと枚挙に暇がございませんよね。けれど、重要なことはその事実を指摘して羅列することではありません。肝心なことは、そのような技法がいかに機能しているかを指摘することであります。<br /><br />　そこで「隠喩的モンタージュ」が使用されている場面なりシークエンスなりを思い出してみましょう。するとほとんど例外なく、「隠喩的モンタージュ」は「模倣すること」という出来事をしかるべき的確さで「物語」に導入しているように見えます。<br /><br />　どういうことでしょうか。たとえばアバンのシーンでは「隠喩的モンタージュ」によって<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は「AM５：１４（※「来いよ」とか「恋しい」とか解釈できて面白いですね）」にたたき起こされるのですが、再び眠りますよね。つまり「眠る→起きる→眠る」という風にみずからの「眠る」という身振りを「模倣」しているのです。プラットフォームの「隠喩的モンタージュ」の場面では、それを挟んで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の電車から「降りる」という身振りが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>のタクシーから「降りる」という身振りで「模倣」されております。駅の時計と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の部屋の時計が「隠喩的モンタージュ」される場面ですと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が駅の「屋外に出る」という行動が、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の部屋の「屋外に出る」という行動によって「模倣」されますね。それでは腕時計と丸型の標識が「隠喩的モンタージュ」される場面はいかがでしょうか。ここは不意に画調と絵柄が「ハーモニー風」に変容する場面でもありますが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B4%D1%B7%EE%A5%DE%A5%CA" class="tagword">観月マナ</a>がやってきた「バスに再び乗る（※乗る→降りる→乗る）」ことで、みずからの身振りを「模倣」しているように見えるわけですね。<br /><br />　（※「隠喩的モンタージュ」は視覚的な装飾性を伴った時空の場面転換を行うことが多々ありますが、やたらな人が使うと画面の連鎖がぐちゃぐちゃになるので直ぐにわかります。また、そのような「モンタージュ」とは別に、時間的な同時性や推移を強調するために時計や自然現象を描いたカットを「プラクティカル・カット」と呼んだりもします。）<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★５　口封じ、あるいは「たなびくこと」。</span></strong><br /><br /> 　今回の挿話の「ハイライト」は、なんといっても駅構内で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B4%D1%B7%EE%A5%DE%A5%CA" class="tagword">観月マナ</a>が遭遇する場面でしょうか。<br /><br />　とりわけ「ロングテイク（※長尺・長回し）」を使用したワン・カット。事態は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「視点ショット（≒主観ショット）」で推移しますね。めまぐるしく変化する微妙な表情を見せながら、「フォロースルー」によって右へ左へ「たなびく」マナの黒髪は、ぎこちない緩慢さで生々しく見る者に迫ってきます。<br /><br /> 「フォロースルー（※追従運動）」とは、キャラクターの首や身体のアクションから遅らせて髪の毛や衣装の動きを作画する技法のことですよね。これはアメリカの「カートゥーン<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」のきわめて滑らかで誇張された表現にその起源と頂点を見出せます。ところが、マナの「フォロースルー」はそれとはまったく異質の過剰さを帯びており、いかにも「反＝フル<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション・反＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%C7%A5%A3%A5%BA%A5%CB%A1%BC" class="tagword">ディズニー</a>」と呼ぶにふさわしい。<br /><br />　このように台詞の数倍は饒舌な素晴らしい「たなびき」の後、マナはこちらに背中を向けて画面の奥へと走ってゆきます。そしてあらんばかりの大声で「救助」を求めるわけですが、カットが変わり仰角からのロングショット、「階段」の最上部で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>から「口を両手で覆われて」ずるずるとひっぱられてゆくマナがいささか滑稽に描かれますね。そしてこの「たなびく髪の毛」が、本編の終幕間際に同じく「階段」という舞台装置の上、高層マンションを背中にした森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>に吹きつける突風によって反復されます。感情の変化・高揚に応じるかのように風を吹かせて「髪をたなびかせる」演出というのはいかにも凡庸ですよね。けれど、画面に響き渡るリリカルな音楽を背景に、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>のくちびるが<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>のキスによって「塞がれる」とき、「たなびくこと」が「くちを塞ぐこと」という出来事と遥かに通底している事実に視聴者は不意撃ちされるのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★６　「自由連想法」、あるいは忘却と想起。</span></strong><br /><br />　さて、長くなってまいりましたが他にも幾つか見逃せぬトピックスがございます。ひとつは、「自由連想法」的にカットを繋いでゆき、ついに<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>が「忘れていた記憶を思い出す」場面であります。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>にめぐり合えないまま母校の敷地に張られた網にもたれかかる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は、とりとめもなく回想を重ねてゆきますね。そして絶妙な「自由連想法」で導き出された「制服を身にまとう<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>のイメージ」にたどり着き、「なんちゃって」などといささか場違いな「浮き文字」が画面にあらわれた次の瞬間、思いがけず大きな声をあげた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は「忘れていた記憶を思い出す」のです。<br /><br />　いかなる律儀さも欠いた「過去の回想」が氾濫する第４話の「不親切さ＝わかりにくさ」は、少なからぬ視聴者を狼狽させ、苛立たせもするでしょう。けれど、そうであるがゆえに、この「忘れていた記憶を思い出す」という出来事は、何とも感動的というほかはない「突出点」をかたちづくっています。そして今回の挿話にも見出されますが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の「はじめての出会いの記憶」は、見事な「すれ違い」ぶりを演じておりますね。つまり、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>は、幼い時に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>と出会っていたことを忘れている、と仄めかされています。この「記憶のすれ違い」、そしてときおり差し挟まれる「幼い河島はるか」が描かれた過去のイメージが、「忘れていた記憶を思い出す」という出来事をしたたかに活気づけている点を見落としてはなりますまい。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★７　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%BC%B0%A6" class="tagword">深愛</a>』と「日常」について。</span></strong><br /><br />　『WHITE ALBUM』では、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の台詞や彼のものと思しき内面の独白が視覚化された「浮き文字」による「日常」という言葉を、森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>のイメージとともに頻繁に見出すことができますね。<br /><br />　そこで面白いのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さんが担当されているOPテーマ・『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%BC%B0%A6" class="tagword">深愛</a>』の歌詞にも「日常」という言葉が見出せるということです。インタビューに基づいた作品解釈は「作り手の神話化」と「同語反復」の危険もございますが、水樹さんは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の気持ちで」作詞したと証言されております。第4話までを見ておりますと、あからさまに森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>にとっての「日常」として描かれており、彼女が「女神」になる気配は今のところありません（※「女神になりそこねた」という「浮き文字」が今回の挿話で使用されておりましたね）。だから、マナの「たとえ」を借りるなら、彼女は「金でも鉄でもない斧」であるように見えるのではないでしょうか。それに対して緒方<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%FD%C6%E0" class="tagword">理奈</a>はと言えば、徹底して「非＝日常」の「女神」として描かれておりますよね。そしてOPの歌詞を聴いておりますと、こんな言葉が出てくるのです。<br /><br />　♪どんなときも/どこにいるときも/強く強く抱きしめていて/<strong>情熱が日常に染まるとしても</strong><br /><br /> 　この歌詞を「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の言葉」として受けとめるなら、いかに「日常」という言葉が重要な意味を担っているのか、うかがい知れます（※とはいえ、水樹さんは「シナリオ13話分を読んで作詞した」旨の証言もされていますから、当然と言えば当然なのかもしれませんな）。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★８　漏れ出す光と「女の不在」</span></strong><br /><br />　さらにまた、「暗い室内に漏れ出す光」のイメージ群も見落とせないでしょうね。<br /><br />　たとえば、河島はるかが<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>の部屋を訪ねてくる場面でしょうか。室内に設定されたキャメラから、暗い画調で扉の内側が描かれるのですが、その下端の隙間から外光がチラチラと漏れ出している。このチラチラと光量を変えながら差し込んでくる「チラチラ」の雄弁さがいかにも恐ろしい。さらにラスト・シーンの森川<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の部屋でも「暗い室内に漏れ出す光」のイメージを画面に認めることができるはずです。どういうわけか明かりのない室内でベッドに座る<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%DF%CC%EF" class="tagword">冬弥</a>がひとり。バスルームから光が漏れ出しているわけですが、およそ愛し合うカップルの「ラブシーン（の直前）」と呼ぶには似つかわしくない不穏な緊張感が画面をこわばらせております。<br /><br />　これらの恐ろしさや不穏さは、光源と同義的でもある女性キャラクターの「描写の欠如」と無縁ではありますまい。言葉を換えるなら、制作者の慎ましさや恥じらいが入浴シーンにおける<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%B3%E5%BA" class="tagword">由綺</a>の描写を「省略」させたのではないということ。すなわち、比喩的な意味でも、「映像言語」的な意味でも、画面において「光源としての女」が欠如していることが途方もなく恐ろしい。<br />　<br />　そんなただならぬ雰囲気を、挿話の終盤に相次いであらわれた「漏れ出す光」のイメージが画面に波及させているように見えるのであります。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★９　オマケ・素粒子・天声人語</span></strong><br /><br />　☆さきごろ、１９９８年に放映された『serial experiments ｌain』（中村隆太郎監督：トライアングルスタッフ制作）というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>のDVDをちょこっとだけ見る機会がありました。この作品は９０年代に放映されたテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の中でもっとも優れている「可能性」がありますが、自分がテレビで初めてみたときと印象が違ってビックリ。こんなテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作っちゃったら会社が「潰れても」いたしかたあるまいな、と妙に納得。<br /><br /> ☆そして、いい加減に『新世紀エヴァンゲリオン』も見た方がいいんだろうかという危機感も覚えました。わたしの住んでいた地域では<strong>エヴァが映らなかったものですから（笑）</strong>。もちろん、上京してからサラッとVHSで見ましたが、あらためてちゃんと見たいなぁ…と。<br /><br />　☆そんなこんなで、９０年代に放映されたテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>とそこから自分が受けた影響を言語化せねばなるまいと思う今日この頃。暇がつくれたら、あっけらかんとランキング形式で書くかもです。<br /><br />　それでは本日はこの辺りまでにしておきましょうか。お付き合いしてくださった数少ないみなさん、どうもありがとうございます。<br />　<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-01-26T18:05:28+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『WHITE ALBUM』（第３頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第３頁（※３話）についてのお話でございます。　★１　「バーター」、あるいは交換と排除。　Aパートの冒頭でしょうか。藤井冬弥と電話をしている緒方理奈。彼女は何気なくつぶやきます、「迷ってるなら教えてあげる。バーターって言うんだけど…」。この台詞がおさまるカットでは「画面分割」の技法が使用されておりますね。ふたりの心理的な不均衡ぶりを
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第３頁（※３話）についてのお話でございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★１　「バーター」、あるいは交換と排除。</span></strong><br /><br />　Aパートの冒頭でしょうか。藤井冬弥と電話をしている緒方理奈。彼女は何気なくつぶやきます、「迷ってるなら教えてあげる。バーターって言うんだけど…」。この台詞がおさまるカットでは「画面分割」の技法が使用されておりますね。ふたりの心理的な不均衡ぶりを強調するためでしょうか、分割の比率が理奈を「クロースアップ」で描いた右側に偏っており、冬弥を描いた画面の左側は萎縮しているようにも見えます。<br /><br />　理奈が洩らした「バーター」とは芸能界用語で「抱き合わせ」や「穴埋め」のことですが、その原義は「交換」であります。２３０～２４０カットで程よく構成されている今回の挿話では、この「交換」という出来事が「排除」というさらなる出来事を誘発することで、「物語」を推進させてゆきます。<br /><br />　どういうことでしょうか。理奈の口から「バーター」という台詞が洩れたあと、理奈と「交換」したかのように森川由綺から冬弥に電話がかかってきます。理奈の電話は由綺からの電話が「排除」されることで成立しておりましたから、今度は場面から理奈が「排除」されますね。そして１１月８日の土曜日にデートする約束をするふたりですが、デートを成立させるため、冬弥は河島はるかに対してみずからの大学の手続きを一方的な「交換」として押しつけた挙句、はるかを邪険に「排除」します。１１月６日。理奈が電話越しにつぶやいた「幸運」（※贈り物）を成立させるため、冬弥はアルバイトとしてテレビ局らしき場所に赴きますよね。すると、どいうわけだか理奈のマネージャーが首になることで、マネージャーと冬弥の役割が「交換」され、同時にマネージャーは「排除」されます。理奈からのアルバイトの誘いは「（一方的な）贈与」であったわけですから、スタジオで冬弥が平手打ちを食らうことで理奈との「交換」は成立し（※痛み分け）、何者かに監視されながらも冬弥と由綺は夕暮れ時の屋上で理奈からの「贈り物」を満喫いたします。そのあいだ、ヒステリックな振る舞いを演じる理奈は控え室に「排除」されることになりますね。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★２　交換と排除、あるいは「河島はるかの呪い」。</span></strong><br /><br />　ところが翌日（※１１月７日）になりますと、事態はいささか異なる様相を見せ始めます。<br /><br />　それは篠塚弥生や緒方英二による「妨害」のためというより、冬弥が河島はるかに一方的な「不等価交換」を押しつけ、さらには前日に理奈の「贈り物」を満喫した代償であるかのようにもみえます。<br /><br />　実際、冬弥は１１月８日に予定していたデートを由綺の都合で断られた後、アルバイトを一方的に解雇（※排除）され、父親との望まぬ補給品の「交換」を強いられた挙句に実家から「排除」されます。それなら仕方がない。彼はさらなる「交換」を求めて家庭教師先の女子高生の元へ向かうのですが、「今日は帰って」と書かれた紙飛行機で一方的に「排除」されてしまいます。そして何より滑稽なのは、喫茶「エコーズ」から理奈と緒方英二が去った後、冬弥が呆然としつつも何かを期待して奥まった場所にある部屋の扉をあけるのですが、その視線の先には「物言わぬ」清掃用具があっけらかんと姿をみせ、彼が先日、邪険に「排除」した扉の前のはるかと類似した境遇に置かれてしまうことであります。このように挿話の最後の場面、奇しくも１１月８日の前日という絶妙のタイミングで、冬弥とはるかの「（一方的な）交換」と「排除」が対等に成立いたしますと、今回の「物語」は終幕いたします。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★３　「縦の構図」、あるいは驚くべき閉鎖空間。</span></strong><br /><br />　『WHITE ALBUM』では「縦の構図（※ディープ・ステージング）」が頻繁に使用されますが、今回の挿話においても重要な機能を果たしております。いくつか例を挙げてみましょう。<br /><br />　Aパートの序盤。冬弥と唐突にあらわれたはるかがアパートの廊下で言葉を交わす場面。その背後にはうっすらと細い柵が見えますが、そのさらに向こうは不気味なほどに真っ暗で、いかなる建造物も描かれてはおりません。このふたりを描いた構図は冬弥がはるかに「土曜日の手続きの代理」を頼む場面で再び繰り返されます。その際には前景にピンボケ気味の柵が置かれて奥行きが強調されるものの（「ディープフォーカス」＋「重畳遠近法」＋「縦の構図」）、ひたすら画面の奥には黒々とした闇が横たわっております。<br /><br />　深い「フェード」で画面が黒くなり、「十一月六日（木）」と縦書きの白い「浮き文字」があらわれてテレビ局のシークエンスに変わります。スーツを身に纏った冬弥がてくてくと廊下を歩いてこちら側に向かってくるカット、あるいは冬弥が理奈の「前任」のマネージャーとすれちがい、死角になっている通路から不意に緒方英二が姿をあらわして冬弥と会話する場面を思い出してくださいな。この場面でも徹底して「縦の構図」が意識的に使用されているのですが、通路に沿って画面の奥まで伸びてゆく視聴者の視線はきまって暗い「壁」か、あるいは「真っ暗な闇」に遮られてしまうのです。この場面が素晴らしいのは、会話するふたりが無機質な「壁と闇」に囲まれて交差する十字路（※十字架）の中心にいるという、いかにも不気味な舞台装置を描いて見せたことでありましょう。そして、それらの画面の連鎖に対して、「現代音楽」風の無調を感じさせるような和声進行で視聴者にいい知れぬ不安感を的確に与えるBGMが重ねられていることも見逃してはなりますまい。さらに言うのなら、この「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A8%A5%EC%A5%E1%A5%F3%A5%C4%A1%A6%A5%AC%A1%BC%A5%C7%A5%F3" class="tagword">エレメンツ・ガーデン</a>」の作曲した不穏なBGMをぶっきらぼうな「ストレート・カッティング」でズバッと断ち切り、間髪いれずに理奈（※「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>」）が歌う歌謡曲につなげるという画面の推移も大変に見事でございます。<br /><br />　理奈が控え室で暴れまわった後、キャメラは素早い「前進移動」と「オーヴァーラップ」、相変わらず「吉村明」の偏執的なこだわりを感じさせる大きな「横移動」を経て、屋上で背中を向けている冬弥と由綺を「ロングショット」で捉えます。この場面では２～３回、「縦の構図」が使用されるのですが、低い位置に設定された固定のキャメラ（※画面のフレーム）はどうしたって画面の奥で微動だにせずズラリと横並びする「柵」を捉えずにはいられない。すなわち、開放的な屋外の場面においても、やはり視聴者の視線は遮蔽物に遮られてしまう。<br /><br />　だから今回の挿話では、画面の奥行きを強調するはずの「縦の構図」が、どうしたって「空間の閉鎖性」を強調してしまうという奇妙にして驚くべき倒錯感を画面に波及させているように見えるのです。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★４　ジャンルのお話？あるいは中休み。</span></strong><br /><br />　さて、『WHITE ALBUM』は９０年代以後の「マルチヒロイズム型<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」のなかでも、『天地無用！魎皇鬼』（１９９２年）以降の「ハーレム・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」に分類される作品でございましょう。「世界」は崩壊しませんから、癒されない「空気系」と曖昧に形容しておいてもいいかもしれませんね。藤井冬弥は「<strong>画に描いたかのように</strong>モテる」でしょうし、その「根拠なるもの・動機なるもの」は作品が<strong><a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション</strong>であることをやめないかぎり、明かされることはないでしょう。<br /><br />　「ハーレム・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」（論）では多くの場合、「正妻・本妻」が明確に定められているか、その「ポジション」の取り合いになりますよね。その仮定を信じるなら、さしあたり『WHITE ALBUM』ではあらかじめ「正妻・本妻」の位置に駆け出し<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%A4%A5%C9%A5%EB" class="tagword">アイドル</a>の森川由綺が定められているようにみえます。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★５　由綺と理奈、あるいは境界線が融けてゆく。</span></strong><br /><br />　ところが今回の挿話を見ておりますと、人はやたらに「物語」だの「構造」だの「ジャンル」だのと単純化してはならぬと気付かされます。<br /><br />　たとえばAパートの序盤で冬弥と由綺が電話する場面。「フラッシュバック」で唐突に電話番号の書かれた紙とペンが手渡されるカット、続いて受話器が当てられた理奈のくちを描いた「超クローズアップショット」があらわれます。最初のカットは第２頁（※２話）の「客観ショット」ですが、ふたつめのカットは客観でもなければ「主観ショット」でもなく、冬弥が勝手に想像しているイメージでしょう。ですから「由綺の声を聞いて理奈の口を想像している」ように見えるのです。さらに確信犯的なのは、電話を終えた後、繰り返して同じような構図で「くち」の「超クロースアップショット」が「モンタージュ」されるのですが、これも、「声＝言葉を欠いた由綺のくち」を再び冬弥が勝手に想像しているイメージに見えます。そうしますと、「由綺の声が理奈のくちにのっとられた」かのように画面が推移しているようにみえるのではないでしょうか。言葉を換えますと、冬弥の想像において、「声＝言葉（という欲望の対象）」をめぐり理奈と由綺の境界がきわめて希薄になっているのです。<br /><br />　さらに指摘すると、あとの場面で理奈の「ヴォーカル」は「機械」と別事務所の社長に形容されており、由綺もそのような「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%A4%A5%C9%A5%EB" class="tagword">アイドル</a>歌手」を目指しているわけですから、ここで描かれているのは「正妻・本妻」という人物配置におけるポジション争いではなく、ひとりの男性キャラクターの「想像」において別の女性キャラクターたちの人間的な境界が融解してゆくという、もっと残酷な事態でありましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★６　錯時法とイメージの混乱、あるいは境界線が融けてゆく。</span></strong><br /><br />　このような事態は挿話の終盤、家庭教師先の軒先で途方にくれる冬弥の回想シーンにも見出すことができますよね。<br /><br />　この回想では、前日の屋上での出来事の続きを描きながら途中で断ち切り、さらなる回想を「幻想」として織り込むという巧妙にして大胆な「錯時法」が使用されております。この回想シーンに関してもですね、事前に由綺のものらしき頭頂部の髪だけを見切れるかたちで描いておき、ふいに「アクションつなぎ」で平手打ちしようとする理奈をモンタージュすることによって、由綺の存在が理奈に「上塗り」されたかのようにも見えます。けれど、理奈を描いたカットの絵柄が「ハーモニー」のように唐突に変容して「異化作用」が画面に導入されますから、「上塗り」というよりは、「上塗りの予感」としてふたりの女性キャラクターが冬弥の「幻想（※幻視）」において、あるいは「客観的なイメージ」と「主観的なイメージ」の連鎖のあいだで融解してゆくようにみえるわけです。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★７　理奈の衣装、あるいは境界線が融けてゆく。</span></strong><br /><br />　さらには理奈が身につけている衣装も見逃してはなりませんね。<br /><br />　アルバイトでやってきた冬弥を目の前にして、ステージで歌う理奈は「赤と黒」を基調とした華やかな舞台衣装を身にまとっておりましたでしょう。しかし、OPの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションや今回の挿話で控え室のハンガーにかかっている由綺のダッフルコートを見てもあきらかなように、「赤と黒」という色彩はどちらかというと由綺のイメージカラーに見えるわけです。これまでの挿話はもちろん、今回の挿話でも電話ボックスの由綺の衣装には拭いがたく「赤と黒」の色彩が含まれておりましたね。それを理奈が冬弥の前で堂々と身につけているのはいかにも暗示的です。<br /><br />　さらに終幕まぎわの場面。喫茶「エコーズ」に急き込んでくる理奈の身につけているトレンチ風のコートは嘘のように「赤」っぽい色彩で塗られている。この日の冬弥は、由綺からデートを断られることに発端する彷徨の果てに「エコーズ」に到着したわけですから、そこに「赤っぽい」衣装の理奈が思いがけず姿をあらわすことが何を意味しているのか、皆さんもおわかりでございましょう。<br /><br />　ちなみに冬弥が暗い画調の冬空を彷徨する場面では、直前にたたみかけるような短いカットをモンタージュすることで電話での会話を省略し、その内容を過去回想の「ヴォイスオーヴァ」として画面の連鎖に重ねることで「モンタージュ・シークエンス」を発動させるという、これまた素晴らしいテクニックを見ることができます。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★８　「ズレること」、あるいは回想と嘘。</span></strong><br /><br />　今回の挿話では何度も回想シーンが登場いたしますが、誰もが記憶しているのは夕暮れ時の屋上の場面。冬弥と由綺は会話のやりとりのなかで、自分たちが初めて遭遇した場面をそれぞれ思い出すのですが、この起源の記憶が完全に「ズレて」おりましたね。由綺はかなり幼い時分を回想するのですが、冬弥は高校の下駄箱での光景を回想します。<br /><br />　わたしたちの目を惹くのは、それが「何らかの伏線」だからではなく、端的に「ズレる」という出来事の堆積が、画面の連鎖にいかにも不穏な雰囲気をみなぎらせてゆくからです。<br /><br />　今回の挿話を見ておりますと、冬弥も由綺も理奈もみんな嘘を吐いておりますが、作品の冒頭から途切れることなく「嘘をつくこと」によって「ズレる」という出来事を画面に刻み続けているのは、他ならぬ「浮き文字」の技法であります。<br /><br />　「浮き文字」が使用される多くの場合、それは冬弥が「実際に話していること」とは異なる「内面の声」を可視化しているように見えます。いささか淡白で派手さを欠くフォントは、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>＋<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>」作品を浴びるほど見てしまった視聴者から批判されることが多いと仄聞いたしました。確かに、「シミュレーショ二ズム」を実践し続ける<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>作品は洗練された印象を与えるのが超絶に巧いですから、わからないわけではございません。ですが、『WHITE ALBUM』において、ひたすら建前と本音のあいだで可視化される「無数の嘘」が、淡々としたリズムで「ズレる」という出来事を画面に堆積させてゆくさまは、よく見ていると途方もなく気味が悪い。<br /><br />　この「気味の悪さ」をしかるべき的確さで評価することが、あるいは批評なのかもしれませんな。<br /><br /> <strong><span style="color:#ff0000">★９　オマケ・素粒子・天声人語</span></strong><br /><br />　☆先日、会社（※愉快でおかしな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の会社）で『ファンロード』という雑誌を拾いました。飯を食いながら読もうと思ったのですが、読み方がまったくわからないという驚愕の事実が発覚！（笑）。わたしは２０台後半の人間ですから、たとえば『WHITE ALBUM』の時代設定である１９８６年の記憶はおぼろげにしかありません。けど、きわめて独断的な８０年代のイメージって『ファンロード』みたいなアナログで混沌としていて賑やかな感じでしょうか。どこか学園祭みたいで、押井守さんの「うる星」みたいな。ああ、何かこういうのいいなって思いました。読み方はわからないのだけれども（笑）。そこで、今年は『ファンロード』と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>さんを応援してゆこうかな、と。<br /><br />　☆最近、声優さんに関する記事を書いていないので、暇を作って「初音ミク」ではなく、「<strong><a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>と</strong>初音ミク」について何か書こうかなと思っております。どうして「初音ミク」を語る多くの言説からは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C6%A3%C5%C4%BA%E9" class="tagword">藤田咲</a>」がこぼれ落ちちゃうんでしょう。無意識の自主規制でも働いているのかな。けっこう不思議だったりします。もうすぐ大ブレイクするというのに…。<br /><br />　☆冬クールの新番組ですけど、スタッフ表を参考にいくつか録画してチェックしました。やっぱり（？）「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%E9%A5%A4%A5%C9%A5%D0%A5%C3%A5%AF" class="tagword">ライドバック</a>」、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F5%A4%F2%B8%AB%BE%E5%A4%B2%A4%EB%BE%AF%BD%F7%A4%CE%C6%B7%A4%CB%B1%C7%A4%EB%C0%A4%B3%A6" class="tagword">空を見上げる少女の瞳に映る世界</a>』、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』、「ドルアーガ」あたりは巧い。そして出崎統さんは凄い。何がやりたいのかまるでわからん。作品の「題材」とは無縁のレヴェルで官能的というか。「画面がエロい」っていったら伝わるかな…。あの甘美な艶めかしさの秘密は盗めるものなら盗みたいです。<br /><br />　それでは本日はこの辺りまでにしておきましょうか。ここまでお付き合いしてくださった皆さん、ありがとうございます。<br /><br />　<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-01-19T17:00:00+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『WHITE ALBUM』（第２頁）の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビアニメの第２頁（※第２話）についてのお話でございます。　★１　歴史のレッスン、あるいは「佐藤博暉」を擁護する。　「８０年代バブル」がクライマックスへとひた走る「１９８６年11月」から2年後の１９８８年。アニメーション映画『AKIRA』が公開されます。実質的には新人以外の何者でもない大友克洋監督。その片方の脇を固めたのが「佐藤博暉」助監督でありま
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『WHITE ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第２頁（※第２話）についてのお話でございます。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★１　歴史のレッスン、あるいは「佐藤博暉」を擁護する。</span></strong><br /><br />　「８０年代バブル」がクライマックスへとひた走る「１９８６年11月」から2年後の１９８８年。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション映画『AKIRA』が公開されます。実質的には新人以外の何者でもない大友克洋監督。その片方の脇を固めたのが「佐藤博暉」助監督であります。ご存知のとおり、『WHITE ALBUM』の脚本・コンテ担当者ですね。<br /><br />　その彼が『新世紀エヴァンゲリオン』と『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』をまたぎ、１９９４年から１９９７年にわたって監督・原作・脚本・コンテを務めたのが、OVA史上に燦然と輝く数多の逸話を持つ『KEY THE METAL IDOL』（ぴえろ制作）という「アイドル」を「題材」にした作品であります。その「佐藤博暉」が、再び「アイドル」を「題材」にした『WHITE ALBUM』（セブン・アークス制作）にメインスタッフとして参加するという（※ちなみに「KEY」で主演を務めた「岩男潤子」という「アイドル声優」は、１９９８年に劇場公開された今敏監督・「松尾衡」（「ローゼンメイデン」・『紅』・『夜桜四重奏』の監督）が演出を担当した『PERFECT BLUE』で再び主人公の「アイドル」を演じております）。<br /><br />　そして「佐藤博暉」のもと、９０年代の「アイドル声優」・岩男潤子さんではなく、ゼロ年代の「アイドル声優」・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%BF%CC%EE%B0%BD" class="tagword">平野綾</a>さんと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さん、さらには自称アイドルオタクの「山本寛」による『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』で「ご町内のアイドル」を演じ終えたばかりの戸松遥さんまでが参戦し、改めて「アイドル」が演じられると言うのだから、この確信犯的な作品をどうして見逃すことができましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★２　歴史のレッスン、あるいは『WHITE ALBUM』と『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』。</span></strong><br /><br />　それにしても、因縁ぶかいのは、『WHITE ALBUM』と同クールに新房昭之監督の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』が放映されるという事態でしょうか。<br /><br />　「佐藤博暉」の代表作が発表された１９９４年～１９９７年と言えば、同じ「ぴえろ作品」などで演出家としての修行を積み、１９９６年に監督デビューした「初期・新房昭之」と重なります。さらにその後の「新房昭之」が現在の作家性を獲得するために選ばれたメディアは、「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」というより『KEY THE METAL IDOL』と同じく「OVA」ですよね。そして何より、『WHITE ALBUM』を制作するセブン・アークスがその名を轟かせたのが、他ならぬ「新房昭之」による『魔法少女リリカルなのは』（２００４年）であることを思い返して「見る」のなら、この偶然はもう、出鱈目（でたらめ）としか思えない。<br /><br />　さらに忘れずに指摘しておきましょう。それは『WHITE ALBUM』の時代設定である「１９８６年」とは、「おニャン子クラブ」の誕生によって、「アイドル」を語る言説が大きな「パラダイムシフト」を強いられた「１９８５年」の翌年だということです。この「アイドル」をめぐる言説の変化が、９０年代以後の「マルチヒロイズム型萌え・美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」の震源地のひとつであることは論を待ちますまい。<br /><br />　ですから、ひたすら「マルチヒロイズム型萌え美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」において「シミュレーショ二ズム」を実践する「新房昭之」の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』と、「８０年代アイドル」（という起源）を「ゼロ年代のアイドル声優」たちが反復する『WHITE ALBUM』が同クールに放映されるという事態には、偶然の符合を越えた大きな意義があるようにみえるのです。<br /><br />　（※ちなみに『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』のEDでは、「１９８３年」に発表されたYMOのテクノ歌謡曲『君に、胸キュン。』が「ゼロ年代の声優」たちによって「サンプリング」＆「リミックス」されていますね。また『涼宮ハルヒの憂鬱』以後、作品の本編とは無関係にOP・EDでキャラクターたちに「アイドルのステージング」を模倣させることに意識的な作品が増えているようにもみえます。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%AF%A5%ED%A5%B9F" class="tagword">マクロスF</a>」や「制・製作者の世代交代の影響」については次の機会にお話しましょう）。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★３　揺れ動く心理、あるいは右へ左へ。</span></strong><br /><br />　前回もそうでしたが、今回の挿話においても、「安定感を欠いたまま揺れ動く心理」を視覚化する身振りが見る者を惹きつけます。<br /><br />　たとえば、Aパートの冒頭。夜の公園で背中合わせに芝生に座り込んだ藤井冬弥と河島はるかのふたりをロングショットで描いたカットがありましたでしょう、均衡点を欠いたまま、ふたりが背中を左右に押したり押されたりする微笑ましくも残酷な様子を見出すことができます。また、喫茶店エコーズの場面。「キャメラの左右の揺れ動き」に支配されているとしか思えないぎこちなさで台詞を交わす冬弥と七瀬彰の間には、いかにも不自然な空気が張り詰めており、実際、「ウソつけ」という「レトリスム（文字）」が２度、使用されていましたね。続いて、エコーズに変装した森川由綺と緒方理奈がやってきます。カウンターに腰を下ろすふたり。無言のまま、理奈が「お前の彼氏はどちらだ、こっちか？」と言いたげに彰を指さすと、それを否定するために、由綺は「左右に激しく首を振り」ますね。あるいは由綺と冬弥の別れ際。ふたりがしつこいくらい手を「左右」に振り合っていることも見逃してはなりません。そしてバイトを終えた冬弥は夜の公衆電話から倉澤美咲に電話します。その間、冬弥を描いたカットには、執拗にテールランプの「残像現象」を残しながら、「右に左に流れてゆく数多の自動車」を見出すことができるでしょう。<br /><br />　しかるに「左右に揺れ動く」というイメージは、画面の連鎖から安定感を奪いつつ、いかにもキャラクターたちの「心理的な安定感の欠如」を感じさせるように見えるのであります。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★４　ハリウッド的な、あまりにハリウッド的な。</span></strong><br /><br />　今回の挿話では、あからさまに「セクシャル」なシーンが存在しております。<br /><br />　Aパートの冒頭、公園に到着した冬弥の荒い息とはるかの「ムラっとする？」発言の次の場面でしょうか。由綺が緒方英二のものと思しき邸宅を訪れる場面を思い出してください。この場面の直前では、遅刻気味の由綺とマネージャーの篠塚弥生を電話で急かしながら、ベッドに横たわった緒方英二が「あまりおそいと眠ってしまうよ」という旨の台詞をつぶやいたカットが配置されておりますね。で、到着した由綺が緒方英二の家に閉じ込められるかのように、いかにも厳かな音を立てつつ、篠塚を屋外に排除しながら内側に向けて閉まる扉が描写されます。続いて、由綺の視点ショットを代理するかたちでキャメラは、おそらく寝室であろう部屋の扉に向かって階段を登ってゆき、そのまま奇妙な軌道をぐにゃぐにゃと描きながら天井に吊るされて鈍い光を放つ照明を捉えると、ぴたりと静止いたします。<br /><br />　その後、理奈が同じ緒方宅に到着しますと、<strong>（エア携帯電話で）</strong>独り言をつぶやきながら邸宅内をぐるぐると横断し、寝室らしき部屋の扉を開くと、いきなりベットに横たわる緒方英二と、続いて肩を震わせている由綺が視界に飛び込んでくるわけです。「わたし、嬉しくて……」。真相はといいますと曲を書いてもらえた嬉しさのあまり泣いていたということらしい。いくつかカットを挟んでキャメラ位置が反転し、困惑ぎみの理奈の方に駆け寄る由綺がミディアム・ロングショットで描かれるのですが、そのカットの前景にはピンボケ気味で緒方英二の下半身が横たわっており、投げ出された足をもぞもぞと組み替えようとしたりします。<br /><br />　この場面の運び方は、とても興味深い。そのように申しますのは、「解釈」や「メタファー」がどうのこうのといった問題ではなく、「映画製作倫理規定」時代の古典的ハリウッド映画(１９３０～１９６６)において、「セックス」を「黙説法（※直接に描かない技法）」で描くために制度化された語りの技法がこの場面で使用されているからでございます。すなわち、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションも含めた「映像の歴史」に多少とも敏感であれば、「これは間違いなくヤッたな」と見る人に思わせることのできる画面が的確に配置されている。<br /><br />　何よりもしたたかなのは、そんな歴史を知っているはずもない多くの視聴者の想像力を確実に盛り上げておきながら、はぐらかすことで「クライマックス感」を周到に延期しており、それだけではなく、少ない視聴者に対しては、「ヤッた可能性がきわめて高いが真相はわからない」というテクニックを使用して、「ダブルミーニング」を機能させているように見えることです。ですから、すでに原作ゲームの「題材」や「物語の結末」がネットで流通している事実を考慮するなら、視聴者の心理を逆手にとった見事な展開だと言わざるを得ないでしょう。これはなかなか巧い。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★５　「赤と黒」。</span></strong><br /><br />　今回の挿話までを見ておりますと、きわめて印象的な色彩の組み合わせとして、「赤と黒」がありますね。そう、たとえば、（スタンダールの小説ではなく）ブラウニングの詩集の鮮烈な２色のカバーデザインです。<br /><br />　ですが、それだけではございません。駆け出しアイドルとはいえ、いくらなんでも着用され過ぎている由綺のダッフルコートは「赤い布地に黒いとめ具」が目印です。その恋人の冬弥のバイト先での衣装はきまって「赤っぽいエプロンと黒っぽいベスト」ですね。その彼と彰が喫茶店で「黒い」コーヒーを作るための豆挽き機のボディの「赤さ」が今回の挿話ではクロースアップで描かれておりました。そして彼が家に帰るとその電話は嘘のように「赤いボディに黒いボタン」というデザインですよね。そんな冬弥が、今回の挿話では風邪を引いたらしい美咲に屋外の公衆電話から電話するわけですが、電話の向こうの美咲はと言えば、どういうわけだか薄い「赤と黒」を基調にしたどてらを身に纏っているという始末…。<br /><br />　『WHITE ALBUM』というタイトルに従うのなら、作品のコンセプトカラーは「白」であるはず。実際、白い色彩のイメージは画面の随所に見出すことができます。けれども、見る者を惹きつけるのは、ひそかに散りばめられた、いかにも不吉な「血の赤さ」と「夜の闇」を連想させる「赤と黒」という色彩のカップルであることを見落としてはならないでしょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★６　振り返る女たち、あるいは技法・混乱・「ハーモ二ー」。</span></strong><br /><br />　「劇画調の静止画」をふいに画面の連鎖のにインサートすることで「異化作用」を生み出すことを、「ハーモニー」と呼びます。もともとは出崎統さんが開発した技法ですが、近年では劇画調のタッチを素直に採用することもあれば、水彩やクレヨンや鉛筆のタッチを使用してみたり、実写を加工して使用することもございます。あるいはひとつの画面の中で、いちぶが「ハーモニー（的）」になっており、いちぶはアクションしているといった場合もあります（最近視聴した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>で印象的だったのは「福田道生」の『ヒャッコ』でしょうか）。<br /><br />　今回の『WHITE ALBUM』でも、「ハーモニー」が２度使用されておりますが、これが「静止画」ではないので、何と呼べばいいのかわからない（笑）。ともかく「ハーモニー」風の画をあえてぎこちないリズムでつなぐことによって、鮮烈なインパクトを見る者に与えております。<br /><br />　先ずはAパートの夜の公園のシーン。唐突にはるかを描く線のタッチが変容し、第1頁(話)と同じ「振り返る」仕草が、ぎこちなくふるえる画面において反復されます。要するに、「ハーモニー」的な異化作用を画面に波及させながら、それが回想であることを視聴者に告げ知らせます。みだりに「フェード」を使って「回想の目印」を視聴者に教えるような「わかりやすさ＝親切さ」が極力排除されていることも『WHITE ALBUM』の特徴でございましょう。<br /><br />　たとえば、さきほどもお話した緒方英二の邸内を理奈がずんずんと歩き回る超絶技巧的な場面では、彼女の台詞が(内的)独白なのか、傍白なのか、ある種のナレーション(ヴォイス・オーヴァ)なのか、視聴者は識別できないまま、「（ジャンプカット・）モンタージュ・シークエンス」で事態は推移してゆきます。また冬弥と美咲が電話で話をする場面ですと、わざわざ「画面分割」を使ったカットが冬弥の回想としてモンタージュされます。さらに喫茶店のカウンターと店長の部屋の間にある物理的な壁をキャメラがぶち抜くことで、カット割りされていないかのような印象を与える「トラック・スルー・ソリッド」なども使用されていましたね。これなどは、「わかりやすさ・わかりにくさ」の問題ではなく、キャメラの「横移動」に対する「吉村明」の偏愛であるかのようにも見えます。<br /><br />　ですから言葉を換えますと、この場面にかぎらず、「わかりやすさ」と「混乱」という選択肢があれば、制作方針において『WHITE ALBUM』は迷うことなく「混乱」を選ぶようにみえます。現在放映されている『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9" class="tagword">とらドラ</a>』の「ディレクション」とは真逆でしょうか。<br /><br />　さて、ふたつめ。喫茶店エコーズを立ち去る理奈が扉の隙間で「振り返る」カットです。ここではさまざまな表情をめまぐるしく見せながら、「振り返るはるか」と同じタッチで「ハーモニー」が使用されている。理奈の背景は、ほとんど「露出オーヴァ」といった具合で光の白さが満ち溢れており、これまで見せたことのない悪魔的な表情のあらわれを視聴者が不意に目にするとき、このカットが未来の暗示であることを察知してしまうのではないでしょうか。「ハーモニー」によって、はるかが「異化作用」と「過去」を画面に導入するとしたら、逆に理奈は「異化作用」と「未来」を導入するかのようにみえます。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★７　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C0%AE%B9%DD" class="tagword">吉成鋼</a>」の使い方</span></strong><br /><br />　ここで指摘しなければならないこと。、それは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C0%AE%B9%DD" class="tagword">吉成鋼</a>」という「スター<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ータ(※イラストレータ)」による作画であると一瞬でわかることの重要性でしょうか。<br /><br />　第１頁のEDを見ているのだから、あるいはきわめて印象的な技法が使用されているのだから、誰もがそれを判別し、誰もがそれをネットに書き込むことになるでしょう。そして他の多くの作品では、そういうことは起こらない。実際、色がつき、背景がつき、エフェクトがつき、撮影なり合成なり編集なり音入れなり…がされた後に、決してよい視聴環境とはいえない画面をみて、作画だけを純粋に評価することはプロ・アマ問わず、ほとんど不可能に近い。ましてや誰がどのパートを担当しており、どれくらい動検や作監の修正が入っているかを制作サイドのソース抜きで「当てる」ことは至難の業でありましょう。<br /><br />　そのような事態に対して、『WHITE ALBUM』はきわめて狡猾な戦略を使用しているようにみえます。要するに、誰もが確実にこの作品を介して「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C0%AE%B9%DD" class="tagword">吉成鋼</a>」に何らかのかたちで言及できるように、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C0%AE%B9%DD" class="tagword">吉成鋼</a>というスターの既成性」を利用しているのです。山本寛さんの場合を想像していただければわかると思うのですが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>業界の「スター」は担当セクションにかぎらず、作品を叩き台にして頭角をあらわします。つまり「スター」≧作品という図式ができあがる。だが、この作品ではそういう事態が起こらない。むしろ「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C0%AE%B9%DD" class="tagword">吉成鋼</a>というスターの既成性」を「誰の目にもあきらかなかたち」で浮き上がらせることによって、逆に利用しているように見えるのです。<br /><br />　ですから、正確にこう言うべきかもしれません。これらの「ハーモニー風のカット」によって画面の連鎖に導入されているのは、「異化作用」と「過去」と「未来(の暗示)」だけでなく、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C0%AE%B9%DD" class="tagword">吉成鋼</a>のしるし」である、と。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★８　電話をめぐる「選別と排除」</span></strong><br /><br />　わずか２２０～２３０カットほどで出来ている今回の挿話の構成の妙技としては、第1頁(話)のラストシーンおよび第２頁(話)のアバンが、ラストシーンにおいて変奏されているということでしょうか。<br /><br />　前者では冬弥と由綺の電話のやりとり、およびはるかの訪問(インターホンの効果音)が描かれますが、後者においては、冬弥と理奈の電話のやりとり、、および「イスタブリッシング・ショット」で冬弥の住まう建造物を自転車で訪問するはるかが描かれます。さらに今回の挿話のラストシーンの直前の場面では冬弥に電話しようとしている由綺が描かれていますから、後者の事態は前者よりもさらに錯綜の様相を呈しておりますね。まさに「混線＝混戦」という形容がふさわしい。<br /><br />　いずれ、『WHITE ALBUM』において執拗に描写される「電話」で「繋がること」をめぐる「選別と排除」がいかなる力学に則って機能しているかが見えてくるでしょう。たとえば、理奈と冬弥の電話が「繋が」れば、必然的に由綺が「排除」されるという風に。あるいは、篠塚弥生が運転する自動車に搭載されている例外的な「携帯電話」はいかに機能するのか。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★９　空間の希薄さ、あるいは「８０年代の風景」。</span></strong><br /><br />　また、「電話」という小道具は「時間と空間をいかに描くか」、という問いを制作者に鋭く突きつけてくるものであり、より正確には「制約」として働きます。<br /><br />　ここまでの挿話を見ていると、『WHITE ALBUM』では「空間描写」がきわめて希薄であります。「時代≒時間」を感じさせる小道具などはしつこく描写されるのですが、とりわけ空間描写に関しては、物語の舞台設定が「東京」であるのかどうかも実は定かではないのです。都会の摩天楼を大俯瞰で描いたカットは第1話（頁）・２話ともにひとつも存在しておらず、巨大な建造物としての荘厳なテレビ局の全景を描いた描写も見当たりませんね。東京タワーもございません。また、冬休みでもなかろう11月の「夕凪大学」の閑散ぶりはいかにも奇妙ですよね。校舎の外には「誰ひとりとして学生がいない」のですから。<br /><br />　今回の挿話では、緒方英二が「とう（東？）テレ」とつぶやいたりはしますが、物語は「現代劇」と呼ぶにはあまりに希薄で曖昧な場所で展開してゆきます。由綺の住んでいるらしき高層マンションの「イスタブリッシング・ショット」などを見ても不気味なほどに、その周りは背の低い建物の影に囲まれておりましたね。<br /><br />　つまり、シリーズ構成の冒頭部分にあたる第1話（頁）・2話において、「８０年代の風景」が存在してはいないのです。<br /><br />　昨年の秋クールに大胆な構成で好評を博した『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』における過剰なまでの「ロケーション（ロケ・ハン）主義」、近年の「聖地巡礼ブーム」の盛り上がりを考慮してみましょう。すると、「時代のひとつの兆候」として、「ロケーション主義」と「反＝ロケーション主義」という対立が今後の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品において見出されてゆくようにも思われます。そして、『WHITE ALBUM』について気の利いた言い方をするのなら、希薄な空間の密度を埋めてゆくかのように、固定電話という特権的な装置を媒介にして、「コミュニケーションの成功と失敗」が濃密に展開されてゆくようにもみえます。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★１０　電話、あるいは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B9%A5%AF%A1%BC%A5%EB%A5%C7%A5%A4%A5%BA" class="tagword">スクールデイズ</a>」。</span></strong><br /><br />　ところで、「間＝テクスト論」的なお話もさせていただきましょう。「原作のゲーム」では主人公の「へたれ具合」とやらで『School Days』と『WHITE ALBUM』というタイトルは並べて語られる機会が多いと仄聞いたしました。そこからの引き写しで、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>に関しても、やれ「鬱ゲー展開」などと無思慮なかたちで書き散らされることもあるようですね。<br /><br />　それらの指摘なり関心の持ち方は、けっして間違いではないでしょう。<br /><br />　ただ、舞台のモデルも明白であった『School Days』（２００７）という「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」において、「携帯電話」という小道具が物語の強力な推進力として機能していたのは多くの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ファンにとって周知の事実であります。そして『WHITE ALBUM』という「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」に関しては嘘か本当か現段階では判りませんが、放映前から「反＝携帯電話」的な作品になると「宣伝」されておりましたよね。ですから、ここに見出される両者の対立点を、多くの方が見逃されているようにもみえるのです。<br /><br /> ＜※近年のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品と携帯電話の関係については『tukinohaの絶対ブログ領域』さんの2008年4月29日の記事（http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20080429）が参考になります。カラムの右下にリンク有＞<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />　<br />　それでは本日はこの辺りにしておきましょうか。ここまでお付き合いしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。<br /> <br /> ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-01-12T10:45:56+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『WHITE ALBUM』(第１頁)の批評と解説、あるいは「吉村明」のために。</title>
<description> 　２００９年1月。東京都文京区にある某大学大学院の研究室にて。　★１　前説　吉田：新春早々に『WHITE　ALBUM』というテレビアニメを視聴したのですが、K・ワークスさんはご覧になられましたか？　K：ええ、視聴させていただきました。　平井：ネットでの評価ですが、大手のサイト・ブログも含め、否定派が多いという印象を受けましたよ。　許：わたしも否定派かなぁ。面白くないわけじゃないけど、惜しいというか、甘いというか
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<![CDATA[ 　２００９年1月。東京都文京区にある某大学大学院の研究室にて。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★１　前説</span></strong><br /><br />　吉田：新春早々に『WHITE　ALBUM』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を視聴したのですが、K・ワークスさんはご覧になられましたか？<br /><br />　K：ええ、視聴させていただきました。<br /><br />　平井：ネットでの評価ですが、大手のサイト・ブログも含め、否定派が多いという印象を受けましたよ。<br /><br />　許：わたしも否定派かなぁ。面白くないわけじゃないけど、惜しいというか、甘いというか。個別にセクションを取り出すと見るべき点は少なからずある。でも全体としては、ちぐはぐな感じ。第1話のアバンはどうでしたか？<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★２　アバンについての対話</span></strong><br /><br />　K：アバンは藤井冬弥くんの夢から始まりますね。先ずファーストカット。強い風に吹きさらされている樹々と葉っぱが、白い布地とその上に置かれたコーヒーカップに薄暗い影を落としています。俯瞰のアングルから描かれたこのカットだけで「冬」のイメージを一挙に視聴者に与えているように見えますね。「強風」のイメージはもういちどアバンで呈示され、奇妙に「誰もいない」キャンバスを藤井くんと七瀬彰くんが歩く場面でも反復されます。そして「コーヒー」のイメージについてですが、このイメージの連鎖が今回の挿話では重要な機能を果たしています。ファーストシーンの「コーヒー」もそうですけれど、藤井くんの部屋の「コーヒー」の空き缶や、喫茶店エコーズの「コーヒー」メーカー、森川由綺さんの衣装にこぼされる「コーヒー」などの類似したイメージは、きまってキャラクターをその場から「立ち去らせる」という出来事を物語に導入しております。<br /><br />　吉田：なるほど。確かに由綺は冬弥のもとを「立ち去って」ステージに向かいます。そしてあの空き缶の置かれた雑然とした部屋を冬弥はバイトのために急いで「立ち去ります」。「コーヒー」メーカーの置かれたエコーズでの場面では、追いかける冬弥を後にして緒方英二は「立ち去ります」し、控え室の場面でも由綺の同僚アイドルのふたりが緒方理奈に気圧されるかのように「立ち去る」ということですね。<br /><br />　K：ええ。そして藤井くんと向かい合った由綺さんの背後でたなびく真っ黒なカーテンの不気味さを見逃した方はおられませんね。とても暗示的です。いきなり「カットズームイン」で由綺さんのクロースアップがバッバッと唐突に捉えられますから、かなり怖い。激しいノイズで聞き取れなくなる由綺さんの台詞についてですが、定石に従うなら、今後の挿話で明かされることになるでしょうね。「ノイズ」という音のイメージは、シーンの混乱ぶりを加速させながら、アイドルとして「歌」をうたうであろう由綺さんの「（歌）声を奪うもの」であるかのようにみえます。この夢が今後の物語の暗示であると同時に藤井くんの無意識であることを鑑みれば、「ノイズ/歌声」という対立はとても示唆的ですね。そして最初の場面から次の場面への転換では、テレビから聞こえてくる緒方英二の経歴に関するナレーションが見事な役割を果たしています。それによって、最初の夢の場面が単にシュールレアルな「夢」ではなく、「現実」の入り混じった起床直前の「混濁した意識の状態」でもあることが的確に描かれるわけです。<br /><br />　許：冬弥が目を覚ましたら、「８０年代バブル（の最高潮直前）」のイメージを形成するために、「しつこい」くらいに短いカットを繋いで、さまざまな小道具が描写されてゆきますね。なかでも「フレーム内フレーム」の技法を使って、キャメラがトラックバック（後退移動）すると、「テレビ」を描いた１６：９の画面が４：３の画面に変化するカットなどはなかなかのものでした。テレビの「ノイズ」が描かれている点も見逃せない。けど、この場面でもっとも目を奪われたのは、長くうねうねとした「コード」を捉えるキャメラワークかな。<br /><br />　吉田：あのコードの「うねうね」感と、それを「しつこく」なぞるかのような「うねうね」したキャメラワークね。両者が重なり合うことで非常に印象的なカットに仕上がってる。さらに言えば「コード」のイメージ自体がこの後、「電話」の描写で何度も描かれるよね。<br /><br />　K：そうです。おそらく、第2話以降も含めて「コード」のイメージは執拗に描かれるでしょう。そして、何より見逃してはならないのは、そのようなイメージの連鎖が始まる１番最初に「長くて長くてうねうねした鬱陶しいコード」の描写が配置されているという事実ですね。この記号が担っている意味は重要ですよ。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★３　奇妙なキャメラワークたち</span></strong><br /><br />　平井：今回の挿話では、アバンの他にも非常に凝ったキャメラワークが幾つかありましたよね。<br /><br />　許：澤倉美咲と冬弥が向かい合って喋る場面でしょ。俯瞰のアングルからふたりが描かれているんだけど、キャメラ（≒画面のフレーム）は空中ブランコのような高速のパン（PAN：横移動）で美咲と冬弥の間を行ったりきたりする。<br /><br />　K：そうですね。まるで「揺れ動き安定感を欠いている」ふたりの関係であるかのように見えるのではないでしょうか。あの場面では、わかりやすいカット割り（編集）による構図＝逆構図の「切り返しショット」が唐突に自粛されます。由綺さんだけではなく、美咲さんと冬弥くんの心理的な距離感の推移が今後の挿話で重要になることが、このキャメラワークから容易に見て取ることができますね。<br /><br />　平井：そして喫茶店エコーズの場面ですか。緒方英二を追って店の外に冬弥が出てきましたよね。緒方を乗せた自動車が画面を横切ってフレームアウトした後、冬弥は由綺を探して文字通り＝映像通り、道路を「右往左往」しますよね。そこでまたしてもキャメラは空中ブランコのように「右往左往」する。<br /><br />　K：キャメラがキャラクターをなぞると同時に、ここでも「安定感を欠いた心理的な揺れ動き」が再現されているということでしょうか。他にはどうですか？<br /><br />　平井：やっぱり圧巻の「横スクロール」でしょうか。ロック・ファッションに身を包んだ由綺と冬弥が電話で話をする場面ですけど、カットを切らず、長いひとつらなりのフィルムのコマのように、だーっとふたりのやりとりを見せてゆきますよね。「フィルムのコマのように見える」というのがとても重要で、目に見えるかたちで、テレビと映画、そしてデジタルとアナログという対立が相対化されている。さらに付け加えると、あの「だーっ」と滑るように流れてゆく感じは画面の推移に「異化効果」をもたらすと同時に、ふたりの関係の「とりつくしまのなさ」を巧みに視覚化しているようにみえます。<br /><br />　K：ふむ。ということは、今回の挿話でときおり不意に存在感を主張するキャメラは、きまって「とりつくしまのなさ」・「心理的な安定感の欠如」を表象する機能を果たしているようにみえるということでしょうか。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★４　OPについての対話</span></strong><br /><br />　吉田：OPのテーマ曲を担当しているのは緒方理奈役でもある<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さんですね。『WHITE ALBUM』の全体でも「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A8%A5%EC%A5%E1%A5%F3%A5%C4%A1%A6%A5%AC%A1%BC%A5%C7%A5%F3" class="tagword">エレメンツ・ガーデン</a>」が音楽を担当するという念の入れよう。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの方も大胆な選択をしましたね。<br /><br />　K：超クロースアップした対象や風景なりをやわらかいタッチの描線やフルデジタルで描くという選択。あるいは大胆なことに、ほとんど「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>イト」させないという選択でしょうか（笑）。もちろん、「動く」ことが<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの本質ではありませんから、それ自体は問題ありません。それよりも先ほど、平井くんが「異化効果」という言葉を使いましたけれど、確かBパートの唐突な「ハーモニー」でも鉛筆で描いたかのようなやわらかいタッチで由綺のバストアップが描かれておりましたでしょう。これにも「異化効果」があるわけですが、重要なことは、OPの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションでも、それと似たような「異化効果」が使用されており、両者において、「メディア・スぺシフィック」という美術史の考え方が採用されているかのようにみえるということです。<br /><br />　許：えっと、「メディア・スペシフィック」とは、たとえばある画を描くとき、その画のあり方を決定するのは、「アイディアやテーマ」といった観念ではなく、「画材やメディア」といった物質であるという考え方ですね。<br /><br />　K:：ええ。「フィルムのコマの連鎖のように見える」ことの重要性もそうですが、OPでも本編との関連が不明瞭な対象、描線のタッチや色彩の質感の強調、「動かさない」という大胆な選択など目に見えるかたちで「メディア・スペシフィック」がなされている。確かに「手抜き」とか製作費や製作期間といった視点からも議論を展開することはできますが、厳密な数字がわからない場合、わたしには、あまり建設的であるとは思えません。<br /><br />　吉田：そうなると、たとえば、OPを<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%BC%F9%C6%E0%A1%B9" class="tagword">水樹奈々</a>さんが担当し、それに対してEDでは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%BF%CC%EE%B0%BD" class="tagword">平野綾</a>さんが担当しないという不均衡を、作品における理奈と由綺の関係にどうのように反映させてゆくのか。これは製作委員会的な要請に対して、現場の上流工程を担当する制作者たちの知性がもろに問われる課題でしょうね。<br /><br />　K：おっしゃるとおりでございましょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★５　「レトリスム」の効果と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a></span></strong><br /><br />　K：さて、Aパートについてはいかがでしょうか。<br /><br />　平井：アバンの終り近くからですけど、終始、「レトリスム（≒芸術で文字を使う技法全般）」が使用されますよね。あたかも冬弥の内的独白であるかのような文字が画面に浮かび上がる。テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>で「レトリスム」と言えば、どうしても<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>作品と比較してしまいますから、妙に淡白で、公衆電話の場面など見にくい事もある文字のフォントはいかにも物足りないのではないでしょうか？<br /><br />　吉田：けどさ、逆に言うのなら今回の挿話を見たかぎり、理奈による「負けないで、由綺」という台詞を例外として、「内的独白」が使用されていないという事実を指摘した方がいいんじゃないかな。だからこそ、キャラクターたちが「何を考えているのかわからない」という不気味な印象を視聴者に与えることができる。その「不気味さ」と比較した場合、冬弥の「視覚化された内的独白」が視聴者に与えてくれるキャラクターの「内面の情報量＝安心感」はいかにも少ないんだよな。<br /><br />　K：ふむ…。もしも平井さんが言うような「レトリスム批判」の原因があるとすれば、そのような「不気味さと安心感の不均衡」が上手く評価されずにいることもひとつの要因かもしれませんね。たとえば、2004年以後の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC" class="tagword">新房</a>×<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>はそういう「演出」をしなければならないような「題材」は周到に避けてきましたよね。機会があればお話しするかもしれませんが、漫画や美術、映画メディアでは多用されている「レトリスム」が、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>では上手く受容されていないという大きな問題もありますね。<br /><br />　平井：ただ、今回の挿話のタイトルテロップ、「第１頁/そう、あのときはもう、/スイッチが入ってたんじゃ/ないかなあ」までも、冬弥の内的独白であると仮定した場合、「あのときはもう～入ってた」と「過去形」になっていますから、本編が「回想」であることになりますよね。だから厳密に見るのなら、まったく同じフォントがさまざまな場面で使用されていながら、実は必ずしもそれは冬弥のものではなく、特定不可能で「多声的」なものであるということもできるのではないでしょうか。<br /><br />　K：もちろん、そのとおりでしょうね。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★６　躓きの石、あるいは階段。</span></strong><br /><br />　許：「階段」から由綺が降りてきて、冬弥と遭遇する場面がありましたよね。ふたりの「ディスコミュニケーション」ぶりが描かれるわけですが、あそこはもっとカットを割ってめまぐるしくした方が良かった気がするのですが……。<br /><br />　吉田：俺もそう思います。アバンから室内・屋外問わず暗い画調が続き、冴えない表情の冬弥くんの視点で事態が推移してきましたから、「現実」に「初めて」視聴者の前で「ふたりの男女の遭遇」を描くなら、ここで「客観ショット」や「ロングショット」を多用するなりして視点を冬弥から変更させなきゃいけない。そうでないと、冬弥に感情移入でき（てい〉なかったり、キャラクターのデザインや声優さんの演技があまり好みでない視聴者の多くが、この場面で、作品に対して決定的に負の感情を抱く可能性が高くなる。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CE%C3%B5%DC%A5%CF%A5%EB%A5%D2%A4%CE%CD%AB%DD%B5" class="tagword">涼宮ハルヒの憂鬱</a>』のような「題材」におけるキョンみたいなキャラクターの1人称視点と藤田冬弥のそれとはまるで違うのですから。同クール<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%DE%A4%EA%A4%A2%A2%F7%A4%DB%A4%EA%A4%C3%A4%AF" class="tagword">まりあ†ほりっく</a>』（第1話）の「男女の遭遇」と比較してもいい。もちろん全体のシリーズ構成を考慮したうえで、そのような選択がされた可能性もある。だけど、視聴者から「1話斬り」されたら本末転倒でしょう。よほど作画が美麗であるとか、超人気原作付き<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>であるなどの条件がないと苦しいかなぁ。<br /><br />　K：……。どういうわけだか「階段」というドラマティックな舞台装置が描かれた場面は、「クリティカル・ポイント」になっちゃうんですよね（笑）。メディアやジャンルを問わず映像系の人間って、洋の古今東西を問わず「階段」が大好きですから。<br /><br />　許：言われてみれば、それに続き、美咲と冬弥が座って喋る場面でも、背景に「階段」が描写されていましたよね。ここでも、ふたりの「ディスコミュニケーション」ぶりが描かれてる。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★７　「ハイライト」、あるいは電車。</span></strong><br /><br />　平林：で、曇天の中、電車に乗ってエコーズのバイトに向かう冬弥と彰のふたりですけど、最初に電車の屋外を描写したカットの後に、車内で並んで座っているふたりを描いたカットが編集されますよね。ここ、「繋ぎ間違い」に見えたんですが、それには目を伏せてふたりの会話を聞いてると、電車がトンネルに入って、横の構図が縦の構図へ変わりますね。そしてきわめてメカニカルに動く3両の電車内が描かれる。冬弥たちの会話とアンニュイな調子のBGMは淡々と続くんですが、「アイドルなんだな、由綺は」と彰がつぶやくと、不意に、物凄い閃光が画面の奥からやってきて完全にホワイトアウトする。<br /><br />　K：そうです、「暗いトンネルを抜ける」映像と「アイドル」という言葉が重なってシークエンスが転換しますでしょう。まさに文字通り＝映像通り、「まぶしい光に照らされたアイドルたち」のシークエンスが始まるというわけです。そしてそれだけではなく、アイドルたちのシークエンスは「電車」の縦の構図と呼応するかのように、またしても縦の構図で「トラックバック」しながら始まり、「アクションつなぎ」でキャメラの位置が反転すると、理奈さんの視界の向こうから、縦の構図で桜団の女の子たちがあたかも「電車」であるかのように１列になって画面の手前に向かって歩いてくる。これらの部分が実に素晴らしかった。<br /><br />　吉田：確かに。その直後ですか、俯瞰ショット（カット）を挟んで縦の構図が横の構図に変化すると、あたかもすれ違う「電車」同士であるかのように、理奈と桜団の女の子たちがすれ違い、後者はきわめて機械的かつ規則的なテンポで視線を合わせることなく、「おはようございまーす」と次々と輪唱してゆく。恐るべき緊張感が画面いっぱいに張り詰めて、もう、やられましたね。俺も見事だと思いました。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★８　炸裂する「錯時法」</span></strong><br /><br />　K：それでは、Bパートのラストまで見渡してみていかがでしょうか。<br /><br />　許：テレビ番組の放映時間と現在をずらしたり、音先行や音残しなどの音響演出を多用するといった「錯時法」が使われていましたね。わたしが気になったのは繰り返される2度目の「録画なの」という不気味な台詞を聞ける冬弥と由綺が電話する場面かなぁ。<br /><br />　吉田：電話の受話器をもった由綺を舐めるように滑り落ちてゆくキャメラが、ふっと左耳の骸骨のピアスを捉えるんだよね。あれは怖かった。結局は、ショットサイズが変わってそれが舞台用の衣装（アクセサリー）であることがわかりますね。けど、その衣装の来歴が凄い。由綺の回想が始まるんだけど、その回想もこれまた凄いんですよね。先に確認しておくと、電話しているふたり→過去に録画されて現在放映されているテレビ番組の映像→現在の由綺→過去の由綺（回想a）→そのまた過去の由綺（回想の回想）→過去の由綺（回想a）→そのまた過去の由綺（回想の回想）→過去の由綺（回想a）……という具合に構成されている。要するに「時系列をバラバラにする錯時法」が使用されているわけですよね。だけどそれは、「直線的な時間軸を批判する」ためというよりもむしろ、「視聴者を混乱に陥れる」ために使用されているようにしか見えない。<br /><br />　平井：怖すぎる！<br /><br />　K：ええ、まったくですね。そして、その混乱を激しく加速させるのが、由綺（たち）の舞台衣装に次々と色が塗られ、メイクする際に使用されるような「ジャンプカット」、さらには控え室の前で使用されるような異様な軌跡を描くキャメラワークでしょうか。それらが、複雑な回想のなかに織り込まれていますね。前者の「ジャンプカット」は使えば使うほど、画面の推移がめまぐるしくなり、高速で時間が過ぎてゆくように感じられるし、後者は幻覚的なめまいを覚えさせるかのような効果がありますでしょう。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★９　機械と骸骨</span></strong><br /><br />　吉田：はい。そして複雑な回想の構造において、由綺たち３人が、やや霞（かすみ）がかった画面で「アハハハハッ」と高笑いしているカットがモンタージュされますよね。で、このときに見逃してはならないのが、彼女らの高笑いが音響・録音演出で「人工化」されているということです。要するに完全に「機械化された笑い声」であるかのように聴こえるのです。その少し後、舞台上でコーラスを担当する由綺たちを描いたカットがあらわれるのですが、その作画アクションが見方によってはかなりの「手抜き」になっています。にもかかわらず、作画演出としては完璧なんですよ。どういうことかというと、「人間の動き」ではなく「機械の動き」にしか見えないのですが、このシークエンスにおいてはきわめて的確だと言わざるを得ません。<br /><br />　許：確かにね。そこにおいてこそ、あの「骸骨」のイメージが効果を発揮するとも言えるもんね。つまり、「人間→機械」という事態の推移が、「皮膚の下にあるはずの骸骨」のイメージが担っている不気味さと共鳴するのね。いささか図式的な言い方をすると、そうして「アイドル」の形象が姿をあらわし始める……ということかな。<br /><br />　平井：怖すぎる！<br /><br />　K：しかも、リリカルで悲壮感溢れる「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A8%A5%EC%A5%E1%A5%F3%A5%C4%A1%A6%A5%AC%A1%BC%A5%C7%A5%F3" class="tagword">エレメンツ・ガーデン</a>」の音楽が、延々と画面の連鎖に重ねられておりますでしょう。先ほどお話に出た「横スクロール」のキャメラワークがそこに連なり、さらに「ジャンプカット・モンタージュ・シークエンス」で次々とカットが積み重ねられながら、ゆっくりゆっくり、今回の挿話のラストカットに重なる「ピンポーン」というインターホンの効果音に向けて、BGMの音量が上がってゆく、と。<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">★１０　オマケ</span></strong><br /><br />　平井：怖すぎる！<br /><br />　吉田：（ボイスレコーダーをとめる）もういいよ、平井さん。そんな平井さんのような人のために、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%C8%C0%AE%B9%DD" class="tagword">吉成鋼</a>さんが担当されたあの愛らしいエンディング<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション（というかイラスト〉がある、ということでしょうか？<br /><br />　K：あるいは、そうかもしれませんね（笑）。楽曲もいいですよ。<br /><br />　<br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>セブン・アークス</dc:subject>
<dc:date>2009-01-05T16:06:54+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『ヒャッコ』（第13話）の批評と解説、あるいは「福田道生」のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『ヒャッコ』というテレビアニメの最終話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？　★１　『喰霊 -零-』と『ヒャッコ』、あるいは「前説法」と「後説法」。　今期放映された『喰霊 -零-』というアニメでは、１０話分の尺を使用した壮大な「前説法」で視聴者の度肝を抜きました。要するに、第１・２話であらかじめ結論を提示しておき、しかる後に１０話分の尺を使って、
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんばんわ。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の最終話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？<br /><br />　<strong>★１　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』と『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』、あるいは「前説法」と「後説法」。</strong><br /><br />　今期放映された『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』という<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>では、１０話分の尺を使用した壮大な「前説法」で視聴者の度肝を抜きました。要するに、第１・２話であらかじめ結論を提示しておき、しかる後に１０話分の尺を使って、そこにいたる過去の過程を描くという技法。これは「フラッシュフォーワード」と呼ばれております。<br /><br />　それに対して、同クール・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>である『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の第１３話では、シリーズの第１話で「隠蔽」されていた「物語のスタート地点」を、ようやく描くという構成が取られております。これは広い意味での「フラッシュバック」の技法でございますね。<br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』の「フラッシュフォーワード」を「前説法」と訳すなら、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の「フラッシュバック」は「後説法」と訳されるべきものでありましょう。<br /><br />　今クールで、このような「シリーズ構成」における「時間の操作」を、あからさまに行ったテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品はこの２本だけですが（※例外：『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies』はあえて「現在」を描かずに「過去と未来の絶えざる交換」だけを描くという驚異的な実験を行いました）、両者は真逆の「時間操作」を行っているということですね。<br /><br />　商業<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの世界において、こんな風に「シリーズ構成」のレヴェルで「時間をいじくる」野心的な作品は、無条件に擁護したくなってしまいます。ともに「原作」に縛られない素晴らしい創意であり、高く評価せざるを得ますまい。<br /><br />　<strong>★２　「アバン」と呼ばれるテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の「制度」を出し抜くこと</strong><br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のシリーズではOP前のいわゆる「アバン」描写が多く排除されております。「アバン」とはテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の「制度」ですよね。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%A1%C5%C4%C6%BB%C0%B8" class="tagword">福田道生</a>」は、ひたすらそのような「制度」を無視した挙句、最終話で不意に「アバン」という制度を利用する不届きな輩であります。画面は今までとまるで違う雰囲気。雨が振り落ちてくる暗い空、全体的に暗い画調。これまで多用されてきた「入射光（的な）」演出の余地はない。それを、唐突に使ってみせるのです。これぞ、「制度」破りでありましょう。<br /><br />　<strong>★３　「両親」の排除された「家族」を描くこと</strong><br /><br />　２８０カット前後で構成されている今回の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』。そのAパート。レトリスム（黒画面に白抜きの文字）で、これから描かれる物語が、「去る４月４日」の入学式の出来事であることが視聴者に知らされます。ここでわたしたちは、「フラッシュバック＝後説法」というギミックを、福田さんは最終話で使用してきやがる！と興奮してしまう。<br /><br />　さて、これまでの挿話で描かれてきた１年６組の女の子たちの入学式当日の賑やかな光景が次々と描かれてゆきますね。そして、このシークエンスにおいて、「兄弟姉妹」の類は描かれているのに、どういうわけか、「両親」が描かれていないことを見落としてはなりません。<br /><br />　「両親」を直接に描かないことは、「空気系マルチヒロイズム型萌え・美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」と呼ばれるジャンルの「目印」でありますから、当然と言えば当然であります。<br /><br />　もっとわかりやすく申し上げますと、「両親」を描写すると、「（ファミリー）メロドラマ」というジャンルの干渉を受けてしまいます。ですから、それを排除することで、「空気系マルチヒロイズム型萌え・美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」としての「純度」を上げようとするわけです（このような「純度」を上げすぎた作品が『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%E7%F5%A4%DE%A4%B7%A4%DE%A4%ED" class="tagword">苺ましまろ</a>』という傑作であることは論を待ちますまい：虎子と雀がキスをする「百合描写」の問題については次回）。<br /><br />　<strong>★４　急き立てられることの循環</strong><br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の第１話を思い出してくださいな。誰もが始業式に遅れまいとして、急かされる様が描かれておりましたよね。んで、最終話。今回の挿話も、結局は、入学式に遅れまいとしてあたふたする１年６組の愉快な仲間たちが描かれ、ほとんどの女の子は間に合うのですが、やはり虎子と雀は間に合いません。<br /><br />　要するに、「急かされること」≒「遅刻すること」≒「時間には縛られないこと」という類似したイメージを第１話と最終話で反復しているように見えるわけです。<br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の多くの挿話では作画演出がほんのときおり、「キラッ☆」と輝きますが、大抵の場合は止め画とポスプロ演出によって見る者を惹きつけます。作画演出を強調すると、必然的にキャラクターも含めた「空間」の描写に制作・作画の時間をかけることになりますが、後者を強調いたしますと、「時間」の演出・構成を強調することになります。<br /><br />　誰もが『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』において繰り返し描写される「学校の時計」の重要性を指摘いたします。付け加えるならば、「スローモーション」・「クィック・モーション（この場合はコマ落とし）」・「マルチテイク（同じ出来事を連続して別のアングルから描いたり反復する）」も含めて、近年の優れた作品のすべてに共通する特徴である「時間をいかに描くか」、という問題について、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%A1%C5%C4%C6%BB%C0%B8" class="tagword">福田道生</a>」も決して鈍感ではございません。<br /><br />　第１話と最終話によって描きあげられる「時間の円環」は、そのあらわれでもありましょう。<br /><br />　そして彼女らは、現代人であるかのように、きまって「時間に急き立てられている」のであります。<br /><br />　<strong>★５　雨と涙と桜の落下運動、あるいは傘恭一狼（あまがさきょういちろう）。</strong><br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のキャラクターたちは誰もが大粒の、時に血の涙でさえも頻繁に流します。鼻血もそうですね。今年放映されたテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の中で、流れた涙の回数と総量はおそらく、№１であるように思われます。<br /><br />　そんな「流れ落ちる涙なり血液」なりのイメージは、EDで歩巳を演じる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%BF%CC%EE%B0%BD" class="tagword">平野綾</a>さんが歌う『涙 NAMIDA なみだ』とはるかに共鳴音を響かせており、それらを包み込むように、今回の最終話では「雨」の描写がそれらのイメージに重なります。<br /><br />　Aパート全体では直接的に激しく振り落ちる雨を描いたカットはございませんが、Bパートではいきなり桜舞い散る春日びよりがシーンを彩ります。「降雨」に変わって、ひたすらかつ唐突に、「桜の花びら」が振り落ちるわけですが、ともに「落下運動」であることに変わりはございません。<br /><br />　そしてその「落下運動」を止めるのが名前とおりの傘（あまがさ）先生。１年６組の教室に入ってきた彼が、「まだ来ていない「やつ」がいるなぁ…」とつぶやいた直後のシーンで、OPのテーマ曲が流れ始め、その対象である虎子と雀の視界に映る暗雲が切り開かれるわけですから、まさに「傘」先生は文字通り＝映像通り、雨をせき止める「きっかけ」を作品に導入しているように見えるわけですね。これは見事であると評価するべきでしょう。<br /><br />　それに続きまして、雨でもなく桜でもなく、「入射光（的な演出）」が画面の上端からさんさんと「降り注ぎ始める」わけであります。<br /><br />　<strong>★６　「クロスカッティング」と呼ばれる技法</strong><br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの「コンテ・演出」は、「切り返しショット」と「クロスカット」の原理がわかっていれば、十分に成立いたします。<br /><br />　今回の挿話では、開始された神園学園の入学式に対して、そこへ息を切らしながら走って向かう虎子と雀、および、「誰が描いたのか指摘したくて仕方がなくなる自動車」に乗った龍姫が交互にモンタージュ（≒編集≒カッティング）されてゆきます。これを「クロスカッティング」と呼ぶわけですが、視聴者は「ハラハラどきどき」しながら、「間に合うのか、間に合わないのか」と感情移入しながら、ぐいぐいと作品のラストシーンに向けて惹き込まれてゆくわけです。<br /><br />　ましてや、そこにOPの楽曲が重なっているわけですから、音楽と共に時間の経過が描かれてゆく「シークエンス・モンタージュ」と呼ばれる技法が使用されていると言ってもいいですね。そして龍姫を乗せた自動車が渋滞に巻き込まれるカットなどは、完璧な「クロスカッテイング」です。「クライマックス」が延期されることは、「性的な快楽のじらし」と同じような効果がございます。<br /><br />　これはきわめて基礎的なのですが、えてして「見た目の派手さ」を<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>史的な演出で装飾する『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』において、むしろ逆に、奇を衒わないストレートな「コンテ・演出」を最終話に持ってきたという意味では、潔いと評したい。<br /><br />　あるいは、いけしゃあしゃあと最終話くらいは「コンパクトにまとめよう」とする福田さんのディレクションの図太さに脱帽せよ、ということでしょうか。わたしが申し上げる必要もございませんが、大変に優れている。<br /><br />　<strong>★７　感動的な歩巳による「ヴォイス・オーヴァ」</strong><br /><br />　EDが終了いたしますと、Cパートが始まりますね。結局は入学式の時刻に間に合わない虎子と雀のヒッチハイクのシーンでございます。<br /><br />　虎子は相変わらず「メタ」な台詞を吐き続けますが、キャメラ（※画面のフレーム）は何故か、ここにいたって能弁になった雀さえも置き去りにして、「パン・アップ」してゆきます。シーンを切るための技法である「空抜け」ですね。そしてその空を描いた映像に歩巳の「ヴォイス・オーヴァ」が重なります。彼女の声が画面の外から聞こえてきます。彼女はつぶやきます、自分たちが出会うのは、このシーンから少し後であると。<br /><br />　歩巳はそのような旨をオフでつぶやくわけですが、この最終話のラストシーンが、またしても第１話の冒頭の彼女の「内的独白」の台詞と「円環」を結ぶことによって、シリーズは綺麗に終息するわけでございますね。<br /><br />　<strong>★８　火継（ひつぎ）ちゃん否定論者の跳梁跋扈を批判しておく。</strong><br /><br />　画面の連鎖のところどころに差し挟まれる小学生。そう火継ちゃんと八木ちゃんのふたりが不要であるとの主張を少なからぬブログで見かけました<br /><br />　その主張の大半は、原作版では重要な役割を演じる火継ちゃんが、ちょい役としてインサートカットやシーンにおいてしか描写されてはいない、というものであります。なかには第２期を予言する大胆なブロガーも見かけましたが、そんなものは、DVDの売り上げ次第であることに早く気付いてください（笑）。続きが見たいと思われるのであれば、ぜひ予約、あるいは、買っていただきたい、と。<br /><br />　もとい、OPの楽曲を担当する<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BE%AE%C0%EE%BF%BF%C6%E0" class="tagword">小川真奈</a>さんが演じる小学生の火継ちゃんが活躍していない、本編に絡んでいないという点を批判する方は、いわゆる「原作原理主義者」ですね。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』においては、火継ちゃんと八木ちゃんの小学生コンビは、実は実写映画で言うところの「カバリッジカット、およびシーン」の担い手として、これ以上にないという巧みなアクセントを作品に与えながら、「脚本・コンテ・演出・＜編集＞チーム」に救いの手を差し伸べる機能がございます。<br /><br />　どういうことかというと、カットとカットのつながりの悪い部分やシーンとシーンに「間（ま）」が欲しいなぁ、と思われる瞬間に、決まって彼女（たち）を描いたカット（あるいはシーン）が差し挟まれるわけです。そしてこれもまた、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の妙技のひとつであるということでしょうか。<br /><br />　原作と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>版では火継ちゃんと八木ちゃんの小学生コンビが別の役割を担っています。原作の忠実な再現を重要視するあまり、「原理主義」に陥るのは、狂信的な宗教家たちと何ら変わりがない。<br /><br />　このような指摘については、真摯な「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ファン」であるかぎり、視聴者のみなさんには、ご理解いただけると思います。<br /><br />　<strong>★９　オマケ、あるいは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%A1%C5%C4%C6%BB%C0%B8" class="tagword">福田道生</a>・第１回監督作品</strong><br /><br />　そのようなわけで、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』についてのお話を終えたいと思います。総評としては、多くの方がおっしゃっているように、作画の量と質と運動感覚を「キャラクターの魅力(※声優さんたちも含む)」と「コンテ・演出」でほとんど完璧に補ったというひと言(？)に尽きます。<br /><br />　方向性としては、「声優」を除けば、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』に近いですかね。「反＝ディズニー<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」、「反＝フル<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」としての「日本のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」表現を低予算を前提に推し進めると、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のような「見た目」の作品に行き着くことは必然でございましょう。<br /><br />　そして、これはこれで、ひとつの歴史的な文脈を踏まえた「批評」的な営為であるということを、わたしたちはもっと高く評価するべきではないでしょうか。<br /><br />　何よりも、誰もが指摘することを躊躇しておられるようなのですが、<strong><span style="color:#ff0000">『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』が「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%A1%C5%C4%C6%BB%C0%B8" class="tagword">福田道生</a>」にとっての処女作である</span></strong>という事実をもっと寿（ことほ）ぐべきではなかろうか、とわたしは思っております。<br /><br />　まことに楽しく、素晴らしい作品でした。<br />　<br /><br />　<br /> ]]>
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<dc:subject>日本アニメーション</dc:subject>
<dc:date>2008-12-26T06:07:07+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>「ポスト＝オタク・イズム」についての所感。</title>
<description> 　「大きな物語」の崩壊後、蛸壺（たこつぼ）のように分断されたはずのジャンルを「ノマドな遊牧民」のように飛び越えてゆく人たちが、最近、注目されているらしい。　分断されたジャンルの横断を、目に見えるかたちで加速化させるプラットフォームは、「ニコニコ動画」などを主とするネット社会・文化である。　まるで「浅田彰と東浩紀の文化論がインターネット社会によって実現された」という感じの「物語」。　人々の文化的な身
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<![CDATA[ 　「大きな物語」の崩壊後、蛸壺（たこつぼ）のように分断されたはずのジャンルを「ノマドな遊牧民」のように飛び越えてゆく人たちが、最近、注目されているらしい。<br /><br />　分断されたジャンルの横断を、目に見えるかたちで加速化させるプラットフォームは、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%CB%A5%B3%A5%CB%A5%B3%C6%B0%B2%E8" class="tagword">ニコニコ動画</a>」などを主とするネット社会・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>である。<br /><br />　まるで「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%F5%C5%C4%BE%B4" class="tagword">浅田彰</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%EC%B9%C0%B5%AA" class="tagword">東浩紀</a>の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>論がインターネット社会によって実現された」という感じの「物語」。<br /><br />　人々の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的な身軽さは、いかにも痛快らしい。漫画・ゲーム・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>・アニソン・クラブ音楽・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B1%C7%B2%E8" class="tagword">映画</a>・ファッション・思想系の雑誌や書籍などを楽々と駆け抜けてゆく……。<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　けど、いくつか、疑問がある。ひとつは、それらを消費するための「お金」と「時間」の問題だ。<br /><br />　たとえば、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%CB%A5%B3%A5%CB%A5%B3%C6%B0%B2%E8" class="tagword">ニコニコ動画</a>」ではほとんど「お金」と「時間」を使わずに、少なくはないジャンルのメディア・コンテンツを受容することができる。だが、多くはない。実際、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%CB%A5%B3%A5%CB%A5%B3%C6%B0%B2%E8" class="tagword">ニコニコ動画</a>」で多くの人気漫画を読破して、多くの人気ゲームをクリアーすることはできないし、「データベース化された歴史のすべて」が、そこに存在しているわけでは決してない。だから、やはり「お金」と「時間」が必要になる。<br /><br />　いや、そうじゃない。「歴史のすべて」にこだわらず、「ひとつの作品」にこだわらず、表層的にジャンルを横断してゆき、さまざまなジャンルの断片に触れてゆく。そして、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の蛸壺化から<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断性」へ！<br /><br />　だが、「歴史や作品」を伴わない「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>」ってあるんだろうか？「作品から作品への横断」に対して、「ジャンルからジャンルへの横断」・「メディアからメディアへの横断」の優位を間接的に主張することは、根本的に異なる次元の問題として考えるべきだと思う。<br /><br />　そうして、インターネットを通じて、「お金」と「時間」を使うべき「作品」と、そうでないものを区別する術（すべ）を養わず、「作品の横断」ではなく、「ジャンルの横断」というかたちで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>を受容してゆく１０代の層がこれからどんどん増えてゆくのだろう。<br /><br />　けれど、そういう若者たちが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的でクリエィティブな仕事」に就こうと思ったとき、自分が従事するべき「ジャンル」を決定できるんだろうか。そして、「お金」と「時間」のかからないインターネットで「広く浅い<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>」を養った「だけ」のひとびとを鍛えてゆくだけの経済（「お金」）的＝「時間」的な余裕が、今の業界にあると本気で信じている人はどれくらい、いるのだろうか？<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的でクリエイティブな仕事」に就くための最短のルートとして、日本中に専門学校や美大などが存在している。だが、そのなかで「ものになる人」は、ひとにぎりであって、彼や彼女は「専門性」を軸にして、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断性」を駆使しながら、生産性（と自己のキャリア）をあげてゆく。<br /><br />　そして残りの多くの人は趣味・消費としての「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断性」の体現者になってゆく。<br /><br />　だが、この場合の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断性の体現者」の将来というものが、厄介だ。<br /><br />　運よく、「挫折に成功すること」ができた者は上々であろう。彼や彼女は、立派に別の業界で仕事を見つけ、ポジティブな「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断性の体現者」になる。<br /><br />　しかし「挫折に失敗した」者はどうだろう。おそらく、ネガティブな「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断性の体現者」になる。満足のゆく別の職種も見つけられず、金もない。実家暮らしなどをしていると、時間はあるから、ひたすら「お金のかからないインターネット」で広く浅く、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断」を続けてゆく。そしてひたすら、広く浅い<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>＝教養の幅を拡げてゆくだろう……。<br /><br />　で、その後は、どうすればよいのか。<br /><br />　ここで、「８０年代バブルにおける領域・横断性」と、「現代の経済不況化における領域・横断性」の持つ意味は、まるで違うという重大な事実に気付いても、もう遅い（可能性が高い）。<br /><br />　そのような差異が指摘されないままに、誰もが「インターネット社会」万歳、「二コ動」万歳、と言っているかのようだ。<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　「挫折に失敗した」者は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的でクリエイティブな仕事」に就いた者に対して、どんなに対価を支払いたいと思っても、「お金」がなければそれはできないだろう。それとも、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>」関連の専門学校にふたたび通うだろうか？もちろん、「お金」がなければそれはできない。そして卒業後の業界入りの保障などはない。「新卒」問題はもちろん、「年齢は若いか」、「都心に住んでいるか否か」、「貯金はあるか」、「自動車免許はあるか」などの壁も無視できない問題だ。<br /><br />　しかるに、インターネットを通じて、ネガティブな「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>の横断性」を体現することになる彼や彼女…・。<br /><br />　当然、誰もが「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%CD%A5%C3%A5%C8%A1%F9%A5%B9%A5%BF%A1%BC" class="tagword">ネット☆スター</a>」になれるわけではない。<br /><br />　著作権問題などで、そういう若者たちの「気持ち」をバッサリ切るような資本主義的な判断に対して、個人的には、いまひとつ腑に落ちないでいる。<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　仕事がら、そういう「挫折に失敗した」者たちに会う機会がある。<br /><br />　正確には彼らの（持ち込み）作品を見たりする機会が結構ある。年が明けたらさらに増えるだろう。気持ちはわかる。年齢や技術の壁を、努力や根性、「広く浅い横断的な知識」で何とか補おうとする彼や彼女の気持ちは痛いほどにわかる。<br /><br />　けれどもやっぱり、多くの「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的でクリエイティブな仕事」の第1関門は、「横断的でライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>知識」ではなく、どの分野に関して専門的な技術と知識（・キャリア）があるのか、という問題であるという事実は、いくら主張しても主張しすぎることはないと思う。<br /><br />　この記事を読んだ若い人たちには、特に強く、主張しておきたい。<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　ある種の消費<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>論として、「蛸壺化した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>から横断的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>へ」という問題はとても興味深く、おもしろい。<br /><br />　あたかも「フランス現代思想の劣化コピー」であるかのようにおもしろい。<br /><br />　いずれにせよ、カルスタ系の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>論ではなく、端的なコンテンツの「生産」という経済の問題を忘れているのではないか？「生産者」が介在する余地のない「消費者」オンリーで完結する「美しい」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>論・状況論っておかしいんじゃなかろうか？<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />　<br />　一般的にスポーツの世界では、競技人口の裾野の多さがその競技のレヴェルを決めるといわれている。１００人しかサッカー人口のない国よりも、１００万人のサッカー人口のある国の方が強いのは、想像に難くないし、統計的にも実証できると思う。<br /><br />　これは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的でクリエイティブな仕事」にも当てはまるとわたしは考えている。１００人しか<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の制作者＝視聴者のいない国よりも、１００万人<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の制作者＝視聴者のいる国の方が「コンテンツ・パワー」は強くポテンシャルは高い。<br /><br />　だがここで重要な疑問が生じる。「ライトなスポーツファン」の増加は競技レヴェルをおそらく高めるだろうが、「（超）ライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>層」の増加は必ずしも「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>」のコンテンツパワーやポテンシャルを高めることに貢献しないのではないか？　という疑問である。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　「コアな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>（創る人・語る人・お金を出す人）」の「ヴァイタリティ（生命力）」と「アクティヴィティ（活動力）」が、時に「ライトなりコアなりのスポーツ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>」をはるかに凌駕する瞬間を、わたしは生産の現場においても消費の現場においても、この眼で何度も目撃してきた。そしてそれは、現在進行形の事態である。<br /><br />　だからわたしには、「（超）ライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>層」が何かの間違いで業界に入ってしまうと、２～３年で「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>・横断的に」リタイヤする人間の数字が目に見えるかたちで加速度的に増えるのではないか、という確信のない懸念がある。<br /><br />　というのも、自分には「これしかないから続けられる」という人と、「いろんな知識を広く浅く詰め込んだ上でアレもコレも」という人では、やはり火事場の馬鹿力の度合いに違いがあるようにみえるからである。<br /><br />　そして、いっけんスマートな「（超）ライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>」たちに親和性の高そうな「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的でクリエイティブな仕事の世界」では、この「火事場の馬鹿力」が随分とものを言う。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　とは言え、現状では「（超）ライト気質な人」は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>」関連の業界に就職しようとは思わないのではないか、という気もする。<br /><br />　しかし、「コアな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>」が滅んだり、存在感を主張しなくなったり、その割合が減少するのなら、産業構造の必然によって、ライトで素質のある若い人々を囲い込まざるを得なくなるだろう。<br /><br />　理想は、「（超）ライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>層」が（も）増加することによって、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>」の生産力が向上すること。もっといえば「創造力」が向上することである。<br /><br />　けれど、たとえば現在の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション業界の状況を俯瞰してみた場合、わたしは「（超）ライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>」たちが商業ベースのプロフェッショナルとして、短くはない修行期間を経て、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>」の「生産力」と「創造力」を高めてゆくという事態を、いまひとつ、イメージできないでいる。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />　<br />　わたしは「ライト」だろうが「コア」だろうが、とにかく「仕事」ができればそれでいいと思う。<br /><br />　排除する気も抑圧する気もありはしない。ネットのポテンシャルも信じている。<br /><br />　だが、この場合の「仕事ができる」というのは、やっぱり「領域・横断的」という意味ではなく、「一意専心」の意味になってしまう。<br /><br />　だから、今現在、まさに放映されている「オッサレ～」なサブカル層をターゲットにしているテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>、アーティストちっくな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>、多くのMAD「素材」、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>と非<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>の境界を越境する」世界的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B1%C7%B2%E8" class="tagword">映画</a>を創っているのが、「修練を経たコアな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>たちである」という客観的な事実を忘却させるような多くの「言説」には、どうしても馴染めない。<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>のリミックス、認知度の向上、未知との遭遇、多数多様なひとびとの混淆から、新しいものが生み出されてゆくだろう」、と言えば確かに聞こえはいい。<br /><br />　けれど、「（超）ライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>層」で、プロフェッショナルな職業（※職能）としてホームポジション（専門的な軸）を備えている人は、おそろしく少ない気がする。そうではなく、多くの人が、ディスプレイの前で、ダンスフロアで、根無し草のように「漂流」している気がする。<br /><br />　このような問題を無視して、安定した地位にいる人間が、<strong><span style="color:#ff0000">「ポスト＝<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>・イズム」（※ジャンルを軽々と越境する（超）ライトな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%BF%A5%AF" class="tagword">オタク</a>層の到来）</span></strong>を無邪気に肯定・擁護することは、かなり危うい行為じゃなかろうか。<br /><br />　「未来を志向する」ために、もっとシビアに考えるべきだと思う。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%B8%B2%BD" class="tagword">文化</a>的な楽観論は、宗教やアヘンのようなものだから。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>オタク・世代・自己批判</dc:subject>
<dc:date>2008-12-25T05:18:48+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<item rdf:about="http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-263.html">
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<title>アニメ版『とらドラ！』における「普通さの凄み」を断固として擁護する、あるいは「長井龍雪」のために。</title>
<description> 　　 はい、みなさん、おはこんばんちわ。本日は『とらドラ！』という「テレビアニメ」（の第１２話）についてのお話でございます。　★１　前説　おいおい、テレビアニメ版の『とらドラ！』ってつまらないの？　どういうわけかアニメ版『とらドラ！』の評判がよろしくない、と言うと語弊があります。私見によれば、ブログ論壇における「玄人」筋においては評価が低く、「素人」筋において評価が高いと言った方が正確でしょう。視聴
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<![CDATA[ 　<br />　 はい、みなさん、おはこんばんちわ。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』という「テレビアニメ」（の第１２話）についてのお話でございます。<br /><br />　<strong>★１　前説　おいおい、テレビアニメ版の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』ってつまらないの？</strong><br /><br />　どういうわけかアニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』の評判がよろしくない、と言うと語弊があります。私見によれば、ブログ論壇における「玄人」筋においては評価が低く、「素人」筋において評価が高いと言った方が正確でしょう。視聴率や話題性、不謹慎ですが無料動画共有サイトの再生回数ランキングでは断トツの人気を誇っているアニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』がメディアミックス時代における優れた作品であることは誰も否定できません。<br /><br />　たとえば<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%E5%C5%E7%C5%D8" class="tagword">水島努</a>監督と最強の声優陣を揃えた『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B1%A5%E1%A5%B3%A5%C7%A5%E9%A5%C3%A5%AF%A5%B9" class="tagword">ケメコデラックス</a>！』を擁護して「通（つう）ぶる」ような振る舞いは、「ジャンプの漫画はつまらねぇよ」論者と同じく短絡と早計の匂いがいたします。<br /><br />　ともかく疑問なのは、どうして「玄人」筋からは批判され、「素人」筋から評価されるのか、ということです。前者に関しては、誰もが調子を合わせたかのように、アニメ版の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』が「普通過ぎること」を批判します。多少、気の利いた論者であるならば、原作との比較という観点から批判を展開してゆきますが、その批判の言葉は似たり寄ったりで、まったくつまらない。<br /><br />　<strong>★２　『とらドラ』派と『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』派？</strong><br /><br />　わたしはこれまでに放映されたテレビアニメ『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』の全話をオンエアで視聴したわけではありません。それでも視聴する機会があるごとに、よくできているなぁ、と感心いたします。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』のような「過剰装飾（※非・作画的な演出の過多）」ぎみの作品を評価しない論者はこういう作品を高く評価するのだろうな、と思い込んでいたのですが、そうではないらしい。<br /><br />　しかるに、みなさん、アニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』の第1２話を見直してみましょう。いくら予防線を張られても、<strong><span style="color:#ff0000">アニメは絶対に原作を越えられない</span>（</strong><a href="http://ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=296" target="_blank" title="アニメ版『とらドラ！』が物足りない理由">アニメ版『とらドラ！』が物足りない理由</a>）とかわけのわからん評価をされたら、われわれの沽券にかかわりますからな。<br /><br />　<strong>★３　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』を客観的な事実から評価する、あるいは派手な演出と「普通さ」の演出。</strong><br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』の第12話では大橋高校の「文化祭」というエピソードの断片が描かれますが、全編は２７０～２８０カット程で構成されております。たとえば、「コードギアス」や<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>作品のように畳み掛けるような４００カット超えや、逆に松尾衡監督の『紅』のように２００カット以下で本編を構成されると、ちょっと注目せざる得ない「コンテ・演出」になります。それに対して、確かに『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』はいかにも凡庸なカット数で構成されております。やや手抜きかな、といったカット数であると言ってもいいくらいです。<br />　<br />　続いて、コンテ・演出のテクニックを指摘させていただきましょうか。はじめに結論だけ述べておきましょう。すると、およそ、基礎的な技法しか使用されてはおりません。<br /><br />　シーンの舞台を冒頭で状況説明的に描写する「イスタブリッシング・ショット」、ふたりの人物間の二元論的な切り返しショットの遵守、「主観・視点ショット」の使用、「フォーカス・イン」のようなピンボケの調整、白画面・黒画面があらわれる「フェード」、Bパート冒頭に見られるカットの畳み掛けで時間の経過を演出する「シークエンス・モンタージュ」、先行する画の被写体に対して次のカットで近付いたり離れたりする「カットズームイン」・「カットズームアウト」、おおよそ、その程度なのです。人の眼を惹きつける広角＝魚眼レンズ効果、望遠レンズ効果、京都アニメーションが得意とするような画面で炸裂するド派手な「ヴィジュアル・エフェクト」などもほぼ見当たりません。あまり詳述する気はありませんが、作画のクオリティと作画枚数も特筆するべきほどではございません。「劇中劇」や「ハーモニー(※劇画調の止め画)風のポスター」なども現代のテレビアニメにおいては当たり前過ぎて特筆する必要はないでしょう。場面に応じて空間の比率を変動させる「チーティング」についても同様であります。音響演出においては、効果音・環境音・BGM、よりも声優の演技力を重視しており、奇を衒った「音いじり」（映像と音声をズラしたりすることね）や大仰な「ミッキーマウジング（※作画ではなく、音楽で視聴者の感情を操作する技法）」はほとんど見当たりません。作画チームの肩凝りと腰痛が悪化しそうな「パース」もありませんでしたね。他作品からの引用は２カット見られましたが、今は省きます。<br /><br />　だから、「見た目はとても地味である」という評価は間違っていないように見えます。言葉を換えるなら、人の眼を惹くような演出は意図的に排除されております。繰り返しますが、「意図的に排除している」ようにしか見えないということです。<br /><br />　私見によれば、この「意図的な排除」が「演出である」と理解してもらえないところに、「玄人」筋から評価されない理由があるように思われます。演出には「ド派手な演出」と「静謐さの演出」がございます。けれど、たとえば<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>作品の演出や京アニの美麗で潔癖な作画演出の影響が、あからさまに視聴者の批評眼を前者に方向付けているかのように思われます。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』というテレビアニメは後者の演出術の観点から評価されるべきなのですが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%B5%A4%E8%A4%CA%A4%E9%C0%E4%CB%BE%C0%E8%C0%B8" class="tagword">さよなら絶望先生</a>」シリーズのようなアニメーション作品が「演出」の白眉であるという先入観があると、後者の「静謐さの演出」、すなわち、現代において「あえて普通さを演出すること」の凄みが、ないがしろにされてしまうように思われます。<br /><br />　<strong>★４　「普通さを演出すること」に対する鈍感さ</strong><br /><br />　テレビアニメの演出で「無理やり」人目を惹く方法は３つしかしかございません。ひとつめは「暴力描写」、ふたつめは「性描写」、もうひとつは「アート描写」です。<br /><br />　そんな現代のテレビ・アニメ事情を当然のごとく知っているプロの大人たちが集まって、それらの演出を「意図的に排除」して人気を得るということは、ひとつの「批評」であるかのようにみえます。「暴力」がなくて何が悪い？「セックス」がなくて何が悪い？「アーティスティック」でなくて何が悪い？<br /><br />　「普通さ」を擁護して「演出」することは、「凡庸さ」を意味するわけではないのです。それよりもむしろ、テレビアニメーションにおける「普通さ」の意味を、再考する必要がございます。<br /><br />　今、あからさまにそのような方向で作品をディレクションしているのが、じつは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>監督の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』なわけですが、山本さん以外の同業者も同じようなことを考えているという事実に、わたしたち視聴者は敏感でなければならない。多くの『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』論者の方がその点を指摘し忘れている。８０パーセントは嘘としか思えない、<br /><br />　<strong>オーソドックスを目指す</strong><br /><br />　という旨の山本さんのやらしい発言（？）は、２０パーセントの少なくはない真実を含んでいるように思われるということであります。<br /><br />　<strong>★５　「普通さの凄み」とは何なのか？</strong><br /><br />　それではアニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』における「普通さ」とはいったい何なのか？「普通」であることがネガティブな評価を受けがちな現代の資本主義社会において、この「普通さの威力」とは何なのか？何故にこんな「普通のアニメ」が受けてしまうのか？<br /><br />　答えは簡単です。<br /><br />　奇抜さとしての「暴力描写」・「性描写」・「アート描写」はやらない、という「演出」、ただそれだけのことであります。それらの蔓延を排除した上で、さらに「正当派（ラブコメ）」とかいう意味不明で胡散臭い形容詞を意図的に回避するように、各パートの担当者が丁寧に「ベスト」を尽くせば、アニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』は完成いたします。それは、申し上げるまでもなく、「刺激過剰なスパイス」しか受け付けない「玄人」筋とは異なる層からきわめて高い評価を受けます。<br /><br />　そして、この言うに易く為すに難い、大胆で繊細な「賭け金」を見てもらわなければ困る制作者がたくさんいるのです。<br /><br />　そのことは、アニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』のOPのアニメーションにおける「キャメラワーク」のほとんど禁欲的な抑制ぶりを見れば、誰の眼にもあきらかでございましょう（※「もっとやれるが、われわれはあえて自粛してみせる！」という姿勢を痛いほど視聴者に魅せつける手持ちカメラのような「リフレーミング」とアクションのバランス感覚の素晴らしさは誰も否定できますまい）。<br /><br />　もちろん、岡田磨里さんの名前を挙げる方もいらっしゃるでしょうが、構成や脚本（のチェック）だけで、「視聴覚表現であるアニメーション」における「普通さの凄み」は得られない。彼女の才能は奇を衒わない設定における日常劇においてこそ真に発揮されるという評価に対しては、多くの方に同意していただけるだろうと思います。そして、そのような資質でさえもが、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』というテレビアニメーション全体の「ディレクション」にマッチすることで、はじめて顕在化できるということであります。<br /><br />　<strong>★６　第12話のほんのささいな細部の擁護、あるいは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%B9%BE%CD%B3%B0%E1" class="tagword">堀江由衣</a>」のために。</strong><br /><br />　さて、本編の第12話で描かれるみのりんの豹変ぶりが、表情の描写のレヴェルにおいて、「原作原理主義者」という立場からは納得できない、そして原作キャラクターの魅力がアニメーションにおいては目減りしている、と主張される方がおられます。そしてその方は、言うまでもなく、みのりんを演じる<strong>近年における「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CB%D9%B9%BE%CD%B3%B0%E1" class="tagword">堀江由衣</a>」の声の演技の変貌</strong>というアニメーションの要素を「活字≒ライトノヴェル（・漫画？）」を重視するあまりに、完全に無視しておられるのです。まさに、<br /><br />　<strong><span style="color:#ff0000">「原作原理主義」と言わざるを得ない。</span></strong><br /><br />　声優抜きで、アニメのキャラクターを語れる（評価できる）というのは傲慢を通り越して、ただの××ではありますまいか。<br /><br />　<strong>★７　第12話のほんのささいな細部の擁護、あるいはアニメータたちのために。</strong><br /><br />　確かにシリーズの構成において、いささかの唐突さは否定できません。にもかかわらず、作画チームが「みのりんの感情の変動の複雑さ」を小説のように描写できていない、という批判は、「メディア」という存在を無視しすぎていると思います。たとえば、マネやセザンヌやピカソ、あるいは藤田嗣治ならば、「小説」で描写された複雑な感情を「画」にワンクリックで変換できるというわけではありますまい。その意味で、論点のずれた批判と言わざるを得ますまい。これはテレビアニメーションの尺の問題ではなく、「文字情報を視覚情報に変換する困難さ」の問題であって、アニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』の制＝製作スタッフとは、これっぽっちの関係もない問題ではありますまいか。<br /><br />　それをアニメーション制作者の非だと言うのなら、いったい制作者はどうすればいいのか、代替案を企画していただきたいくらいでございます。<br /><br />　というよりも、「小説が原作」の場合はひとつひとつのカットのショットサイズ、およびアクションのタイミングとアングルを設定し、そのカットの中でどの部分をクローズアップするかを決定するわけですが、そんな指示は小説のどこにも書いてはおりません。ましてや音響の指示などは１００パーセント存在してはいませんね。そういうところから、「小説」でもなく「漫画」でもなく、数百人の人間が「アニメーション」を作ってゆく。こういったことが「メディアの違い」であり、「評価の基準の違い」なのですが、<br /><br />　「活字メディア」と「視聴覚メディア」の面白さを対等の尺度で評価するなど、原理的に不可能であり、論客が感想文であるという留保をつけても、やはり無理がある、<br /><br />　ということが、いまだに消費者の間で共有されてはいない。<br /><br />　そんな印象を受けます。そして、その事実を見事に証明してくれる作品が『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』のようなテレビアニメに対する多くの視聴者の反応であったりもするわけですよね。優れた作品は常に問題提起的でございますから、ここまでお話させていただいたように、アニメ版『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』の面白さが、「玄人」筋と「素人」筋の間で分裂しているのは、結局、このアニメーション作品が優れている証拠に他なりません。<br /><br />　<strong>★８　高須竜児の目つきの悪さについて</strong><br /><br />　この問題について、触れておきたいと思うのです。<br /><br />　(※竜児の「内的独白」が作品に与えている強烈な効果については次の機会に)。<br /><br />　それは、「竜児の目つきが悪く見えない」という視聴者サイドからの批判に集約されます。これは、わたしが言うまでもないと思うのですが、ある「フィクショナルな世界」において、「相対的に」、「目つきの悪いキャラクター」をデザインすればいいだけの話であって、他の作品やわたしたちが生きている現実世界における「イメージ」と比較する必要性はまったくございません。よく画面を見ておられる方にとっては当然の事実なのですが、少なくとも作品内では「もっとも目つきの悪いひとえまぶたのキャラクター」として竜児はデザインされております。<br /><br />　早い話が、逢坂大河のぐるんぐるんの巨大な「パッチリ二重まぶたである目元」の描写と比較した場合に、相対的に目つきが悪いキャラクターとして造形されていることが重要なのでございます。<br /><br />　もっと言ってしまうと「ひとえまぶた」という点が、作画上はきわめて重要な要素なのでございます。なんせ、わたしたちの多くは、日本人女性が占めるまぶたの二重と一重の比率（※特に男性のみなさんはご存知でしょうか？）を無視して、ひたすらに「ぱっちり二重の女の子」を量産しているわけでありますから、「おっ、一重まぶたのキャラを描かせてもらえるのか」という話になるわけでございます。その点での配慮が描写において明確である以上、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9%A1%AA" class="tagword">とらドラ！</a>』における世界とわたしたちの生きている世界を比較して「目付きの悪さ」の１９世紀的なリアリズムを追求して駄々をこねることは、ただの揚げ足取りであるように思われます。<br /><br />　要するに、「二重まぶたの女の子」と「奥二重の女の子」と「一重まぶたの女の子」を美しく描き分けることの許されないアニメ表現の世界で、「高須竜児の目付きは怖くねぇよ！」とか批判されたとしても、どうにもできないのでございます。これは作画担当者の「テクニック」の問題では決してなく、アニメ史的な「制度」の問題であるとわたしは思います。作画チームはいつでも「原作の」一重まぶたの美しいキャラクターを待っているのですから。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />　<br />　わたしは、この『とらドラ』というテレビアニメの抜群の戦略性を高く評価いたします。たとえですけれども、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>や京アニ、あるいはヤマカンさんの「演出」に「汚染」されてしまったアニメファンにとっては、健康的なリハビリになると同時に、きわめて批判的な作品であることを的確に指摘しておかねばなりますまい。こういう作品の存在は、とても貴重であると思うのです。<br /><br />　<br /> ]]>
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<dc:subject>J.C.スタッフ</dc:subject>
<dc:date>2008-12-20T00:26:41+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『百舌谷さん逆上する』という「メタ・ツンデレ」漫画に逆上する。</title>
<description> 　先日、お昼ご飯を食べながら、拾ってきた『百舌谷さん逆上する：第１巻：講談社』という漫画を読みました。あっ、みなさん、こんにちわ、虎子です（漫画『ヒャッコ』より） K・ワークスです。普段、漫画はコンテを割る（か、練習の）ためにしか読まないのですが、「篠房六郎」によるこの作品が滅法に面白い。　この漫画をひとことで要約すると、「メタ・ツンデレ」漫画なんです。　すなわち、「ツンデレ（※ヨーゼフ・ツンデレ博
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<![CDATA[ 　先日、お昼ご飯を食べながら、拾ってきた『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C9%B4%C0%E5%C3%AB%A4%B5%A4%F3%B5%D5%BE%E5%A4%B9%A4%EB" class="tagword">百舌谷さん逆上する</a>：第１巻：講談社』という<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a>を読みました。あっ、みなさん、<s>こんにちわ、虎子です（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a>『ヒャッコ』より）</s> K・ワークスです。普段、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a>はコンテを割る（か、練習の）ためにしか読まないのですが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BC%C4%CB%BC%CF%BB%CF%BA" class="tagword">篠房六郎</a>」によるこの作品が滅法に面白い。<br /><br />　この<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a>をひとことで要約すると、<strong>「メタ・ツンデレ」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a></strong>なんです。<br /><br />　すなわち、「ツンデレ（※ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害）」という遺伝的な病に冒されている異常に知能指数の高い小学生の女の子が、「ツンデレ」に翻弄され、葛藤し、煩悶しながら「ツンデレ」である自己を批判するという嘘みたいなお話なのです。<br /><br />　「ツンデレ」を実在する病気に見立てることによって、架空の「属性」である「ツンデレ」というイメージがいかに現代のメディア社会において暴走しているかを抉り出すと同時に、前作『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%CA%A5%C4%A5%CE%A5%AF%A5%E2" class="tagword">ナツノクモ</a>』と類似した「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BC%C4%CB%BC%CF%BB%CF%BA" class="tagword">篠房六郎</a>」のアクチュアルな批評意識が露骨に提示されている画期的な作品であるようにも見えます。<br /><br />　そして篠房の狡猾さは、そのような「ツンデレをめぐる大きな問題」を提起した途端に、「ツンデレをめぐる小さな問題」を折りまぜてくることでございましょう。後者の描写に関しては、何の問題もなく「フツーに萌えることができる」のです。この点が、「第1巻の後半から勢い（テンション）が衰えてきたようにみえる」という少なからぬ読者の感想の原因であると思います。けれども、それは大きな間違いでありましょう。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C9%B4%C0%E5%C3%AB%A4%B5%A4%F3%B5%D5%BE%E5%A4%B9%A4%EB" class="tagword">百舌谷さん逆上する</a>』の第１巻を読んでおりますと、「ツンデレの二重性」というギミックが、どのように機能しているのか、作者の模範的で丁寧なコマ割りと畳み掛ける筆致に圧倒されるかのように、わたしたちはうっかり見失ってしまうからです。この混乱を「テンションの衰え」と評価するのはきわめて浅薄であり、第1話の教科書じみた完璧な物語の構成を鑑みても、作者がその点に無意識だとは思えない。事実、作中で主人公の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C9%B4%C0%E5%C3%AB" class="tagword">百舌谷</a>小音（もずやこと）さんはこうつぶやきます。<br /><br />　：あんなのはシリーズ構成の大失敗の見本みたいなもんじゃない/ちゃんと読んだの？あの後半の凄まじいグダグダぶりを<br /><br />　このように作中のテレビドラマ『ハナタロ』を<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C9%B4%C0%E5%C3%AB" class="tagword">百舌谷</a>さんに批判させる「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BC%C4%CB%BC%CF%BB%CF%BA" class="tagword">篠房六郎</a>」が、その点に鈍感であるはずがない。早計・短絡はいけません。ネトゲを扱った名作<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a>『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%CA%A5%C4%A5%CE%A5%AF%A5%E2" class="tagword">ナツノクモ</a>』においても、篠房は、作品の展開とともに、収束先が見えないにもかかわらず、どこにたどり着いてもきっと面白いであろう世界観の爆発的な拡がりを読者に見せつけることに成功しているのですから。<br /><br />　この<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a>家の筋の膨らませ方というのは、いくつかの大きな主題を点として想定した後に、それら繋ぐ複数の線を丹念に描いてゆくところであるようにみえます。<br /><br />　たとえば作品のタイトルと同じ表題を持つ第1話の説話の構造をみてみますと、<br /><br />　①転校生（ツンデレ少女）登場　特定不能な語り手の回想<br /><br />　②金髪のツンデレ少女と気弱ないじめられっ子（見た目は裸の大将）である語り手の出会い<br /><br />　③語り手の回想　ツンデレ少女にちょっかいをかける男子の死亡（沙汰）事件<br /><br />　④先生と刑事の証言に基づく真相の究明<br /><br />　⑤語り手とツンデレ少女の共犯関係の成立<br /><br />　というありきたりな語り手の過去の回想・主観的な所感描写と客観描写を中心に組み立てられているのですが（ちょいと『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9" class="tagword">とらドラ</a>』に似ていなくもないですが）、その細部に詰め込まれている「ツンデレ少女に対する周囲の客観的な評価と彼女自身の感情の推移」が抜群の巧みさで噛み合っているのです。<br /><br />　特に優れているのは④の回想におけるラスト。誰の証言・記憶に基づくのかわからなくなるシーンであります。あたかも、ツンデレ少女の感情描写が、事件の真相を探求する説話の構造からふと逸脱したかのように配置されております。このシーンが後々の「シリーズ構成」の伏線になるのですが、それによって、第1話という単位で見ても、ほとんど完璧に「<strong>「大きなツンデレ」と「小さなツンデレ」の問題</strong>を両立させる役割を果たしている（細かく見れば冒頭のシーンで描かれる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C9%B4%C0%E5%C3%AB" class="tagword">百舌谷</a>さんの愛らしいツンデレぶりが嘘であったことさえもわかる）。<br /><br />　さて、篠房六朗さんの画の魅力とは何か。それはおそらく、キャラクターに関しては、デフォルメされた時のかくかくした描線と、トーンだけに頼らない強い描線による影の表現、および独特な瞳の描き方（とあごの輪郭のバランス感覚）、全体としては、省略してもいい部分を「シリアスパート」や「ギャグパート」に限らず省略しないことによる「密度」であります。そして、それに対応するかのように、畳み掛けるような<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C9%B4%C0%E5%C3%AB" class="tagword">百舌谷</a>さんのリリックが重なる。彼女のリリックは日本語の統辞法としてはおかしな部分があるのですが、その「おかしさ（小学生の変な日本語による異様な長広舌）」が、逆に物語と彼女の魅力を加速させるようにもみえます。時に深刻な重々しさを帯びる台詞が、「デフォルメ」による激しい落差をともなう画（え）と美しい不協和音を奏でていることは申し上げるまでもございませんでしょう。<br /><br />　言葉を換えますと、物語も彼女の存在も、「正常なツンデレ少女をめぐる作品」に比べて、どこか「おかしい」のです。そして、それゆえに素晴らしい。<br /><br />　また、作品に対する「傍観者」という読者の立場が、あからさまに批判されるように機能している点も見事ですね。<br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%CA%A5%C4%A5%CE%A5%AF%A5%E2" class="tagword">ナツノクモ</a>』もそうでしたが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BC%C4%CB%BC%CF%BB%CF%BA" class="tagword">篠房六郎</a>」の作品は、１度読んでしまうと、読者に対して、あたかもそんな作品を読んだことがないかのように振る舞うか、それともその存在を真摯に受け入れるか、という選択を迫ってくるものであります。「ネトゲ」にしても「ツンデレ」にしても、それらの作品を抜くならば、もはやそれらのジャンルを今後は語れないのではないか、というインテリジェンスで系譜学的な（歴史的な）「強さ」がある。<br /><br />　<strong>「メタ・ツンデレ」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%A1%B2%E8" class="tagword">漫画</a></strong>など、ツンデレ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を量産している立場の人間からすれば、思いつく暇さえもありませんでしたよ。負け惜しですけれども、まったく、凄いやつらがいるものです。あらためて感心させられました。<br /><br />　キャスティングとキャラデザインをミスしなければ、是非とも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションで見たい作品でございます。<br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>アニメ文化</dc:subject>
<dc:date>2008-12-16T03:42:16+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<item rdf:about="http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-261.html">
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<title>アニメの批評に関する所感。および、ヤマカンは今こそ『かんなぎ』の原作休止騒動について「批評文」を発表するべき。</title>
<description> 　わたしは、このブログで「イメージ」という言葉をよく使います。けれど、多くの場合は、読んでくださるみなさまから勘違いされてしまいます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー　「イメージ」とは、「もの自体と表象を媒介する膜（まく）」であります。言葉を換えるなら、「言葉と物の中間的な存在物」であります。　なぜ「イメージ」などという曖昧な言葉を使うのか
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<![CDATA[ 　わたしは、このブログで「イメージ」という言葉をよく使います。けれど、多くの場合は、読んでくださるみなさまから勘違いされてしまいます。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　「イメージ」とは、「もの自体と表象を媒介する膜（まく）」であります。言葉を換えるなら、「言葉と物の中間的な存在物」であります。<br /><br />　なぜ「イメージ」などという曖昧な言葉を使うのか。その理由は、「表象＝再現前化」というデカルト以後の近代哲学からフランスの現代思想によるその批判を考慮しているからです。デカルトは「われ表象する、ゆえにわれ在り」とラテン語を使って書くことで、「近代的な自我」を確立させました。その「近代的な自我」を前提にした諸々の理論が、現代の政治＝経済＝社会的な制度とイデオロギィを支えております。デカルトの「近代的自我」はカントの「批判書」を通過することで、「認識の主体であると同時に客体である人間」という概念として結実いたします。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D5%A1%BC%A5%B3%A1%BC" class="tagword">フーコー</a>の「理論的なフィクション(※歴史学)」をご存知の方にはお馴染みの解釈ですね。<br /><br />　「認識と対象は一致しない」、「言葉と物は一致しない」、というのは現代思想の大前提でございます。むしろ、歴史の変遷によって、両者の間に結ばれる関係が変容する。そのような変容する関係のことを、人によっては「イデオロギー」と呼んだりもするのです。<br /><br />　イデオロギーは政治＝経済＝社会＝法に浸透する権力の諸関係と連動しながら絶えず変容します。この場合の権力とは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A6%A5%A7%A1%BC%A5%D0%A1%BC" class="tagword">ウェーバー</a>や<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9" class="tagword">マルクス</a>やブルデューが想定した権力概念ではなく、「力と力の関係性」というニーチェが指摘した後に、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D5%A1%BC%A5%B3%A1%BC" class="tagword">フーコー</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%C9%A5%A5%A5%EB%A1%BC%A5%BA" class="tagword">ドゥルーズ</a>が理論化した権力概念でございます（初期の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%C7%A5%EA%A5%C0" class="tagword">デリダ</a>はある構造における「価値とは力の質である」というかたちで「構造における権力」を論じました）。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　ところで、<a href="http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20081111" target="_blank" title="tukinohaの絶対ブログ領域">tukinohaの絶対ブログ領域</a>さんは、多くのオタクの人々が「純粋な視聴」を求める傾向があると論じておられます。すなわち、テクスト外的な情報（原作・設定資料集・インタビュ・雑誌情報など）を意図的に遮断することで、何とかして画面に推移するイメージに肉迫しようとする批評の行為は、憧れであり、理想であり、幻想である。そうではなく、ある画面がいかなる時代の「イデオロギー」を背負いながら成立しているのかを指摘するべきだと主張しておられる。要するに英米系のアカデミシャン＝批評家に多く見られる立場を採用されている。<br /><br />　これは間違いではないですね。けれども、テクスト論や図像学、テマティスム、ナラトロジーを採用する(<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>)批評は批評としては認めないという排他的な態度表明であるとも受け取ることもできないわけではありません。そして「イデオロギー分析」というのは膨大な量の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションと同時代の時事情勢に関する資料態(アーカイブ)の総合的な言説分析のことですから、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションをめぐってこれを実践するというのは、もう普通のネット論者には想像しえない圧倒的な教養と資料の収集能力というアカデミックな能力を前提にしているわけです.。<br /><br />　わたしは自分の書いている文章が冗長であり、難しい言葉を使っているだけで、内容は何もないと批判されることが多くあります。わたしが、tukinohaさんのブログを引用させていただいたのは、批判したいからではなく(むしろK・ワークス個人はtukinohaさんの記事の熱心なファンです)、「内容がある<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>批評」とは、どういうことか、考えるきっかけになると思ったからです。<br /><br />　イデオロギー分析に内容があり、わたしが採用しているようなイメージ分析に内容がない、という批判はいまいちわたしにはわからないのです。また、わたしは「解釈学と記号論」をほとんど同じ割合で使用しているのですが、ほぼ例外なく、多くの方からすべて「解釈」と把握されてしまうらしい。<br /><br />　「作家論」と「作品論」の区別が判らない、「ピント送り」と「フォーカス送り」、「ハイライト」と「キャッチライト」の区別が判らない<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>視聴者のみなさんに対して、どのように<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の表現について語ればいいのか。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　しかるに、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>についていかに語るのか、を考えよ」と主張なさるのは、みなさんもご存知のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション演出家の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>さんですよね。<br /><br />　それでは、わたしも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>さんの「批評文」を模倣すれば良いということなのでしょうか。けれど、山本さんが日本語で実際に書かれておられる「批評文」が、ジャンルを問わず、日本語の批評の歴史において、どのような意味で「批評」と位置づけできるのか、いささか疑問であります。たとえば、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AA%A5%C8%A5%CA%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">オトナアニメ</a>」に掲載されているような「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>批評」をわたしも書けば、本当に人々をテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>に駆り立てることができるのだろうか。<br /><br />　最近のアクチュアルな話題に関連させれば<strong>当然、批評家・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』の原作の無期限休止騒動に関して批評文を公開する義務がある</strong>のですが、どうするんでしょうかね。批評家でもある山本さんの沈黙に対して、多くのテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ファンが責任・発言を追及をするべきだとわたしは思うのですが、傷ついた原作者と無傷の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%E4%A5%DE%A5%AB%A5%F3" class="tagword">ヤマカン</a>という図式はちょっとおかしいと思う。<br /><br />　批評家としてだけではなく、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の制作者としても、ここで「無視を決め込む」のなら、「批評」について論じる資格なんて、ないんじゃないのか。「忙しい」を理由にする「批評家」なんて、どの業界にもいないよな。それとも、<strong>「わたしはドンキホーテですから。お祭りが盛り上がればそれでいいですから」</strong>、とか、いけしゃあしゃあと抜かして逃げ切るんでしょうか。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ファンや制作に携わる皆さん、こういう山本さんの「批評的なスタンス」ってどこかおかしいと思いませんか？<br /><br />　<br />　<br />　 ]]>
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<dc:subject>アニメ批評・原理</dc:subject>
<dc:date>2008-12-13T00:09:50+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『喰霊 -零-』の総復習（第1話～第10話）、あるいは「あおきえい」のために。</title>
<description> はい、みなさん、こんばんわ。本日は『喰霊　-零-』（がれい ぜろ）というテレビアニメについてのお話でございます。今期の隠れた名作ですが、第１０話を迎えてようやく、「ひとまわり」いたしましたね。　★１　「物語」の概要　『喰霊 -零-』は、「封建的な家制度」から疎外された年上の女の子と、近代的な自我の獲得によって「封建的な家制度」から脱出しようとする年下の女の子の対立と和解の物語です。物語の大きな枠組として
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<![CDATA[ はい、みなさん、こんばんわ。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a>　-零-』（がれい ぜろ）というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>についてのお話でございます。今期の隠れた名作ですが、第１０話を迎えてようやく、「ひとまわり」いたしましたね。<br /><br />　<strong>★１　「物語」の概要</strong><br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』は、「封建的な家制度」から疎外された年上の女の子と、近代的な自我の獲得によって「封建的な家制度」から脱出しようとする年下の女の子の対立と和解の物語です。物語の大きな枠組としては、今述べた「封建的な家制度」と「国家（防衛省と環境省）」が存在しております。現在の状況は、前者の諌山黄泉（いさやまよみ）が両者を次々とぶっ壊し（第１・２・８・９・１０話）、クラスメートの「やっちん」から「封建主義的な思考」を批判されて「個人の自由意志の尊重」を教えられた（第7話）後者の土宮神楽（つちみやかぐら）が、前者の豹変ぶりに翻弄されているといったところでしょうか。<br /><br />　そのような図式が、「スワッシュバックラー（≒剣劇バトル）」）・「オカルト」・「メロドラマ」というジャンルの衣装を身にまとうことで、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』はできあがっております。<br /><br />　　<strong>★２　「説話の構造」と時間の操作</strong><br /><br />　この作品では、物語の冒頭の2話をすべて「フラッシュ・フォーワード（※未来や因果関係における結果をあらかじめ呈示しておく技法）」にあて、第3話から第10話のラストシーンまでが、第2話のラストシーンにいたるまでの過去として構成されておりますね。<br /><br />　第3話から第１０話までは「3年間」の時間の経過が描かれますが、その期間のほぼすべての時間が第3話で消化されます。ご存知のとおり、かぐらが第3話のBパートで目を覚ますと、突然、「中学二年生」になっているからです（第4話に「２－A」というクラスの表札を描いたカットが存在しますね）。<br /><br />　さらにその後の物語の展開においては、季節の描写が存在しませんね。よみやかぐらは冬服の制服を常に着用しており、季節の目印となる祭日（ゴールデンウィーク）やエピソード（海水浴・クリスマス・誕生日）がございませんから、おそらく第4話から第10話の間では、半年前後の時間しか流れていないと考えられます。ですから、かぐらの「剣技の上達ぶり」は驚異的な速度であり、怪我をしたとはいえ、何故かスクール水着にバスタオルという格好で保健室に向かうかぐらのクラスメートふたりの「寒そうな」描写（第6話）は、作品に大きな不均衡を導入しております。<br /><br />　<strong>★３　細かな時間の操作</strong><br /><br />　細かな時間の操作を追ってゆきますと、第3話から始まる長い回想は、よみとかぐらのふたりによる「語り」で始まります。ですから、誰か特定可能な人物の回想ではなく、「端的に過去」だということができます。さらに、このシーンでのふたりの語りは「ヴォイスオーヴァー」、すなわち、物語の結末を知っている視点（≒時点）からの「ナレーション」という形式が採用されていることは大変に示唆的でございましょう。<br /><br />　また、たとえば、第9話のアバンなどは、シリーズ単位ではなく挿話の単位で「フラッシュフォーワード」を使用しており、言い換えるなら、「フラッシュフォーワード」の入れ子構造を成立させたりもしてくれますよね。<br /><br />　そして、各挿話の随所に、音響演出（音先行・音残し・オフヴォイス・ヴォイスオーヴァー・内的独白など）と回想シーンを組み合わせるケースをふんだんに見出すことができます。それによって、不意に視聴者は画面で起きている出来事か、「いつ・どこで」起きた出来事なのか識別できなくなる奇妙な状態に陥ることさえございます。そして、それらが見事なのは、シリーズ構成の時系列を常に単調化の罠から救っているからであります。申し上げるまでもございませんが、1話と2話を通して「フラッシュフォーワード」を使っただけで、視聴者の関心を最終話まで惹きつけておくことができるわけがありません。そんなものは、ひととおりネットで話題になると、直ぐにあきられてしまう。<br /><br />　そうではなく、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』では、第1話と第2話で断片的に与えられた情報を少しずつ小出しで紐解いてゆく繊細な配慮（たとえば、第7話の墓参りのシーンでかぐらの眼前をふいに横切る第1話で死んだ「四課」のキャラクターらしき人物など）と、見る者を挿話の単位で常に刺激する「細かい時間操作の技法」の積み重ねこそが、本当の意味で、あの大胆な「シリーズ構成」に説得力を与えている点が、素晴らしいのです。<br /><br />　<strong>★４　第2話と第10話における同一性と差異の問題</strong><br /><br />　2話と10話の微妙な語り手の視点・ショットサイズ・描写・彩色などの変更も、「ストック・カット（※いわゆるバンク）」を有効活用しながら、かなり巧みに行われており、完全には一致しておりません。その事実から、単純に同じものが「ひとまわり」して反復されているのではなく、微妙に差異をはらみながら「歴史が変更されている」という興味深い事態を観察することができます。<br /><br />　要するに<br /><br />　×　現在（第1・2話）A→過去・回想（第3話～第9話）→現在（第10話）A<br /><br />　〇　現在A→過去・回想→現在「B」<br /><br /><br /> という時間と空間の推移を見出すことができるということです。特に10話を視聴した折、かぐらの内的独白が「クロスカット」でトンネルの壁を越えて画面全体に響くシーンにはしびれましたね。このような演出も、第1話・2話という踏み台があるからこそ、高い威力を発揮しているようにみえます。<br /><br />　このような構成の問題は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%B0%A4%E9%A4%B7%A4%CE%A4%CA%A4%AF%BA%A2%A4%CB" class="tagword">ひぐらしのなく頃に</a>」シリーズと比較しながら論じてみても面白いかもしれませんね。両者には類似した構成の面白さがございます。<br /><br />　<strong>★５　「セックス＆ヴァイオレンス」、あるいは諌山黄泉が豹変した理由について。</strong><br /><br />　ところで、見る者を惹きつけるもっとも簡単な方法は性描写と暴力描写です。<br /><br />　この作品では極めて露骨なかたちで入浴シーンにおけるぼかし（第4話）が使用されております。このシーンは「湯気の意味がない」と突っ込まれるほど露骨にぼかしの線をいれておりますが、同じシーンで湯気そのものがカットから抜け落ちたりもします。多くの視聴者が、「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の湯気」は「自主規制のための方便である」と考えておられがちですが、「視界が湯気によって遮られていること＝先行きの不透明さの暗示」のためのテクニックとして演出することもございますから、短絡・早計はいけません。<br /><br />　たとえば、惜しみなく、そのしなやかな裸体は描写されるのに、よみと彼女のいいなずけである飯綱紀之のキスシーンの描写がきまって周到に排除されるのはなぜなのか。これは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>史の制度的な問題でもあるのですが、ひとことで申し上げますと、「残酷さ」の問題があるのです。つまり、愛し合うふたりの男女のキスシーンを大量に描写するよりも、それらを排除した方がヨミ（と視聴者）にとって、より残酷な事態だからです。<br /><br />　そしてそれは、よみとかぐらが車内の後部座席でじゃれあったり、同性どうしで親愛のキスを交わすシーンを描くことでよりいっそう残酷さを増すようにみえます。その結果が、最大級の暴力描写、つまり、右目を潰され、声を失い、日常生活を満足に送れない身体（「子供の産めない身体」であることも仄めかされます）にされて、満身創痍でベッドに横たわるよみのイメージとして結実するとき（第9話）、「セックスとヴァイオレンス」が巨大な悲劇を生み出します。つまりヨミの豹変という事態ですね。彼女は全身を無数の「長い棒」のようなものに貫かれて瀕死の重傷を負い、そして愛撫であるかのように赤い石を全身にこすりつけられることで頬を赤らめながら豹変します。この過程は端的にセックスの隠喩であるかのようにみえます。だから、<br /><br />　セックスこそが最大の暴力であり、ヨミにふるわれた暴力こそが、最大のセックスなのです。<br /><br />　これが心理学的ではない、「視覚的なイメージのレヴェル」における「ヨミが豹変した」理由であるように見えます。<br /><br />　そうしてもうひとつだけ重大な事実を指摘しておくと、同じ刀を使わせても、豹変したヨミは容赦なく「突き刺す」人ですが、かぐらはどこまでも「斬る」人です。この「突き刺すこと」と「斬ること」というイメージの差異が担っている意味を決して見逃してはなりますまい。それらは『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』において支配的な「鎖（くさり）」のイメージが担う「束縛と解放」と同じくらい、重要であるようにみえます。<br /><br />　<strong>★６　身体的欠損について</strong><br /><br />　また「セックスとヴァイオレンス」に関連するテーマとして、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』には「身体的な欠損」という主題、あるいはイメージが頻繁に描写されます。もちろん、室長の「車イス」（ハンディキャップ）や白髪の少年の赤い左目もそこに含まれます。この点を忘れずに指摘しておきましょう。<br /><br />　とはいえ、この作品は剣戟（げき）・バトル<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>なのだから、そのようなイメージが画面に溢れるのは当然でございましょう。ですから、もっとはっきり言えば、身体的な「障害」が作品に大きなインパクトとターニングポイントを与えているということであります。<br /><br />　誰も指摘してくださらないので、わたしが指摘しておきますと（笑）、現在放映中の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%A1%C6%B0%C0%EF%BB%CE%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0%A3%B0%A3%B0" class="tagword">機動戦士ガンダム００</a>」シリーズのルイス・ハレヴィという少女の豹変にもヨミの豹変と同じ「ギミック」が使用されております。これは「泣けるテレビドラマや実写映画」でも多用されますよね。病気・事故・障害です（偶然の符号ですが、ルイスと黄泉は、さらに「すべてを奪われる」という不幸に見舞われます）。それらを安易な「俗情との結託」としてPCの観点から批判するべきか否かは、判断の難しいところです。「フィクションのテクニック」であると言い切れないことはないわけですから。<br /><br />　<strong>★７　封建的な家制度・国家・民間企業・戦争機械。　</strong><br /><br />　ところで、車いすに乗った美しい神宮寺菖蒲（しんぐうじあやめ）室長と言えば、超常自然対策室。第2話で防衛省の役人たちに対して、縦割りシステムを批判して横のつながりを強調します。室長は「女性」であり、「身体的なハンディキャップ」を備えた「チームリーダー」です。この「マイノリティー」の人物が指揮するは、ときに「携帯電話」を駆使するきわめて柔軟に構成・統制されている「超常自然対策室」。<br /><br />　対して、「縦割り式」でいかにも性格の歪んでいそうな顔色の悪い男性指揮官に率いられた「第四課」。制作者に限らず声優さんでさえも、ときおり、疑義を呈する「女性＝オペレータ」という存在意義の不確かな役職を採用しているこの古典的な集団が、第1話で、ヨミにあっけなく殲滅されてしまうのは、何もシリーズ構成の都合だけではないかのようにも見えます。<br /><br />　つまり、前者の方が後者に対して「ポストモダン風なチーム」として設定されております。けれどもやはり、両者は環境省と防衛省という国家機関であることに違いありませんから、現代社会の申し子であるかのような無差別大量殺人者と化したヨミと敵対することはまぬがれえない。<br /><br />　そのように「見立ててみる」なら、あの白髪の少年は、最強のSOHO的な民間企業（個人事業主？）なのかもしれませんな（ちなみに第3話では、この少年がもともと環境省の人間であったこと、事故死していることが仄めかされております）。この少年の登場は、繰り返し描写される「地図」において何度も「特異点」と呼ばれておりますね。「特異点」は高等数学の難解な概念ですが、ジル・ドゥルーズという哲学者の概念でもあります。彼のポストモダニズム思想にあやかるなばら、ヨミはさながら、「戦争機械」でありましょう。これ以上は深入りしませんが（笑）、「超常自然対策室」が「環境」省の管轄であるという設定も、かなり深読みできます。<br /><br />　<strong>★８　実在する地名と地図、あるいは携帯電話。</strong><br /><br />　この作品については、「ロケハン」が制作に当たって重要な役割を果たしていることを誰もが指摘されていますが、本当に重要なことはロケーション主義の強調ではございません。<br /><br />　問題なのは、ロケ地の写実的な再現ではなく、それを実在する土地の名前で呼ぶかどうかなのです。たとえば、『苺ましまろ』、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』、あるいは『true tears』や「<a href="http://blog.fc2.com/tag/CLANNAD" class="tagword">CLANNAD</a>」シリーズなどのテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>には明確な舞台のモデルが存在いたしますね。けれど、それらは実在する土地の名前を極端に回避しようといたします。それに対して、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』では惜しみなく「千代田区、神田！」という風に実在する地名をキャラクターたちがつぶやき、おまけにそれをアナログな地図や携帯電話の（デジタル）地図の映像のイメージを用いて、より強固にしようとしているように見えます。これはどういうことなのか。<br /><br />　もちろん、フジテレビ系列の有名なテレビドラマや実写映画の影響、単純に「リアリティー」を付与する効果を指摘することはできます。だが『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』の賭け金はそこにはないでしょう。重要なことは、モデルの忠実な再現と制・製作者サイドによるあらかじめの指摘によって、消費者の聖地巡礼という現象が積極的に奨励されていることであります。このような作品はテレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションにおいてはまれですけれども、、「コンテンツビジネス」の観点からは、「作品の雰囲気を損なわない」という条件を付ければ、完璧に正解でしょう。とりわけ関東・東京在住の人間にとっては、それを指摘すること（たとえば、「わたしは虎ノ門はよく利用しているのですが」、とか、「この近くで働いているのですが」、「この付近はよく知っているのですが」といった「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a>」を論じるブログ・サイトの文言や写真）は、どこかしら、彼や彼女に、「作品に参加している」かのような感覚を与えているはずです。こうして、視聴者は惹きつけられてゆくのでしょう。<br /><br />　もちろん、丁寧に描かれた背景とキャラクターたちがつぶやく「テレビや雑誌でよく見聞きする有名な土地なり場所なりの名前」が喚起するイメージの力がございますから、東京の地理や景観に詳しくない視聴者であっても、まったく問題なく楽しめるという仕掛けになっておりますよね。<br /><br />　見方を変えてみましょう。「実在の地名ー地図ー携帯電話」によるイメージの緊密な連携ぶりが、視聴者に対してある斬新な「視点」を呈示するようにもみえます。それはいわゆる「神の視点」では決してありません。しかし、同時に「状況の全体像」と「キャラクターたちの関係」を明確に示したり、逆に隠してしまうこともできる優れた「視点」でございます。これらの「開示と隠蔽」が物語の展開・演出にしたがって、巧みに使い分けられているようにもみえます。<br /><br />　そうして、ロングショットを多用して描写される（東京という）都市の視覚的なイメージは、この作品に豊かな広がりを付与しているようにも見えますね。屋外からガラス越しにキャラクターを描写するロングショットの多用は、文字通り＝映像通り、「都市と人の共存・両者の相互作用」といった印象を強く視聴者に与える役割を果たしております。<br /><br />　<strong>★９　放棄された地下鉄銀座線・新橋駅。</strong><br /><br />　さて、現在も稼動している銀座線の新橋駅。その実在する駅の名前をヨミは作中で口走ります（第4話）、けれども、この実在の駅が、作中ではもはや使用されていない設定になっていることから、ある不均衡が作品に導入されます。<br /><br />　要するに、このヨミの台詞から、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』は「現代」を舞台にした「SF]ではなく、「近未来」を舞台にした「SF」であるという説が、にわかに浮上してくるのであります（追記：「パトレーバー」へのオマージュ説・鉄道ファンなら誰もが知っている「もうひとつの新橋駅」説などもございます）。<br /><br /> 　<strong>★１０　些細な演出について</strong><br /><br />　この作品で技法的に面白いのは、やはり「時間操作」なのですが（たとえば、第5話のよみと紀之の恋愛感情にスポットを当てたコミカルな挿話。公園のシーンでヨミがジュースの缶を投げてから、紀之にぶつかるまでに経過する時間のあまりの長さは抱腹絶倒な演出です。）、レンズに反射する太陽光を再現したエフェクトの美しさなども実に見事なものであります。わたしは、この作品には「季節描写」に関する「鈍感さ」が見出されることを指摘いたしましたが、そのかわりというわけではないにせよ、一日の朝から晩までの時間の推移による背景・光・影・色彩の変化に関しては、きわめて繊細な配慮が払われているように見えます。また、状況説明的な「イスタブリッシングショット」の少なさ・つまらなさを補って余りあるような、「フライオーバー（実写で言うところの空撮表現）」も非常に丁寧に使用されており、好感を持ちます。両者のバランスの取り方がとても面白い。また、シーンを転換するさいに時折使われる、類似したイメージを描いたカットを連続して編集する「隠喩的モンタージュ」もなかなか巧い。<br /><br />　殺陣のアクションや構図はオーソドックスなものですが、映像を通して「語るべき複雑な情報」が『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』には少なからず存在しているようにみえますから、的確な選択であるとわたしは思います。<br /><br />　逆に「語るべき情報」が少ない場合には、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%BD%A5%A6%A5%EB%A5%A4%A1%BC%A5%BF%A1%BC" class="tagword">ソウルイーター</a>」のような<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>に見出される類のめまぐるしいアクションで視聴者を魅了すればよろしいというわけですね。これらは、どちらが優れているかという問題ではなく、作品のトータルな「説得力」の問題でございましょう。<br /><br />　<strong>★１１　これから</strong><br /><br />　★１ではおもいきり「物語」を図式化しましたが、説話の構造を考慮すれば、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B6%F4%CE%EE" class="tagword">喰霊</a> -零-』とは、「黄泉がダークサイドに落ちた原因が過去に遡って探求され、しかる後に彼女を神楽がみずからの自立を経ていかに救済するのか」、という輪郭に収まる作品でございましょう。<br /><br />　この<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション作品は原作の縛りから比較的、自由に製作されているようにみえますね。ですから、オープニングと同様に、クライマックスにもかなり大胆な仕掛けがあると予想する方もたくさんいらっしゃいますでしょう。わたしもまったく同感で、とても楽しみであります。<br /><br />　<strong>★１２　オマケ</strong><br /><br />　はてさて、随分長くなってしまいました。わたしは前もって構想を立てず、おしゃべりのように即興で文章を組み立ててゆくので、実はびっくりするくらい時間はかかっていません。ただ、その分どうしても冗長になるようです。<br /><br />　「何であんな長い文章を書いてるの？」と同僚も含めて、色んな人たちからよく聞かれます。答えは、勉強と自分の考えを整理するためなんですよね。「批評」なんて大仰なタイトルを銘打ってはいるけど、やってることは「自己吟味」ですもの。人によりけりだと思うのですが、わたしの場合、ある<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションを見たとき、頭の中でコンテを再構成したり、断片的にメモ書きするよりも、ある程度は他者の視線を意識しつつ、まとまりをもった文章に変換した方が、速く「身につく」ようなので、そうしております（言語への変換過程でイメージが勝手に記憶されてゆく感じ）。<br /><br />　あとは縁のある作品や会社のささやか過ぎる宣伝とか、ネットが好きという、どうしようもない理由でしょうか…（笑）。<br /><br />　とりあえず、ここまでお付き合いしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>アスリードとAIC</dc:subject>
<dc:date>2008-12-09T05:33:13+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>漫画・マンガ・コミック、あるいは面白いまんがをアニメ屋はいかに探し出すのか♯１。</title>
<description> 　はい、みなさん、ボンソワール。偉い人から「ブログはやるな」と言われたけれど（※マジな話）、そんな命令には従いたくない匿名アニメータ・演出家のK・ワークスです。本日は「マンガ」についてのお話でございます。　★１　先ず、「マンガ」をどう表記すればいいのか？　「マンガ」を漢字で「漫画」と表記するべきなのか、平仮名で「まんが」と表記するべきなのか、あるいは「コミック」と外来語のカナで表記するべきなのか。わ
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、ボンソワール。偉い人から「ブログはやるな」と言われたけれど（※マジな話）、そんな命令には従いたくない匿名<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ータ・演出家のK・ワークスです。本日は<strong>「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」</strong>についてのお話でございます。<br /><br />　<strong>★１　先ず、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」をどう表記すればいいのか？</strong><br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」を漢字で「漫画」と表記するべきなのか、平仮名で「まんが」と表記するべきなのか、あるいは「コミック」と外来語のカナで表記するべきなのか。わたしのような門外漢は、この段階ですでにわかりません（笑）。ネットを巡回しておりますと、多くの方がこのような問題に疑問を抱くことなく、それらを使い分けているようにみえます。けれど、「表記の選択」には不可避的に論者の「批評」が介在します。そのようなレヴェルでの「批評」がない人は、仮にその人が「著名な文学者の孫」であろうとも、あまり信頼しようとは思いません。<br /><br />　<strong>★２　交通整理・巧者から情報を得るのは定石でしょう。</strong><br /><br />　みなさんもご存知のとおり、いくらなんでも「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>屋」を営んでいる者にとって、無数の興味深いブログを巡回する時間はございません。ですから、わたくしなどは<a href="http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/" target="_blank" title="WebLab.ota">WebLab.ota</a>さんのようなブログの「要約力」を信じさせていただいております（「信じる」というのは、「妄信的」という意味ではなく、端的に「情報の交通整理」が巧みで非常に有用なブログだと私は勝手に評価させていただいているということです）。<br /><br />　<strong>★３　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>屋による問題点の整理</strong><br /><br />　しかるに、なるほど、最近は人気のブロガーたちの間で真摯に「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>の面白さ」が問題になることがあるらしい。それらの現象を無理やりまとめてみると、要するに、<br /><br />　問題：最近の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」は面白くない。<br /><br />　原因：「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」・メディアが技術的・経済的・社会的に成熟期・壮年期を迎えた今、「面白さ＝革新性」は紋切り型の商業至上主義的な原理によって抑圧されている。<br /><br />　「ひとこと」で要約すると、<strong>ネオ・リベラリズムが浸透した現代の日本において、革命的な「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」（表現）はきわめて生まれにくい状況に置かれている</strong>ということでしょうか。そうだとするならば、<br /><br />　解決策として、そのような問題提起、あるいは解決策の示唆と模索の具体案を提示すること。<br /><br />　ということなのでしょう。ぶっちゃけると、これは<strong>マルクス主義的な問題</strong>ですよね。「マルクス」の固有名を出すと、条件反射的に嫌悪感を示される方がいらっしゃることは私も十分に理解しているつもりです。けれども、みなさんがよってたつ疑問の大前提が、<strong>きわめてマルクス主義的である</strong>ことは事実でございましょう。<br /><br />　<strong>★４　ちょっとだけ、傍観者的に「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>への愛」を見てみよう。</strong><br /><br />　単純に、「自由で出鱈目（でたらめ）な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>の表現」が市場では強固に「監視＝管理」され、紋切型の表現と物語のパターンが強制されているのではないか。読者を選別するレーティングの問題はさておく。多くの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>表現における左派の意見とは、<br /><br />　そのような風潮に抗い、われわれの生きている現実のどてっぱらに風穴を開けるような<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>の存在をわれわれは必要としているのだ<br /><br />　ということになるのではないかと思います。<br /><br />　大袈裟に申し上げますと、そういうことですよね。このように問題は「さしあたり」という条件を付けて単純化してしまいましょう。すると、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」業界や「ゲーム」業界も同じようにぶち当たっており、そのような閉塞感の中で、何とか風穴をこじあけてやろうと考えている「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」や「ゲーム」の気概のある制作者たちの問題意識と大きな差はないように思われます。すなわち、多くの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>読みが、<strong>「時代と呼ばれる市場の壁を突き抜ける作品を求めている」</strong>というメッセージに要約可能です。<br /><br />　<strong>★５　「独立<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>愚連隊」の時代はすでに終わっている。</strong><br /><br />　そのような作品が可能であるとしましょう。しかし、それらは、「作品たち」としてしか存在できません。つまり、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」や「ゲーム」や「活字」の媒体（メディア）との「ジャンル横断的な共存関係」を結ぶことでしか、存在できないということです。<br /><br />　そんなことは申し上げるまでもございませんが、純粋に単独の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>作品が、それだけで市場を牽引できるという事態は、集英社の週間少年<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A5%D7" class="tagword">ジャンプ</a>に掲載されている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>を除くのであれば、８０年代に消滅しております。ですから、すべての<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>作品は、<strong>潜在的にメディアミックスの素材でしかない</strong>という事実を受け入れた上で、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」の評価基準をあらためて打ち立てるべきであると、わたしは思います(<strong>その唯一の外部が、現在のところ「エロ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」であることはいうまでもありません</strong>)。<br /><br />　<strong>★６　メディアミックス時代の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>をどう評価するか</strong><br /><br />　答えは簡単です。というのも、論理的に次のふたつしかないからです。<br /><br />　①絶対に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>以外のメディアに移植不可能な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>を創作する。<br /><br />　②<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>以外のあらゆるメディアのすみずみにまで浸透することのできる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>を創作する。<br /><br />　もちろん、厳密に申し上げますと、「機械」とは無縁の作業工程における「血の通った<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>家の手の動き」を他のジャンルで完璧に複製することは不可能でございます。ですから「近似値」と「類似性」において、これは他のメディアに移植することは不可能だな、という<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>表現を追及すればよいわけです。<br /><br />　間違っても<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>の中に「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」や「実写映画」の技法を導入しないように注意を払うこと。最近の人気<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>家の多くはどこで教育をされたのかは存じ上げませんが、実写映画や<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションにおける「切り返しショット」を「シリアス」や「ギャグ」といった<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>のジャンルの区分を問わず、習得して実践しているように見えます。それはもちろん、ひとつの例にしか過ぎません。<br /><br />　そうではなく、どうして「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」の特性を生かして意図的・ひたすらにそのような「映像表現の制度」に抗おうとしないのか、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>屋にはきわめて巨大な謎でございます（編集者や出版社、および消費者との「コードの共有」という問題もあるのでしょう）。<br /><br />　<strong>★７　馬鹿げた「実写・崇拝」という無教養</strong><br /><br />　さて、鈍いながらも問題に切り込んでいきましょうか。日本の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション表現は、その起源に「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」と「実写」の両方を同時に抱え込んでおります。そして９０年代から数えて２１世紀を迎えた現在、ようやく、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」表現と「実写」表現を自由自在に引用したり、批判したりすることで、その「固有性の探求の過程」を視聴者のみなさんに「魅せる」ことができるようになりました。これは現代の日本の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションやコミックにおける事実でありましょう。<br /><br />　さて、ここで言われている「固有性」とは何か？それは常に他のジャンルに脅かされ、模倣され、相対化される可能性のあるものです。にもかかわらず、「現代の若い」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション制作者は、かりそめの「固有性」を打ち立て続けるために、創意工夫を凝らし続けて、四苦八苦しているのです。<br /><br />　このような「かりそめの創意工夫」の蓄積過程は、何も「テレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」に限らず、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」や「ゲーム」といった「サブ・カルチャー」にも見出せますよね。それどころか、「メイン・カルチャー」にも見出せますでしょう。そして、そのような「創意工夫」は、それらを「発見・指摘・評価する作業の蓄積」と切り離すことができません。<br /><br />　そのような作業の主体はみなさんです。<br /><br />　たとえば、みなさんは気付いておられるでしょうか？「フライ・オーバー」などと呼ばれたりもする「空撮」表現に関しては、現在のところ、間違っても「実写」作品は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」・「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」・「ゲーム」における「空撮表現」には適いません。ようやく最近になって、馬鹿みたいに金のかかったアメリカ映画のCGが日本の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」や「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」のそれを再現しようともがいている程度なのです。<br /><br />　古い例になるかもしれませんが、１９９７年に公開されたキャメロン版の『タイタニック』。この大ヒット作品の確か序盤における「爆笑必死の悲惨なCG」を見直してみてください。多くの論者が指摘するように、同じ「映画」作品であるはずの「ジブリ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」の「空撮表現」の足元にも及んでいないことは、誰の目にもあきらかでございましょう。<br /><br />　<strong>★８　９０年代について、事実確認してみようぜ。</strong><br /><br />　わたしは先ほど、「９０年代」という言葉を使いました。この言葉からは色々な言葉を連想することができますよね。<br /><br />　昭和が終わりましたね。バブル経済も終わりました。アメリカとソ連の冷戦構造も崩壊しました。日本の思想史的な言説にかぎらず、何もかもが終わりました。「歴史の終り」です。<br /><br />　だが、ここからが重要です。このあと、「空白の１０年」が日本では始まりますね。就職は氷河期を迎えますね。湾岸戦争も始まります。そしてもちろん、９０年代の半ばの日本では「阪神大震災」・「地下鉄オウムサリン事件」・「エヴァンゲリオンブームによる秋葉原の異常な変容（パソコン→<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>関連）」が起こります。テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の世界では、９０年代初頭の『美少女戦士セーラームーン』を嚆矢として、現代<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>のフォーマットである「マルチヒロイズム型萌え・美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」が容易に企画を通過して、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>化され始めます。そして、それと同じフォーマットを採用した「恋愛シミュレーション」ゲームが誕生いたしますよね。他方、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>業界では、『るろうに剣心』や『幽々白書』、そして「テニプリ」のような作品がきっかけとなって、おおっぴらに『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A5%D7" class="tagword">ジャンプ</a>』という少年誌の購読者の性別が「ハイブリッド」になってゆきます（とはいえ、マイナーなレヴェルでは、男子主導のかたちで８０年代に少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>研究会のようなものは存在していたと見聞しております：※早大では評論家の某勝谷さんも率先して主催していたらしい。）<br /><br />　このように事実を羅列してきましたが、もっと重要な事実が、他にもあるのです。<br /><br />　<strong>★９　リオタールの『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3%A4%CE%BE%F2%B7%EF" class="tagword">ポストモダンの条件</a>』は間違っているんじゃないか？</strong><br /><br />　それは、<br /><br />　<strong>フランソワ・リオタールというフランスの哲学者による『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3%A4%CE%BE%F2%B7%EF" class="tagword">ポストモダンの条件</a>』を多くの日本人が鵜呑みにしてしまったという事態であります。</strong><br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%E3%C9%BE%B6%F5%B4%D6" class="tagword">批評空間</a>の主幹である柄谷行人や<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%F5%C5%C4%BE%B4" class="tagword">浅田彰</a>はもちろんのこと、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%EC%B9%C0%B5%AA" class="tagword">東浩紀</a>とその門下生たち、最近、福田和也たちが主催する『en-taxi』という雑誌でスガ秀美が、ハイデッガーを引用して「社会学主義者」と揶揄した現在の３０歳代の論客も未だにそれを大前提にしているかのように見えますよね。<br /><br />　けれども、最近、気になっているのは、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3%A4%CE%BE%F2%B7%EF" class="tagword">ポストモダンの条件</a>」は「本当に正しい」現状認識であり、いまだに通用するほど広い射程を持った理論なのか、という疑問であります。<br /><br />　言い換えますと、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%BC%A5%ED%C7%AF" class="tagword">ゼロ年</a>代の論客」にとっては疑う余地のない「大きな物語」の崩壊と「小さな物語」の同時多発的な勃興による「蛸壺（たこつぼ）化」が生じてしまったという大前提は嘘なんじゃねぇの？ということです。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%EC%B9%C0%B5%AA" class="tagword">東浩紀</a>さんの議論の理論的な枠組みにおいても、このような事態が大前提とされておりますけれど、逆に言えば、<strong>リオタールの『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3%A4%CE%BE%F2%B7%EF" class="tagword">ポストモダンの条件</a>』が間違っていること</strong>を、何らかのかたちで検証・証明・批判することができれば、彼/女らの理論構成はすべて崩れ去るということですよね。<br /><br />　<strong>★１０　もういちど、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3%A4%CE%BE%F2%B7%EF" class="tagword">ポストモダンの条件</a>』を再読すべきではないか。</strong><br /><br />　とはいえ、わたしには読み返している暇などございません。そもそも「大きな物語の崩壊」などという「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%BC%A5%ED%C7%AF" class="tagword">ゼロ年</a>代的な認識」を信じていないからです。なにより、そんな屁理屈を真に受けて、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の「演出」やら「コンテ割り」なんかできるわけがない。少なくともわたしはできないし、山本寛さん以外で、そんな演出家を見たこともありません(褒め言葉ではないですよ)。そして、それはきっと、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」屋にとっても同じではないでしょうか。<br /><br />　さて、<strong>最近の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>は面白くない。なんなら、お前らが、おもしろい<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>を教えてくれないか？</strong><br /><br />　このような論調に対する肯定派の主張も否定派の主張も、いくつかの例外の除いて多くの場合は、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3%A4%CE%BE%F2%B7%EF" class="tagword">ポストモダンの条件</a>』を前提にし過ぎていると思います。というのも、それらの前提を簡略化すると、結局は、<strong>相対主義、および、そこから抜け出すための決断主義というどうにもならない結論</strong>しか導き出せないからでございます。<br /><br />　言葉を換えるなら、<br /><br />　①価値観の多様化の中で絶対的に面白い<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>はなくなった。<br /><br />　②故にどの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>が絶対的に面白いか、お前らが「決断」せよ。<br /><br />　というただそれだけの問題でありましょう。少し考えてみると、<br /><br />　①いまだに絶対的に面白い<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>は存在しうる。<br /><br />　②故に「決断」などせずとも、必然的にその<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>はお前の手元にやってくる。<br /><br />　と言うともできますよね。このような問題を、わざわざ出版業界の経済学的な問題や、実存主義やらポストモダ二スムなどの哲学的問題、もしくは、ある特定の言動のパターンを持った複数の人間を「オタク」としてカテゴライズする社会学的な問題と絡めるが故に、問題はきわめて複雑になるのであって、あたかも「現代に肉迫した問題」であるかのような錯覚を「読者」に与えているだけに過ぎないのではありますまいか。<br /><br />　あくまでも私見ですけれども、いわゆる<strong>「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%BC%A5%ED%C7%AF" class="tagword">ゼロ年</a>」世代とその同調者は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C8%E3%C9%BE%B6%F5%B4%D6" class="tagword">批評空間</a>」世代が残した宿題であるはずのカール・シュミットにおける決断の問題を、功妙にリオタールの相対主義に対するブラックボックスにすることで成立している</strong>かのようにみえるのでございます。<br /><br />　そうであるがゆえに、現代において「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」は面白いか、面白くないか、というありふれた、いつの時代にも見られたファンダメンタルな議論をただ反復しているだけのような気がいたします。<br /><br />　<strong>★１１　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>や<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>における「規範」の重要性</strong><br /><br />　わたしは、短からず<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの制作に関わっております。それこそ、自分の描いた動画が１０代のときに電波にのってしまいました。その後ウダウダして齢を重ねてゆくうちに、リオタール的な「相対主義」や誰かさんの「決断主義」の影響をもろに受けている後輩を、決して多くはありませんが、現場で見かけるようになってきました。自己批判も含めて主張いたしますが、どちらも新人に必要な素養であるとは到底思えません。やはり、「これは見ていなければならない」、「これはできなければならない」、「これを知っていなければならない」という、「絶対的な規範」のない人は、困った存在なわけです。自分ひとりで「おれはエヴァンゲリオンしか見ない」と決めて、それを勝手に「規範」にして、クロッキー帳なり、デジタルペイントされた「綺麗な」イラストを来春あたりに間違いなく持ってきてださる方々は、やはり何かを勘違いしている。<br /><br />　このような新人教育的な問題は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>業界」においても、少なからず当てはまると思うのです（もちろん、「例外的な存在」はいらっしゃいますから、杓子定規に門戸を閉じることは得策ではないですよね）。<br /><br />　で、作り手がそのような「規範意識＝規範を経た後の自分を信じるという意味での、これしかないという絶対主義」を共有している事態に対して、受け手が「相対主義」と「決断主義」を標榜するのなら、そこに齟齬が生まれるのは当然の事態ですよね。すなわち、共有している前提が違いすぎるわけです。推測ですが、多くの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>家さんは、出版社の担当さんも含めて「家内製手工業」で作品を制作しているわけだから、わたしたちのように、たとえば５００～１０００人で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を作っている制作者たちとは比較にならないくらい、消費者の相対主義や決断主義を反映する可能性が高いように思うのです。<br /><br />　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の制作者の個々人に関しては、ネットで叩かれても、多くの場合は痛くもかゆくもありませんが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>の場合はそうではない可能性が高い。そういうことが嘘か本当かは知りませんが、のっかるならば、「かんなぎ騒動」でもあきらかでございましょう。<br /><br />　<strong>★１２　問題の誠実な解決に向けて</strong><br /><br />　その結果、上がってきた商品はと言えば、ある一定の水準は保っているが、「手練の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>読者である自分」にとってはつまらない。けれど、そんなことは当たり前の事態じゃないですか。いまさらそれを批判することに意味があるのでしょうか。<br /><br />　ひとことで要約すると、<br /><br />　<strong>ネオ・リベラリズム体制における<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>は多くの場合つまらないんじゃないか</strong>　<br /><br />　という事実を再確認しているだけでしょう。<br /><br />　それに迎合するか、反発するか、それだけじゃあないのですか。作品の評価は経済構造という下部構造の存在を前提になされるべきでありましょう。なぜ「エロ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」は経済構造において抑圧されるのかを考察することなしに、「エロ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」の作品論を展開することは、いささか、「足らず」の印象を受けてしまいます<br /><br />　もしそうであるならば、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」を面白くするためには、「ネオ・リベラリズム」を打壊して、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3%A4%CE%BE%F2%B7%EF" class="tagword">ポストモダンの条件</a>』を前提にしている論客を批判する。さらには自己吟味を重ねればよろしい、ということになるでしょう。多くの方が「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」の面白さを主観的な価値基準の問題として片付けていることに対しては、いささか懐疑の余地がある。<br /><br />　誰もが気付いているはずなのに、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」の面白くない理由をどうして、政治や経済や「教養」の問題としてあらためて提起しないのでしょうか。そのような「政治と経済と教養の黙殺」という事態こそが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」や「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」をめぐる受け手＝作り手にとっての現代的な問題なのではありますまいか。「単行本と雑誌と原稿料からみる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>表現とジャンルの諸問題及び受容者の消費形態の変遷について」なんて、今すぐ誰かがやってもおかしくないような問題でございましょう。<br /><br />　<strong>★１３　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>批評・評論のもうひとつの指標</strong><br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」とは離れて、「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」の話をさせていただきますと、「推定××××円の製作資金でどうしてあんなに素晴らしい作品を作れるのだろうか」といった感想・批評・評論をネットでも雑誌でもほとんど見たことがありません。当然のことながら、「どうしてこんなに金があるのに、この程度の作品しか作れないのだろうか」という感想・批評・評論も存在しませんね。<br /><br />　そのような「金の使い方」もまた、しかるべき作品評価の指標になるべきだし、みなさんもご存知のとおり、現在の日本の経済状況のあおりに対して、まさかテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションが無関係であるなどと考えてはおられますまい。<br /><br />　「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」との対比で「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」について語ることは暴論でありましょう。けれども、個人事業主であるとは言え、例外的な「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>家」を除いて、ほとんどすべてのプロの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>制作者が、多かれ少なかれ、「よし、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を作るぞ」とある人が「決断」したときに直面するのと同じ問題を、共有しているような気がするのです。<br /><br />　<strong>★１４　読者が反乱を起こさないのなら、「画描き」が反乱を起こすだろう。</strong><br /><br />　つい数ヶ月前に、ネットのブログを通じて出版社に対して「愚痴」というか「反抗」を表明した「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>」家さんたちがおられましたよね。きわめて個人的な見解ですが、あれは間接的に読者＝消費者にも向けられた刃であったと思うのです。けれど、どうしても、ネットではそれが時事的な「ネタ」として、「自分たちには無関係な問題」として消費されてしまう傾向がある気がありますね。日本には多くの論客が存在いたしますが、そのような問題に対して、明確な態度表明を取った誠実な人々は数えるほどしかいなかったように記憶しております。<br /><br />　そして、そのような作り手や受け手にとっては、そこで態度の表明をする事が、誠実さの証明である以上に「アクチュアルな問題」の所在を嗅ぎ取ったことの証拠ではないか、と想像いたします。<br /><br />　「アクチュアルな問題」と常に向き合っている人々にとっては、それが制作者であろうと、消費者であろうと、クソつまらないロマン主義的な「ノスタルジー」を比較の基準に持ち出して、「最近の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>はつまんね～な」なんて、呑気にブログで書いている場合じゃねぇ、と思うのが「普通」だと思います。「われわれ」は、それで飯を食っているのだし、つまらなければ、より面白く、それでもどうにもならない場合は、いかなる「ギミック」でも駆使いたします。えぇ、駆使しますとも。<br /><br />　例外的な存在であるスターをのぞいて、多くの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>関係者、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DE%A5%F3%A5%AC" class="tagword">マンガ</a>関係者に「金がない」ことは皆さんもご存知ですよね。<br /><br />　そんな人間たちが命と人生をかける「ぎりぎりの戦略」を、強弱さまざまなタッチで表現する描線の一本や細部の陰影に到るまで、「俺はいちぶの隙も逃さずに把握して論じてみせるぜっ！」という自信が、「最近の××はつまらねぇ」論者のみなさんにはございますでしょうか？試みにですけれども、あなたが「つまらない」と思った作品をもう一度だけ、手に取ってください。もう一度、今度はストーリーを把握した上で、見直してみてくださいな。本当にその作品は「つまらない」と、ひとことで切って捨てることができるほど、「価値のないもの」なのでしょうか。<br /><br />　わたしは決して、そんな風には思わないのですが、もっともっと、自分達の好きなものに対して胸を張って生きていきたいと思いませんか。<br /><br />　つづく……。<br /><br />　<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>アニメ批評・原理</dc:subject>
<dc:date>2008-12-07T04:22:13+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『ef - a tale of melodies.』（第９話）の擁護と解説、あるいは大沼心のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、ズドラーストヴィッチェ（露）。本日は『ef - a tale of melodies.』というテレビアニメの第９話についてのお話でございます。　★１　やはり、驚異的なカット数、あるいはアクションとカットの価値の転換　平均カット数は今クール・NO1であり、今回の挿話もおそらく今週テレビ放映されたアニメーションの中でも断突の多さですね。４００カットは遥かに上回っているでしょう。たとえば、流麗華美な作画アクション
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、ズドラーストヴィッチェ（露）。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第９話についてのお話でございます。<br /><br />　<strong>★１　やはり、驚異的なカット数、あるいはアクションとカットの価値の転換</strong><br /><br />　平均カット数は今クール・NO1であり、今回の挿話もおそらく今週テレビ放映された<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの中でも断突の多さですね。４００カットは遥かに上回っているでしょう。たとえば、流麗華美な作画アクションで視聴者を魅了するためには膨大な作画枚数が要求されますよね。けれども『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』は悠然とそのような制度を無視する作品です。「作画アクション」で魅せるのではなく、「カットとカットの高速モンタージュが視聴者に与える衝撃」のスピード感が、この作品の主調低音を響かせております。この点を見逃すと、おそらく、この作品についていけないのではないか、と懸念いたします。<br /><br />　<strong>★２　BGMと音響演出</strong><br /><br />　このモンタージュのスピード感を主調「低音」とするなら、「高音」部を奏でるのは、物語の進行に応じて律儀に寄り添う過剰なBGMです。実際、今回の挿話では、BGMがひたすら視聴者の鼓膜を刺激し続けますよね。「うっとうしいい」、「もういらない」、「うるさい」、「多過ぎる」ほどに鳴り響くBGM。申し上げるまでもなく、この「うるささ」は「音響演出」であります。お気づきの方は少なからずいらっしゃるでしょうが、「視覚的なイメージの過剰性」が氾濫する今回の挿話においては、あくまでも「音響」はうるさくなければならないのです。映像と音声の共鳴関係に無神経であるならば、この演出は「みえない」だろうと思います。<br /><br />　<strong>★３　BGMという音響VS声優という音響</strong><br /><br />　まるで死の恐怖におびえているようには見えない「音楽家」の久瀬修一の「声」の演技は、「うるさ過ぎる」BGMと重なり合うとき、初めてその意味を獲得します。すなわち、完璧に機械化されており、かつ「ミッキーマウジング」的なBGMが、卑小な久瀬の声の演技を圧巻の映像と共に呑み込んでしまうとき、そこに「大きな運命」と「小さな個人の断末魔」というイメージの対立が成立するのであります。この的確さは、どこか「オペラ」のようにもみえますね。<br /><br />　<strong>★４　作画演出ではなく、ポスプロ演出を重視せよ。</strong><br /><br />　たとえば『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』と同クール放映である「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%A1%C5%C4%C6%BB%C0%B8" class="tagword">福田道生</a>」の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』は「作画ではなく演出を見る作品である」という旨の名言を書き記された<a href="http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/" target="_blank" title="WebLeb.ota">WebLeb.ota</a>さん。この名言は「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」においても当てはまります。それでは、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」において見るべき「演出」とは何か。それは作画工程の演出ではなく、ポスト・プロダクション工程における演出であります。<br /><br />　<strong>★５　久瀬の「ダンス」とマティスの痕跡、あるいは色彩設計。</strong><br /><br />　たとえば、今回の挿話のBパート。青い背景に黒塗りされた久瀬修一の影が苦悩するアクションが描かれたカットはみなさんも覚えていらっしゃいますよね。あの程度の作画ならば、現在の大学生や専門学校生の技術・経済的な水準で十分に可能なレヴェルです。けれども彼らにはできないこと・思いつかないことがあります。それは、「青い背景に黒い切り絵のような影が踊るように苦悩する」という色彩とフォルム（形態）のイメージです。もし仮に、「運命および分裂した自己に翻弄される操り人形」のような久瀬の黒い影がさらに抽象化された「かたち」で描かれていれば、間違いなく、「フォービズム」で知られる美術家・マティスとの影響関係を論じることができるような印象的なカットですよね。２００４年以後の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>＝シャフト」作品は常に「グラフィックアート」および「レディメイド・ポップアート」という美術史の様式を参照してきましたが、このカットでも、「グラフィックアート」もしくは「ファインアート（美術）」の痕跡を容易に看て取ることができます。あるいは、直接的に「メディアアート(※ローリー・アンダーソンなど)」からの引用を指摘することもできます。そして、このカットでもっとも重要な役割を果たしているのは、「色彩設計チーム」でありましょう。そうして、この下手な作画のアクションが、にわかに「意味」を担い始めるのであります<br /><br />　<strong>★６　高速モンタージュと編集チーム、あるいは『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』。</strong><br /><br />　今回の挿話の「視覚的な過剰性」をさらにドライヴさせているのは、膨大な短いカットを畳み掛けるように繋いでゆく高速モンタージュ編集だけではなく、それらのカットをオーヴァーラップで編集してゆく「ディゾルヴ」と呼ばれる技法の存在であります。動体視力の高い方ならば周知の通り、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」の前半はぶっきらぼうな勢いで原始的にカットを繋いでゆくストレートカッティングしか使用されてはおりませんでした。そしてこの「編集の演出」は、昨クールに放映された同じシャフト制作の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』（※<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>監督）の演出と完全に一致します。<br /><br />　<strong>★７　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」</strong><br /><br />　ところが、そんなことをわれわれが批判的に連呼していたら、それに呼応するかのように、膨大な短いカットを「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」作品のように「ストレートカッテング」するだけではなく、そこに「オーヴァーラップ」を重ねてきたのであります。このような「編集の演出」はあまりにも「過剰装飾」的に過ぎるのですが、この「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」のあらゆる場面で見出せる「過剰装飾性」こそが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」による「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」に対するひとつの解答であることを決して見逃してはなりません。<br /><br />　<strong>★８　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B2%A1%B0%E6%BC%E9" class="tagword">押井守</a>→<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%C0%BB%B3%B7%F2%BC%A3" class="tagword">神山健治</a>」、あるいは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>→<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」。</strong><br /><br />　そんな「新房組」における「分家運動」は、、「押井塾」における分家運動と比較することが容易に出来ます（お詳しい方ならば、ジブリの分家運動まで言及することができるはずです。）。すなわち、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%C0%BB%B3%B7%F2%BC%A3" class="tagword">神山健治</a>さんが<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B2%A1%B0%E6%BC%E9" class="tagword">押井守</a>さんに対して取った立場が、「模倣による押井の追い詰め」だとすれば、大沼さんが新房さんに対して取っている立場は「加速化による新房の追い越し」だということです。<br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」には「やりすぎることの美徳」というものが存在しますが、どこかしら「ソフィスティケイト（洗練）」された「抑制の美学」と必死にバランスを取っているかのようにみえます。だが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」にはそれがない。彼は「やりすぎることの悪徳」をどこまでも推し進めようとするのです。たとえば、「さよなら絶望先生」シリーズで「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」は、ある一定の美的水準を保ちながら「アクションの排除」を「演出」でどこまで補えるかを実験しているかのように見えますが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」は「実験」など決してしようとはしてはいない。むしろ、前者の実証の上に、妄信的に作品を打ち立てているかのような印象さえも受ける、ということでございます。<br /><br />　しかるに、「テレビ」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションは、「数理論理学的な真偽」を競い合う闘いではございません。ですから、その「猛進ぶり」は、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』をひとつの作品として肯定するに足る十分な衝撃を画面の全体にゆきわたらせるようにみえます。新房さんと大沼さんとの差異、あるいは押井さんと神山さんとの影響関係の比較は、きっと実り多いものであろうとわたしは思うのですが、作品放映終了後のインタビュー記事の内容が気になるところですね。その点については、ライターさんや出版社の皆さんにお任せいたしましょう。<br /><br />　<strong>★９　狂った時間</strong><br /><br />　反＝時系列的な「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」の物語の展開は、誰もが指摘するところでありましょう。きわめて不親切で唐突な未来と過去の交換が何事もないかのようにさり気なく使用されますよね。<br /><br />　このトピックについて確認しておくべきことは以下のふたつでだけです。<br /><br />　①正常な「空間」描写よりも異常な「時間」描写が重視されており、この関係が、作画のアクションよりもポスプロ重視の演出と対応関係にある。<br /><br />　②「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」は「未来」と「過去」を描く物語であり、両者のめまぐるしい交換によって、「現在」という絶対的であるはずの時間の基準が「脱構築」されている。<br /><br />　このふたつの点を押えておけば、取り敢えずは「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」の「狂った時間」を誰もが擁護する気にはなれるはずです（笑）。<br /><br />　というのも、普通は、こういう大胆な構成や演出は、意味不明になるので偉い人からOKがでません。だが、それをやっちゃったのが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』だということでございます。あまり適切な比較ではありませんが、「やっちゃった感」という出鱈目（でたらめ）さの点では、水島努監督の素晴らしく寛容な『ケメコデラックス』よりも、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』という作品の方が優れているのではないかという立場をわたしは取ります。たとえば、ほぼ完璧な人気声優陣を揃えた「ケメコ」における「声優いじり」的な演出と販促イメージ戦略などは、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」で広野凪を演じる人気声優の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B0%CB%C6%A3%C0%C5" class="tagword">伊藤静</a>さんの「屹立ぶり」にはまるで適わないでしょう、何と素晴らしきキャスティング・「ミス」であることか！<br /><br />　　<strong>★１０　アバンのみどころ</strong><br /><br />　さて、先週の挿話を振り返るわけでもなく、明確な連続性も示されないままに、画面の右から左に流れてゆくキャメラ（※画面のフレーム）の合間に次々とたたみかける様に固定ショット（※カット）が差し挟まれます。画調は全体的に暗く、「絵画」のイメージと「雨宮先生」のイメージを視聴者の脳裏に焼き付けるかのようなコンテ割りが採用されていますね。<br /><br />　とりわけ、キャンバスに描かれた「茫洋とした少女の像」と「白い余白」がアバンの暗い雰囲気に対してはコントラストを与えており、第９話の挿話に対してはこれから物語が埋めるべき「空白」の隠喩的な伏線になっております。また、「キャンバス」という小道具が、「フレーム内フレーム」と呼ばれる技法を画面に導入する役割を果たしております。<br /><br />　<strong>★１１　OPのみどころ</strong><br /><br />　相変わらず黒く塗りつぶされた少女の影が無数の鳥へと変化して、そこから紙飛行機が飛び出してゆくというイメージの変容ぶりは大変に素晴らしいですね。そして、ほぼ無意味ではあるが、そろそろ翻訳してみようかと誰もが考えているドイツ語の「レトリスム」が、「スタッフの漢字のクレジットの出現の仕方」とどのような関係にあるのか、この分析もまた、誰もが（制作スタッフも含めて）待ち望んでいることであります。そして「アール・ヌーヴォー」的に見えなくも無い「ダガーナイフ（？）」のイメージがなぜ、OPで呈示されているのか、この疑問に対しても、今回の挿話の本編・Aパートは応えてくれます。<br /><br />　本編からのカットの流用や、重要なイメージの先行的な呈示は近年の優れたテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションでは顕著に見出されるようになって来ましたね（本年で言えば『true tears』や『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』などなど）。<br /><br />　<strong>★１２　Aパートのみどころ</strong><br /><br />　キャラクターの両目や片眼がクロースアップされたり、あるいは描写を省かれたりするのは、これまでの挿話どうりの定型的な演出です。キャラクターの身体の断片を不自然に「フレーム」で切り取ることは「デガドラージュと呼ばれますが、これは古典的な身体の「レイアウト」の「制度」破りのために多用され始めました。この技法を頻用する「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」では、「見ているモノ」と「話している内容」の「コミュニケーションにおける食い違い」というかたちで意味作用を形成するケースを多く見出すことができます。今回の初っ端の雨宮優子と凪のやり取りを見てもそれは顕著でありましょう。<br /><br />　雨宮優子の海辺の独白シーンなどでは、映画のフィルムを思わせるようなカットが使用されます。天地左右は、縦横無尽にひっくりかえり、もはや、やりたい放題です。ここでもアバンの絵画と同様に「映画（のフィルムのコマ）」という<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>とは異なる「メディア形式」からの引用が見られ、かつ、それが「フレーム内フレーム」の技法として機能しております。<br /><br />　さらに同じシーンから連続して「オーヴァーラップ」が使用されます。異なる時空にいるはずの火村夕と雨宮優子が二元論的な「クロスカット」から、一元論的な「オーヴァーラップ」によってひとつの画面で重なり合うように描かれますね。みなさん、これまでの挿話を思い出してください。ここまで常に「クロスカット」で互い違いに描かれてきた火村夕と雨宮優子が「第９話」においてようやく、同じひとつのカットに描かれるということ。この「演出意図」の意味はお分かりですね。そしてこのシークエンスでは、雨宮優子が鉛筆のデッサンによって塗りつぶされてゆく様子や、映画のフィルムのようなものが画面のフレーム枠から分離して、その背後に「レトリスム（文字）」があらわれてくるという、あたかも「コミックのコマ割り」であるかのように流動的・分裂的に多くのイメージが「フレーム」という枠組みの中で氾濫を始めてしまいますね。つまり、「フレーム」という時間と空間を統御する存在の自明性がバラバラに解体されてゆくかのように見えるということです。言葉をかえますと、「狂った時間」に対応するかのように、「フレーム」に縁取られているはずの空間までが確固たる基盤を失い「狂い始める」ということです。本当に恐ろしいですね。<br /><br />　そして何よりも見事なのは、そのような狂った時間と空間がきわめてスムーズに、映画のフィルムのようなものに全身を絡み取られた火村夕と雨宮優子を描いた想像的なカットへと繋がってゆくシークエンスの流れであります。どうしてこんな不自然な現象が視聴者に自然に受け取られてしまうのか。ほとんど<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの謎という他はない。<br /><br />　また、血にまみれた優子の手袋を見て能書きを垂れながら、雨宮先生が優子を抱きしめるシーンにおいても、黒い背景には白抜きのドイツ語が氾濫し、キャメラのパン・アップにともなって、雨宮先生と優子の向きを反転させながら、彼らを描いた輪郭線だけを残して、その内部は次々と変容する音羽町の風景に占有されるように見えますね。ここでも「ポスプロチーム」は大活躍・大疲労（貼り付けただけ？）しております。図像学的に解釈すれば、彼らの身体は、ともに「街の大震災という記憶を刻み付けられた存在」であり、キャラクターの日本語の台詞と齟齬をきたして氾濫する背景のドイツ語の文字は、「視聴者にとって、言語的にも視覚的にも理解・共有不可能なふたりの閉塞性と親密さのイメージ」を呈示しているようにもみえます。<br /><br />　しかし、その「閉塞感と親密さ」を切り裂くように姿をあらわす火村夕。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」シリーズではおなじみの重畳遠近法を用いたロングショットで描かれた洋館の室内で対峙する彼と、雨宮兄妹。暴力描写を経て、あからさまに呈示されるのは火村の描くことのできた死んだ妹と、雨宮先生が決して描くことのできない死んだ妹の顔が酷似しており、しかもその類似性が、ふたりの男とは本来は無関係であったはずの雨宮優子というキャラクターにおいて共存しているという事態です。そして「火村のデッサン」を見た雨宮先生は死んだ妹の顔を想い起こして、一心不乱にその妹をカンバスに描き始める。<br /><br />　この事態の推移をいかに解釈するかで、おおよそ「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の物語」を「見ること＝読むこと」のセンスを問うことができますが、はてさて、みなさんは、いかにご覧になられたのでしょうか。ここは「表現論」派にとっても、「物語」派にとっても「肝」でありますから、この部分の感想なり、解釈なり、批評なり、評論なり、註釈なりを「避けてしまった＝見逃してしまった」とすれば、あなたの無意識の自己規制が働いた可能性がきわめて高い。「そんなシーンあったっけな？」という方は、ぜひ、もう一度見直してみてくださいな。<br /><br />　あたかも「紙飛行機」をかたどったかのような「三角形の光」が「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」において支配的なイメージであることは何度も指摘してまいりましたから、特に註釈は必要ないでしょう。<br /><br />　そして、燃え上がる洋館の雨宮先生のアトリエ。このシーンではうっとおしいくらい単調な炎のエフェクトが長い時間にわたり使用されておりますが、不意に差し挟まれる「奇妙な沈黙＝固定ショット（カット）」が長時間続くことによって、見る者を茫然自失とさせる不気味さが、じわりじわりと画面に張り詰めてゆく過程を、視聴者は高まるBGMとともにじっくりと体験することができます。繰り返しますが、「ポスプロチーム」は大活躍＆大疲労でございます。言わずもがなですが、作画に関しては「紙芝居」などというレヴェルの「揶揄」を大幅に越えて完全に「技法」のレヴェルに昇華していることを決して見逃してはなりますまい。下手糞な原画、動きの無い動画、けれど、だから何だというのでしょうか？「いずれにせよ、キャラクターで萌えたいんだろう？漫画にフォーマットを変えて二次創作しちゃうんだろう？だったらいいじゃない、作画のアクションや作画演出で魅せるよりも、安上がりでより労力が少なく、時間もかからないポスプロで魅せたとしても、ね」。そんな声が聞こえてきそうですが、それもまた、「ディズニーのフル・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションはつくれない」日本の制＝製作スタッフによる誠実な思考の結果としての「ひとつの解答」でございましょう。その意味を、視聴者であるわれわれは、もう少しだけ真摯に考えてみる時期に来ているのかもしれません。そうして、炎に包まれてゆく「壊れた時計」という「時間」を象徴する小道具と優子が雨宮先生に向けたダガーナイフ……。<br /><br />　<strong>★１４　Bパートのみどころ</strong><br /><br />　コマーシャルが開けますと、Aパートのラストシーンを彩った炎のイメージに続いて、水のイメージからBパートが始まります。誰もが指摘するように、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」では「炎のイメージ」と「水のイメージ」が対比的に使用されます。以前、それをわたしが指摘した際に批判されもしましたが、事実なのだから仕方がない。ただしそのお方は、「炎」と「水」という二項対立が「色彩演出」によって巧みに脱臼させられていることを見逃しておられました。事実、今回の挿話のBパートの冒頭では、「真っ赤」な「水」のイメージが描かれておりましたね。<br /><br />　Bパートでは「反復」あるは「増殖」というテーマを顕著に見出すことができます。真っ赤なフィルターのかかった管の中を流れてゆく無数の泡、増殖してゆく仮面、動きをやめることなく、「チクタクチクタク……」と永遠に時を刻むかのようなメトロノーム、赤い×印がモンタージュごとに増殖してゆくカレンダー、久瀬修一の内的な独白の中で繰り返される「記憶（第１期は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of memories』というタイトルでしたね）」という台詞によるイメージ、光を反射することで眼球を隠蔽する火村夕の眼鏡、それを繰り返す広野凪の眼鏡、そしてBパートの終盤には「ピピピピイ」と鳴り響く時計（Aパートの炎のなかで「停止した時計」との対比にも注目）、ピルケースに収められた同じ色の複数の薬……。<br /><br />　言うまでもなく、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の制度において、同じイメージの反復は、短期的にも長期的にも決まって「新しいもの」を導入いたしますから、やはり久瀬の内的独白の後には、彼の突破口になるであろう羽山ミズキのシーンが始まりますね。<br /><br />　舞台は廃屋となった駅舎ですけれども、ここで見逃してはならないのは「チーティング」の技法です。「チーティング」とはある被写体を効果的に描くために、本来ならばそこにあるべきはずの事物をないことにしてしまう出鱈目な技法のことです。このシーンでも、あたかも駅のベンチ奥の背中が存在していないかのようにトラックバックしながら、ベンチに座った黒塗りのミズキと新藤姉妹がバックショットで描かれておりましたでしょう。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」はこの技法を結構使用するのです。ちなみに新房作品では律儀に背景が演劇のセットであるかのように、フレームアウトしてゆく様が描かれることが多いですね。それに対して「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」はキャラクターたちの心象風景を描くためには何のためらいもなく「チーティング」を採用してしまう。この「潔さ」を、視聴者は新房さんの監督作品と切り離して見逃さずにいれるかどうか。<br /><br />　また、ありえないベンチの歪曲っぷりや提喩化された新藤妹の眼帯だけのカット、新藤姉妹に挟まれて、不意に猫「耳」を生やしてしまうコミカルなミズキのカットも見るものを惹きつけますよね。とくに強調しておきたいのは、「デカドラージュ」で排除される描写が多くの場合、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２期」では「眼と口」なのですが、ミズキにかぎって「耳」という特権的な器官が描写されていることです。ここを見逃せば、ミズキというキャラクターが演出・設定上、どうのような位置付けを担っているのかを見失ってしまいますから、注意すべきでございましょう。<br /><br />　そして新藤姉妹からミズキに渡される（日本の）音羽学園の屋上へと連なるふたつの鍵。ここ、複雑ですけれど、火村夕と雨宮先生にとっての優子とほぼ同じ構図に収まりながら、まったく逆の可能性を担わされた存在として「鍵」が描写されていることを見逃された方はまさかおられますまい。感想などで指摘し忘れていた方は、急いで付け加えてくださいね。このシーンの存在が、屋上という最も高い場所への「鍵」と「雨宮優子」というイメージを結びつけるのですから。<br /><br />　Bパート終盤。「反復するイメージ」とそれにおびえる久瀬修一を描くシーンがふたたび描かれます。しかし、久瀬を「反復するイメージの恐怖」から解放するのは、先ほども指摘したとおり、またしてもミズキという存在による手紙であります。こういうプロットの運び方には「癖」というか、「一貫性」があるようにも思われますね。良し悪し問わず制作者の癖を見抜くのは視聴者の重要な使命でもありますから、発見したら容赦なく指摘してやりましょう。制作者は大抵の場合は、気付いていないのですから。<br /><br />　また久瀬修一が苦悩のあまり床に四つんばいになるカットでは、大胆にガラス越しから仰角で彼を描いたような構図が採用されておりますね。これも久瀬がミズキの手紙を受け取るシーンでのいわゆる「天井抜き」の技法と同様に「チーティング」の一種ですが、今期でこのような実写映画と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の差異としての「カメラアイの誤用」を逆手に取ったのは、人気作品では「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%A1%C5%C4%C6%BB%C0%B8" class="tagword">福田道生</a>」の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』と本作『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』くらいでしょうか。「ゼロ年代」の黒瀬陽平という東浩紀門下の「現代美術家」による<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>評論に反して、映画のレンズ効果やカメラアイを意識的に取り入れた作品はこれからもっともっと増えてゆくように思われます。<br /><br />　<strong>★１５　EDのみどころ</strong><br /><br />　OPに比べればかなりインパクトは押えられておりますね。ミズキは全裸になったり、子供になったりもしますけれど、重要なことは、彼女が紙飛行機をつかまえることができぬままED<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションが終了してしまうということでしょうか。どちらかというと、OPが「イメージの衝撃」に訴えかけていたのに対して、EDは丁寧に物語をなぞっているな、という印象を受けるのではないでしょうかね。そして紙飛行機の落下点には、誰のものだかわからない、おそらく父親と母親、そして子供の肖像写真（※「画」かもしれませんが<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>では原理的に決定不可能です）が額縁に収まっているのですが、その「顔が描かれてはいない」んですよね。ここをどう見るか。いろんな見方ができると思います。<br /><br />　<strong>★１６　Cパートのみどころ</strong><br /><br />　まぁ、来週を見てね、ってことでしょうかね（笑）。シークエンスの持続時間はとても短くまとめられています。教会の中。捧げられる花束のイメージ、「デカドラージュ」、視聴者には聴こえない火村夕の意味深に排除された台詞、そして、とってもおかしな印象を与えるパース……。<br /><br />　<br />　<br />　さてさて、随分と長くなってしまいました。想像していた以上に『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』の評判がよろしくないようなので（？）、わたしはこの作品を擁護したいと思います。<br /><br /><br /><br /><br />　<br /> ]]>
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<dc:subject>シャフト</dc:subject>
<dc:date>2008-12-05T01:52:40+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>どこよりも早い２００８年に放映されたテレビアニメ・ベストテン</title>
<description> 　今年、何かの間違いで演出デビューしてしまったK・ワークスによる２００８年に放映されたテレビアニメ・ベストテン。　『true tears』（監督：西村純二 ：P.A.WORKS制作）※冬クール　『シゴフミ』（監督：佐藤竜雄：J.C.STAFF制作）※冬クール　『俗・さよなら絶望先生』（監督：新房昭之：シャフト制作）※冬クール　『紅』（監督：松尾衡：ブレインズ・ベース制作）※春クール　『カイバ』（監督：湯浅秀明：マッドハウス制作）※
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<![CDATA[ 　今年、何かの間違いで演出デビューしてしまったK・ワークスによる２００８年に放映されたテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>・ベストテン。<br /><br />　『true tears』（監督：西村純二 ：P.A.WORKS制作）※冬クール<br />　『シゴフミ』（監督：佐藤竜雄：J.C.STAFF制作）※冬クール<br />　『俗・さよなら絶望先生』（監督：新房昭之：シャフト制作）※冬クール<br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B9%C8" class="tagword">紅</a>』（監督：松尾衡：ブレインズ・ベース制作）※春クール<br />　『カイバ』（監督：湯浅秀明：マッドハウス制作）※春クール<br />　『ひだまりスケッチ×３６５』（監督：新房昭之：シャフト制作）※夏クール<br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%C8%A4%E9%A5%C9%A5%E9" class="tagword">とらドラ</a>』（監督：長井龍雪：J.C.STAFF制作）※現在も放映中※秋クール<br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』（監督：福田道生：日本<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション制作）※現在も放映中※秋クール<br />　該当なし<br />　該当なし<br /><br />　次点<br />　『ソウル・イーター』（監督：五十嵐卓也：ボンズ制作）※現在も放映中※春クールからの４クール<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　年末進行気味な予備的考察<br /><br />　<strong>「ロボット<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>なるもの」について</strong><br /><br />　「ロボットもの」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>についてだが、ほんの昨年に『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%B7%B8%B5%C6%CD%C7%CB%A5%B0%A5%EC%A5%F3%A5%E9%A5%AC%A5%F3" class="tagword">天元突破グレンラガン</a>』があったことを考慮すると、どれも弱い（強度が足りない）。特に「新マクロス」や『鉄のラインバレル』のように「CG」と「ヴァーチャル・キャメラ」の「視覚的過剰性」で高い評価を勝ち得るのは難しく、むしろ、それらの「テクノロジー」に対するスタッフの内在的な批評を見せて欲しい。演出の観点から「ヴァーチャル・キャメラ」の使い方が巧いと思われるのは、「ロボットもの作品」の演出家たちではなく、『夜桜四重奏』（現在放映中）も含めた「松尾衡」であろう。抑制が効いており、これしかないという抜群のタイミングで、アナログ制作時代の「マルチプレーン・カメラ」では不可能なキャメラワークを不意に使用する。この的確さは、「技術へ耽溺してゆく演出家たち」とは真逆の批評的な資質という他はない。<br /><br />　<strong>「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B3%A1%BC%A5%C9%A5%AE%A5%A2%A5%B9" class="tagword">コードギアス</a>」について</strong><br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B3%A1%BC%A5%C9%A5%AE%A5%A2%A5%B9" class="tagword">コードギアス</a>　反逆のルルーシュR2』については賛否があるだろうが、視聴者の「情動に働きかけるためのテクニック」をフル稼働させるため（だけ）に、繊細な演出や丁寧な作画・構成といった要素を削ぎ落とし過ぎた感はどうにも否めない。それが「谷口悟朗」の作家性でもあるだろうし、「消費者を感動させること」はきわめて重要だが、「小泉純一郎的な感動」をひたすら演出することに対しては、あえて否定的な立場をとりたい。<br /><br />　<strong><a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%E4%A5%DE%A5%AB%A5%F3" class="tagword">ヤマカン</a>の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』について</strong><br /><br />　作家論的には、入院患者（スタッフ病院送り）を増やすための人騒がせな<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%E4%A5%DE%A5%AB%A5%F3" class="tagword">ヤマカン</a>の「リハビリ」作品。作品論的には、誰も気付かないような細部と細部の関係にまで意味作用のネットワークがゆきとどいた作品である。その意味で「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」に対してきわめて誠実な作品であるが、あまりにも微細に過ぎる。たとえば、オープニングの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションで描かれている内容が、本編に対して持っている関係の厳密さを多くの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>・ファンに「拾わせる」ためには、「エヴァ・クラスの破壊力」と「解釈・合戦」が必要であろう。山本さんの果てしない「言論・啓蒙活動」は終わらない。<br /><br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />　そして、くそ忙しい「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ータ（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の実作者）」に対して、「自分らが作品を作って、さらには文章も書かなきゃいけないんじゃないか」という危機感を煽り立てる現在のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>をめぐる「状況」は、やはり、不健康きわまりない。自分は『ストライクウィッチーズ』のような作品が「パンツ論壇」を形成するような事態は大歓迎であるけれども、それを「表現のレヴェル」・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションにおける「テクニック」として認知させるところまで、「論壇」が持ち上げてくれることを希望したい。<br /><br />　何故というに総務省だかなんだかの「コンテンツビジネス」に関する施策なんてのは、現場レヴェルでは何の刺激にもならないのだから。あるいは、国家のデザインしたモデルを某G社の上層部のように暗々裏に前提しながら、こそこそとテレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を作るくらいなら、「パンツのイメージだけ」で成立する<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの画期的な表現を模索した方がかなり生産的だと思うからである。そのような「生産性」それ自体に対して、ジェイムス・ジョイスによる２０世紀最凶の小説『ユリシーズ』のラストシーンよろしく「イエス、アスミス！」と笑顔で断じて見せることが、「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>批評」の役割なのかもしれない。<br /><br />　ガキの論理？大いに結構。むしろ歓迎する。<br /><br />　なお、現代の「テレビ」<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>批評にとっては、山本寛さんがよくつぶやかれる淀川長治━蓮實重彦（彦は旧字体）━おすぎという「旧世代の権威による宣伝映画批評」よりも、樋口泰人、樋口尚文、安井豊といった「映画（映像・テレビドラマ・CM・PV）」批評家の方が優秀であり、参考になるとわたしは確信しております（ただし、世界的な批評の水準において蓮實は別格）。けれど、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%E4%A5%DE%A5%AB%A5%F3" class="tagword">ヤマカン</a>とわたくしとでは、同じ「京阪神組（視聴環境の地域格差がプロの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ータを目指している人間に与える影響を留意せよ※ちなみにわたしは「エヴァンゲリオン」をオンタイムで見ることができぬままプロの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ータになりました。思春期のわたしにとって、「エヴァ」は「原体験」でも「衝撃」でも何でもない遠い国の出来事だったのです）」とはいえ、実績以上に、ひとまわり近い年の差がありますから、はてさて、いかがなものでしょうかね。<br /><br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>アニメ批評・原理</dc:subject>
<dc:date>2008-12-01T23:49:21+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>アニメーションにおける「原作至上主義」について考えてみよう。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。さて、本日は（テレビ）アニメーションにおける「原作至上主義」という言葉について考えてみたいと思うのです。　★１　「原作至上主義」のふたつの定義　ざっくばらんに大別すると、この言葉にはふたつの意味しかございません。　①：制＝製作者が原作を（テレビ）アニメーションで可能な限り再現しようとすること。　②：視聴者が（テレビ）アニメーションの評価基
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。さて、本日は（テレビ）<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションにおける「原作至上主義」という言葉について考えてみたいと思うのです。<br /><br />　<strong>★１　「原作至上主義」のふたつの定義</strong><br /><br />　ざっくばらんに大別すると、この言葉にはふたつの意味しかございません。<br /><br />　①：制＝製作者が原作を（テレビ）<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションで可能な限り再現しようとすること。<br /><br />　②：視聴者が（テレビ）<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの評価基準を原作の再現の度合いに置くこと。<br /><br />　<strong>★２　問題の提起</strong><br /><br />　「原作至上主義」の問題について考えようと思えば、いくつかの錯綜した事態を解きほぐさなければなりません。<br /><br />　①原作メディア（たとえば漫画）とテレビ（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション）メディアの表現における形式的な差異<br /><br />　②原作メディアをテレビ（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション）メディアで忠実に再現することの不可能性<br /><br />　③「原作至上主義」がメディアミックス時代における経済学的なイデオロギーであること<br /><br />　④制＝製作者サイドにおける「原作重視派」と「原作クラッシュ派」の存在<br /><br />　⑤視聴者サイドにおける「制作者の意図」分析派と「作品のテクスト」分析派の存在<br /><br />　「原作至上主義」という問題は、これらのひとつひとつの問題が錯綜することで成立しています。わたしは仕事がら、随分と前からこの問題について気にはかけておりました。けれど、本格的に考え始めたきっかけは、ご存知、たいへん優れた考察を展開しておられる「<a href="http://d.hatena.ne.jp/noir_k/" target="_blank" title="noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言った">noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言った</a>」さんの刺激的な記事のいくつかに触発されたからでございます。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』などのテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>について論じたそれらのエントリにおいては、「原作と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の間（あいだ）」とも呼ぶべき「生成」が問題にされており、大変に興味深い。大学の研究者や職業批評家による「統計学的な分析」や「メディア論的な差異に対する配慮を欠いた分析」と比較した場合、「在野の匿名ブロガーによる記事である」という事実を省いても、はるかに興味深いのであります。<br /><br />　暴力的に要約・解釈すれば、noir_kさんの（いくつかのテクストから看て取れる）「原作至上主義」に関する立場は、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの制作者が「原作」にもたれかかり過ぎているということ、これがひとつ。もうひとつが、（視聴者は）「原作（コミック）」のテクストの存在を無視してテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」のテクストを独立した存在として過度に重視しすぎているのではないか、というものです。<br /><br />　そこで、noir_kさんの「立場や批判」というよりも、「ある視点・懐疑」を敷衍するかたちで、わたしもまた、「原作至上主義」という問題について考えてみたい。<br /><br />　<strong>★３　「批評」が利用する原作と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の「間（あいだ）」という「ギミック」</strong><br /><br />　「批評」的な営みは、視聴者だけのものではなく、制作者の営みでもあります。制作者たちの立場から「批評」をするということ。それが意味するのは、歴史的に先行する<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品や他の異なるメディアを「批判」するということです。たとえば、「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」のような作品はもちろん、ドラマ・ニュース・スポーツ・バラエティ・歌番組などのテレビメディア、インターネットや映画・ゲーム・コミック・小説・新聞・美術作品などのメディアを「批判」するということです。<br /><br />　誰の目にもあきらかな事態。それは現在のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション作品における「批評」的な営みが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」や「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>」を嚆矢として、<br /><br />　「メタフィクション（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の原理と前提を批判する）・パロディ（本歌取り）・引用・自己言及（シャフト作品のマニュアル化された自己模倣・エヴァの映画化における再構築など）」として要約することができるということであります。<br /><br />　これらの「批評的な営み」は、「原作」と「（テレビ）<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」の「間（あいだ）」に横たわるメディアの差異にともなう「表現の形式の差異」・「忠実な再現の不可能性」の忘却を惹き起こす「作品やメディアの横断可能性」という時代のイデオロギーの「忠実な反映」であるようにもみえます。ちなみに実写映画における技法（とりわけ画面の構図・物語の構成・色彩・撮影・編集の演出）の引用などは、「どこの制作会社・どこの監督・どこの制作者が最初にやるか」という「早いもの勝ち」およびポスト・プロダクション工程における物理的な「技術力・経済力」の問題であるというのが、実情でございましょう。<br /><br />　ですから、noir_kさんの「原作至上主義」に対する立場が、しかるべき位置を占めているのは、「ジャンルの横断可能性」が大前提とされている制作環境（メディアミックス時代）において、「メディア論的な差異」という名の楔（くさび）をしたたかに打ち込んでいるからであるように思われます。<br /><br />　観客（視聴者）批評家の観点から、noir_kさんのように、「生成批評」として原作と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の「間（あいだ）」を論じることは、ひとつの「ギミック」であり、制作者の観点から、原作と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>、および他の異なるさまざまなメディアとの「横断可能性」の「間（あいだ）」から、「批評的な営み」を取り出して、描いて見せることは、これまた「ギミック」」なのであります。<br /><br />　だから、視聴者と制作者の「ギミック」を通じた「共犯関係」とメディアの「横断可能性」という時代のイデオロギーが、現在のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションにおける「批評的な営み」の「しるし」として視聴者と制作者に認識されているということです。そして、この「目じるし」が「批評的な演出としてテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の演出法を規定している」状況を何らかのかたちで突破することが、これからの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの視聴者と制作者にとっての新しい批評の基準になるだろうと、わたしは思っています。<br /><br />　<strong>★４　物語の構造分析（未満）</strong><br /><br />　このよう主張に対して、「おいおいお前さん、ストーリーという重大な要素を忘れちゃ困るぜ」と反論なさる方もおられるでしょう。ただ、「ストーリー」とは編集という演出の産物であり、「語り方」は批評の対象になりこそすれ、「語られている内容」は、なにがしかの先行する物語の反復であり、論者にもよりますけれど、周知の通り、５～２０程度にパターン化されておりますから、それを評価しても仕方がない。たとえば、ニューヨークの９．１１テロを題材にした物語は無数にありますが、それをどのような視点から、どのように語るか、ということが、重要だということです。いささか、うっとおしい「社会学主義者」たちのお話をいたしますと、この点が「批評空間」（柄谷行人・浅田彰の影響を受けた）世代から「東浩紀━宇野常寛・ゼロ年」世代への差異でありましょう。後者はおもいきり戦略的に、「物語論」へ反動的に回帰しているように思われます。言い換えますと、「表現論」派と「物語論」派という対立が存在するということです。<br /><br />　そうだとするなら、「マッチョ」な「表現論」派の制作者の肩身が狭くなることは必然的ですよね。２００８年を代表し得るテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>・「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B3%A1%BC%A5%C9%A5%AE%A5%A2%A5%B9" class="tagword">コードギアス</a>　反逆のルルーシュ　R２」の人気は、「表現論」的な演出を自粛することで「物語論」派から支持を集めることに成功したきわめて兆候的な作品であるということを、わたしたちは見逃すべきではありますまい。<br /><br />　<strong>★５　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの歴史の忘却</strong><br /><br />　一般化することは避けなければなりませんが、他のジャンルに比べて、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は例外的なほどに人々から忘れられてしまう度合いが高いように思われます。わたしたちは、半年ほど前に見ていたテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>でさえ、鮮明に思い出せないことの方が多い。何故だかわかりますでしょうか？<br /><br />　ひとことで申し上げますと、異常なまでに、「制度化された技法による物語」と「キャラクターデザイン（声優のキャスティングとアクティングも含む）」が類似しており、同じものを反復しているからです。<br /><br />　テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションに隣接する「コミック」や「ゲーム」に関して、わたしは門外漢ではありますが、「コミック」を例にとってみましょう。「コミック」というジャンルもまた、きわめてシンプルな規則や規律・規範から成立しているように見えますが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションとは違って、「こいつはあきらかに規範的な美術と物語のテクニックを学習・習得した後に、あえて下手糞な画を描いて、馬鹿げた物語を語っている」といった漫画家が確かに存在しております。おまけに、決してそのような「作家」たちは少なくない。<br /><br />　けれども、不幸なことに、メディアミックス時代における現代のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション業界は経済構造の都合でそれができません。それは「原作のないオリジナル作品」という意味ではなく、端的に「オリジナルなもの」が抑圧される傾向にあるということです。きわめて「俗っぽいイメージ」に仮託してたとえるなら、優れた直木賞的センスは重用されますが、中途半端で若い芥川賞的センスは抑圧される傾向にあるということです。だから、多くの作品が忘れられてゆくのは当然の事態なのです（より正確に言うのなら、現代では直木賞／芥川賞という二項対立が失効しているので、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の歴史の問題ではなく、実存的な問題として、いずれかに信念を持って「特化」しようとする時代錯誤な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの制作者（演出家）たちは淘汰されるということであります。けれど、そのような「特化という意識をもつことができるようになったのが、実は９０年代に入ってからのことですから、そこに「奇妙なねじれ」が存在しているようにみえるのです。この「ねじれ」を引き受けた作家主義とインターネット社会の同時的な誕生こそが、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>〉と呼ばれる事態であるとわたしは考えます）。<br /><br />　<strong>★６　「原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。</strong><br /><br />　現代のメディアミックス時代におけるテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの制＝製作の指針としての「原作至上主義」。インターネット社会における観客批評家たちの「原作至上主義」。<br /><br />　いまさらポストモダン的な「相対主義」を標榜するほどナイーブではございませんから、私見を述べさせていただきますと、ともに間違っております。<br /><br />　制＝製作舎たちが、「原作」をいくら「模倣」しようが、所詮は「メタフィクション・パロディ・引用・自己言及」および「実写映画の早い者勝ち引用ゲーム」からは抜けられない。また、視聴者がどれだけ原作とテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの類似性を指摘しようが、根本的に「原作」と「テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」は異なる表現の様式なのであります。「異なるもの」を類似性を媒介にして同一視することにどれだけの意味があるのか、さっぱりわからない。それともふたたびヘーゲルの時代に回帰できるということでしょうか。<br /><br />　ヘーゲルは小説のことを「市民社会のブルジョワ的な叙事詩」と定義いたしました。要するに、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>における「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するかもしれないということです。言い換えれば、これが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」への「郷愁（ノスタルジー）」に結びつく。けれども、この「ノスタルジー」が招きよせる物語は、「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかありません。そしてそのような物語が「売れる＝消費される」社会の現状維持的な肯定でございます。果たして、それでよいのか。<br /><br />　<strong>★７　富野由悠季と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%BC%BE%E5%CE%B4" class="tagword">村上隆</a>　</strong><br /><br />　ひっそりと深夜に放送されるそんなテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を作るのも、語るのも、まっぴらごめんだ、という態度はきわめて適切でありましょう。ましてや、「いい年をした大人、常識的な社会人」という価値観に迎合するなら、正しい振る舞いであると断言することさえできます。<br /><br />　ただ、だからといって、多くのベテランの先輩がたが反語的に仰るように、「テレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」がステータスシンボル（たとえば「オタクのしるし」）以上の存在価値を持ち得ないという議論はあまりにも不毛であり、杜撰であり、素人じみている。富野由悠季さんでさえもが、戦略を欠いたまま、不意にそのような主張を老境の淡いの中でつぶやいてしまうとき、断固として反論する必要を感じることがあります。そして逆に、圧倒的な「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション≒コミック」表現に関する戦略性（プレゼンテーションと歴史的な文脈づくり）で欧米諸国を震撼させた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%BC%BE%E5%CE%B4" class="tagword">村上隆</a>さんのような現代美術家に対しても、最近では、わたしたちは諸手を挙げて肯定することはできなくなっている。<br /><br />　富野さんのペシミズムとそのようなペシミズムの盗用が現代美術の世界においては肯定性に転換することを証明した<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%BC%BE%E5%CE%B4" class="tagword">村上隆</a>さん……。<br /><br />　<strong>★８　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a></strong><br /><br />　だが、いずれにせよ両者が「時代閉塞の現状」において、ぎりぎりの戦略をとっていることは、痛いほどに見る者の胸を打ちます。そして「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>」という固有名が、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の世界にやってくる。彼らもまた、「時代閉塞の現状」から抜け出すことに対して、まちがっても成功してはいない。彼らはともにきわめて理知的なテクニシャンであり、「巧い」けれども、「状況を突破する」ほどの来るべき何かを呈示したわけではない。<br /><br />　にもかかわらず、新房さんは、テーマ（物語の題材と細部）との暴力的な遭遇（西尾維新の小説の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>化など）によって、「現状」を何とかしようとしており、山本さんは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション制作と同時並行的に展開している「言論活動」で、自己弁明しながらも、「新しさ」を模索しているかのようにもみえます。<br /><br />　そして、間違ってもそれが、『ef -a tale of melodies.』（※監督：大沼心、監修；<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>）や『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。<br /><br />　<strong>★９　それから</strong><br /><br />　けれども、この「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その「恐怖心」こそが、「富野由悠季」や「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%BC%BE%E5%CE%B4" class="tagword">村上隆</a>」に見出すことのできない、ただならぬ気配をディスプレイの画面に波及させるアクチュアルな事態であることを、われわれは決して見逃してはなりますまい。映画作家の黒沢清や批評家の蓮實重彦（彦は旧字体）を引用するまでもなく、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の「面白さ」を語る行為によって、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の「恐ろしさ」が忘却されるという事態は、見る者の感性の鈍化を証明してあまりあるようにも思われます。<br /><br />　くだらないテーマの指摘、ジャンル分け、原作とテレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションとの些細な異同、ありふれた技法の指摘、歴史的な類似性の指摘など、わたしたちの言葉の数々は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」や「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BB%B3%CB%DC%B4%B2" class="tagword">山本寛</a>」が恥らいながら、それでも真摯に模索している「アクチュアリティ」に対して、まるで追いついてはいない気がいたします。<br /><br />  　画を描くのではなく、文字を言葉にするとき、わたしはそのような感興に胸をしめつけられる気がするのであります。<br />　<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>アニメ批評・原理</dc:subject>
<dc:date>2008-11-29T20:35:30+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『ヒャッコ』（第6話）の批評と解説のために交わされた雑談。</title>
<description> 　　予想通りでした。今週も『ヒャッコ』の講義が休講になる旨の文書が掲示板に貼り出されていたのです。そこで仕方なく、われわれは戸山キャンパスのキャフェテリアに腰を下ろすことにしました。　★１　Cパートについて語る！　植草（甚）：今週の『ヒャッコ』、見たかい？折り返し地点でもある第6話になってやっとこさ、EDの後のCパートで桑島法子さんの演じる冬馬が口を開いたな！　鈴木（敦）：あぁ。しかも面白いのは、第6話
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<![CDATA[ 　<br />　予想通りでした。今週も『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の講義が休講になる旨の文書が掲示板に貼り出されていたのです。そこで仕方なく、われわれは戸山キャンパスのキャフェテリアに腰を下ろすことにしました。<br /><br />　<strong>★１　Cパートについて語る！</strong><br /><br />　植草（甚）：今週の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』、見たかい？折り返し地点でもある第6話になってやっとこさ、EDの後のCパートで桑島法子さんの演じる冬馬が口を開いたな！<br /><br />　鈴木（敦）：あぁ。しかも面白いのは、第6話になっても<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%DE%B3%DE%C9%D9%C8%FE%BB%D2" class="tagword">折笠富美子</a>さんの演じる虎子との絡みがまだ延期されているということだろうな。広い意味での音響演出だね。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』はさぁ、「作画は駄目なので演出を見るべし」という風潮があるようだけれど、桑島法子さんの起用の仕方をみていると、この作品は「作画」を省いても十分に「贅沢」な作品だという気さえする。<br /><br />　許（光）：それにしてもCパートの唐突さには驚かされたよねぇ。Bパートが終わって、ん？少しEDには早いんじゃないの、何かあるんじゃないの、と思ってたらいきなり「異形の学園バトル」が描かれる。<br /><br />　神壺（猟）：Bパートが龍姫の自宅前、「夜」のシーンで終わるから、そこから「夜」道を歩く歩巳の後姿と「夜」の神園学園へという展開には連続性があるよ。まぁ、いずれにせよ夜の学園で、大胆な設定の変更が施され、「バトル」が開始されることに違いはない。覚えてるかなぁ、「スクールランブル」シリーズでね、文化祭の出し物をめぐって生徒たちが「夜の学園」を舞台に「バトル」を始めてしまう抱腹絶倒のエピソードがあったでしょ。あれがやりたかったんじゃないか。もちろん厳密に言うと、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>」は「バトル」が本編との連続性を必ずしも保ってはいないことを視聴者にアイキャッチで伝えたのに対して、後者は本編との連続性を明確に保っていたね。ただ、前者は次週以後の展開、特に上下山虎子と西園大河の関係や、学園を掌握しているらしき謎の人物の存在を部分的に暗示しているという意味では、本編とまったく無縁ではなかろうという予測はつく。事実、アイキャッチのカットでは本編との関連を「全否定」しないんだよね。言い換えると、制作者の意図や思惑がどうであれ、本編との連続性も同時に示されるような言葉が使われてたでしょ。「本編の内容は予告から大幅に変更する場合がございますので予めご了承ください」ってやつ。この否定もせず、肯定もせずの「さじ加減」が巧いんだな。<br /><br />　平林（直）：「レトリスム」の使い方も巧かったねぇ。だって縦書きでさ、「無が訪れる…」とか「暴走する……アレ！」って黒い画面に白抜きの文字があらわれるじゃん？。爆笑したわ。また教室に押し寄せて生徒たちを襲う大量の「メカ虎子、あるいは虎子の増殖」というモチーフは、Aパートの龍姫の妄想カット、さらにはCパートの冒頭で写真部の「複数」のモニターにさ、ばぁぁっと映し出された「フライングタイガー・虎子」のイメージの「反復」でもあるよね。あと実写映画の『リング』だったか、「貞子」のパロディなんかもあからさまに使用されてたけれど、あのカットが巧いのは、あの瞬間に客観ショットが主観ショットに切り替わり、何度か「彩度変化」させながら、（映画の劣化した）フィルムのノイズみたいな縦線が入るでしょう。それによって、画面に「フレーム内フレーム」の技法がさりげなく導入されるの。<br /><br />　許（光）：Cパートも「技法」のオン・パレードね。確認のために羅列してみるわね。先ずは挿話の構成としてCパートの存在自体が「非現実的」であり、時系列に属さないという意味で「反＝物語」の技法。小気味よくインサートされてゆく「レトリスム」（黒画面の白抜き文字ね）の技法。Cパートの全体の「不安定さ」を強調する「ダッチ・アングル」（登場人物たちが斜めになってるカットね）の多用。複数のモニターによる「フレーム内フレームの技法」。虎子ひとりが飛び移っただけなのに、どういうわけだか謎の人物とその秘書らしきキャラクターのいる室内が激しく前後左右して天井から白く小さな瓦礫が振ってくる「ローリング」。虎子を迎え撃つために戦国獅子丸が部屋を出る際の「ピント送り」。円筒状の塔の上の虎子と雀、1年６組とそれに相対する拳銃を持った（あまがさ）先生のシーンなど、主客二元論的で官僚主義的な「切り返しショット」を回避して、向かい合った登場人物たちの高まりあう緊張感を「一挙に」呈示する「画面分割」の技法、大河と向かい合い「わたしは信じない！」と叫ぶ虎子の背景で炸裂する光の露出オーバー、めまぐるしく３者（虎子と大河・歩巳たち・謎の人物と秘書）それぞれの空間を交代させてゆく「クロスカット」……、<br /><br />　<strong>★２　Aパートを語る！：龍姫の彷徨</strong><br /><br />　吉田（秀）：（遮るように）ちょっ、おまっ、いったんさぁ、話をAパートに戻そう。Cパートから話し始めるのは座りが悪いや。記憶違いも起こりやすくなるからね。<br /><br />　平林（直）：とは言えさぁ、Aパートも抱腹絶倒のひと言に尽きるんだがな。<br /><br />　神壺（猟）：冒頭のシーンでは先ず虎子の伸ばされた腕に邪魔されて雀の両目が描かれず、さっと教室を後にする虎子の両目も描かれない。彼女から声をかけられた歩巳を描いた俯瞰ショット（カット）でも歩巳の両目は描かれない。そしてようやく龍姫を描いたカットで彼女の両目が描かれる。しかし龍姫の「口」は画面の外側に「デカドラージュ」されてるね。つまり、前の3人は何を「見ている」のかわからない。だから彼女らがどこに向かうのかは視聴者にわからない。対して後の龍姫は何を「考えている」のかわからない。だから彼女は「リアクション」できずにいるように見えるわけだ。そうして、画面の下に「排除された龍姫の口の描写」に呼応しているかのように、彼女の内的独白の「代わり」をつぶやいていたのが実は安藤子々（ねね）だったという事実が発覚するとき、見る者を笑いの渦が不意打ちする。このシーンの流れには、ほぼ文句ないかな。<br /><br />　許（光）：その後のシーンで、龍姫ちゃんの「彷徨」ぶりが描かれるわけね。、この「彷徨」という繰り返される『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のモチーフを反復した後、自宅に帰ってきた彼女の憔悴ぶり、律儀にも「レトリスム」を用いて「悩み続けた」という文字の註釈が画面にあらわれるんだけれど、龍姫の「彷徨」の描写（モーション・作画）と、問題が解決せぬまま「悩み続けること」という感情（エモーション）の一致は見事でしょう。<br /><br />　大友（良）：というか「彷徨」の過程の描写が見事だ。直角三角形で区切られた画面の光ではなく影の部分に龍姫を配置するのは教科書どおり。授業終了後の傘先生による「言いつけを犯して」まで堅物の彼女が「トリックスター」という意味深な名称のキャフェに寄り道するという展開も気が効いてるよね。「トリックスター」って「言いつけを破る人」のことだからさ。後は「ジャンプカット」を使って真俯瞰から小学校・中学校・高校の龍姫の歩みを連続して3回繰り返すね。見逃してはならないのは、この３つの時代（時間）が、龍姫の一貫した内的独白を通して同時に共存する「時間操作の技法」が功名に使用されている点だろうか。この「複数の時間の共存」が、実は龍姫の部屋で虎子（たち）が勝手に見ていた「アルバム」という小道具に「強度」を与えてるわけ。だって「アルバム」ってのはさ、まさに複数の時間を切り取った「写真」が同時的に共存することのできる場所でしょ？さらに付け加えるなら、真上から「小学生からの龍姫の成長過程」を描いた３連続カットを見ているのは視聴者だけだと見ている人は思い込むじゃない。でも違うの。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』はその裏をかく。実は、その間、虎子たちも龍姫の「成長過程」、しかも「小学校以前からの成長過程」をアルバムで見ていたことが後であきらかにされるよね。だから重要なのは、「アルバム」という些細な小道具によって、「視聴者とキャラクター」の地位の「転倒」関係が生じてるってことよ。<br /><br />　菊池（成）：なるほど、視聴者よりも早く、「キャラクター」の方が実は龍姫のより深い過去についての知識を手に入れていたというわけか。こいつはやられたねぇ。コンテ・脚本・演出ともに冴え渡ってやがる。<br /><br />　<strong>★３　Aパートを語る！：「キャメラ・アイ」の創造</strong><br /><br />　許（光）：虎子と愉快な仲間たちを自分の部屋で発見した龍姫はめまぐるしい振る舞いを演じて見せるわね。たとえば、嘘としか思えない同調ぶりで見る者を驚愕させる龍姫と歩巳の髪の毛の「フォロースルー」は前代未聞でしょう。爆笑必死（笑）。これは「お互いの言動を模倣しあうこと」という『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』において繰り返されるモチーフでもあるわね。また、龍姫がみずからの孤独（友達が少ない）を自覚するかのように前景に配置された彼女に対して３人を描いた後景が強烈に歪曲しながら遠ざかっていくカットは誰の目をも惹きつける。<br /><br />　一柳（ケ）：そうだねぇ。俺が巧いなぁと感心したのは龍姫が自分の家の玄関の扉をガラガラっと開けるんだけど、それをするのが左手なのね。それでさ、あえて手首をしならせる動作を描写させてるでしょう。彼女は左利きという設定を遵守しただけのカットなんだけど、こういう配慮の繊細さは視聴者として、ちゃんと見ておきたいよね。<br /><br />　薫（敏）：……龍姫が部屋に入る直前のシーンで貞子のパロディも真っ青のしゃがみこんだ龍姫が見出せるね。その周囲は黒い影が支配的になり、『ちびまるこちゃん』で完全に確立された縦線の技法でその落ち込み具合が描かれる。かと思いきや、デフォルメされて、漫画的な集中線の使用とともに虎子にぶちきれて見せる。そうして、あたかもそこに「キャメラ」があるとしか思えない構図で虎子の顔面が何度も「レンズ」に押し付けられる。龍姫は「ですけれども！」というキャラを立たせるための口癖の台詞を繰り返してつぶやくんだけれど、１度目の後、２度目に虎子の顔面を「レンズ」に押し付けるまでの間（ま）の作り方は絶妙だね。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を論じるときには「キャメラ・アイの誤用を避けるべきだ」と東浩紀門下（？たぶん違うと思うが……）のある現代美術家がある論文で言い放ってたじゃん。けど見てご覧よ。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のこのカットの演出はあきらかに「キャメラ・アイ」の「誤用」を誘発するかのようなきわめて「批評的な演出」がなされているじゃないか。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』という空気系マルチヒロイズム型萌え・美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>自体がこのカットで、「キャメラ・アイ」を前提にしていることが大胆に証明されたのだからな。<br /><br />　<strong>★４　Bパートを語る！：パンツ論壇・「時間操作の技法」・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』</strong><br /><br /> 伊福部（ア）：そしてパンツ論壇的には避けられない『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』でも使用された、「あたかもパンツであるかのような平面的な図柄」を利用して描かれたひよこのカットがやってくる。われわれが「見た」のは本当にパンツだったのか。K・ワークス先生による、あれは応用可能なパンツ描写の技法の創造であり、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の文法書に商標登録された、という主張を裏付けるかのように、きわめて短いスパンで「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%A1%C5%C4%C6%BB%C0%B8" class="tagword">福田道生</a>」によって採用されたね。もちろん、カット単位（だけ）ではなくモンタージュ（と台詞の）単位で見ればあれが「雀のパンツ」の間接的な表象であることはあきらか。要するに直接描写をあからさまに回避している。視覚的なイメージとしても『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』にきわめて類似しているといわざるを得ない技法だよな。原作のコミックがどうであれ、「こういう風に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの技法は確立されていくんだよ」という「歴史」を目撃してしまった気分だ。<br /><br />　武満（ト）：さておき、龍姫が、「おとなパンツ」を発見した雀に向かって「物凄い勢いで走り寄って来る」というカットがありますね。ここで見逃してはならないこと、それは龍姫は確かに走っているのに、まったく雀との距離が縮まらないことですよね。言葉を換えますと、龍姫のアクションに対して、時間だけは経過しているのに空間は不動のままであるということです。このカットでは空間と時間の同一性が解体されているように見えますね。要するに、「空間における自然で滑らかなアクション」ではなく「時間における不自然で逸脱したアクション」があえて採用されているように見えるということです。ひと言で申し上げますと、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は動いてナンボ」中心主義批判でしょう。<br /><br />　林（ヒ）：そして、言うまでも無く、そういう「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は動いてナンボ」中心主義批判の「演出」は、先のクールに放映された『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』で繰り返し使用された技法ね。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の「演出」を「出崎統」的な演出との類似性で語ることはまったく間違いではないけれど、それらの間に「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」を挟まないと、いささか「言い落とし」の印象を受けなくもないわ。<br /><br />　<strong>★５　Bパートについて語る！：涙、涙、涙・ワイプ・鍋と疑似家族</strong><br /><br />　平林（直）：ところでさぁ、龍姫の自室でのてんやわんやの大騒ぎのシーンでもそうなんだけれども、あきらかに『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のキャラクターたちって感情表現として「泣き過ぎ」だよね。<br /><br />　大友（良）：そうそう、何かに突き動かされるかのように、ことあるごとにさ、みんな目に涙を浮かべるんだよね。あるいは「涙」というイメージが繰り返して描写される。まるで歩巳を演じる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CA%BF%CC%EE%B0%BD" class="tagword">平野綾</a>さんが歌うEDの楽曲と共鳴音を響かせているかのような「演出」だな。そしてこの涙を浮かべる女子高生たちの表情に萌えてしまうのよ（笑）。今回の挿話でもAパート、龍姫宛の2003年の年賀状を見たい虎子が歩巳の涙顔を模倣するときのあの画は悪くないねぇ。あとデフォルメされた虎子がBパートでむつまじい龍姫と俊子さんのやりとりを見て、思わず目に涙を浮かべてたりするの。虎子は繰り返して俊子さんを「優しい」という台詞で形容するよね。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%DE%B3%DE%C9%D9%C8%FE%BB%D2" class="tagword">折笠富美子</a>さんの言葉を借りるなら、存外、虎子って「いらんことしぃ」（※関西弁かな？）だけれども、視聴者の「感情増幅装置」として、もっともわかりやすいかたちで「普通の（≒誇張された<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>的）リアクション」ができる女の子に見えるよな。これはキャラクター造形の妙技とも関わってくるのだけれど。<br /><br />　菊池（成）：わかっちゃいるんだけどね。まぁ、執拗に画面にあらわれる涙のイメージとED楽曲のタイトルの関係については「偶然の符合」だと言い切るにはあまりにも出来過ぎているからなぁ。「作打ち」の前に決まったんじゃないのかねぇ。<br /><br />　吉田（秀）：あと枝葉末節に関することだけれども、Bパートでは鍋をみんなでつつくシーンに移行する際に「ワイプ」が１度だけ使用されるよね。あえて権威付けるなら「黒澤明」がよく使ったヤツね。ポスプロ・チーム頼みの技法とはいえ、よくまぁ次から次へと見る者を飽きさせないものだと感心してしまう。そしてぐつぐつと煮立つ鍋、あるいは火の共有、すなわち「食事を共にする」というイメージは「制度＝文化」的に「疑似家族」性のイメージを招き寄せる役割を果たしてくれる。事実、このシーンで龍姫と俊子さんの疑似家族性が決定的なイメージとして呈示されるし、今回の挿話における最終的な虎子と愉快な仲間たちの「姉妹」性も俊子さんという疑似的な母親と鍋の存在を起点にして呈示されるよな。<br /><br />　平林（直）：あぁ。そんで、さらに突っ込んだ枝葉末節に関する指摘をすれば、「入浴シーン」が徹底して排除されている『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』において、熱々の鍋とキャラクターたちの口から吹き出す「湯気」のイメージはきわめて象徴的な意味作用を担う記号として機能しているようにも見えるね。きわめて官能的でセクシャルなものだよ。あえて虎子の口とそのなかの豆腐かなんかを超クロースアップで描かせてるカットがあったでしょう。彼女の両目は画面の上端によって切り取られててさ、「食・欲」の描写が妙に色艶を感じさせるんだわ。口の中の熱々の食べ物のカットってね、巧く描こうとすると変に「リアリスティック」になるから『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』みたいなジャンルの作品では逆にさじ加減するのが面倒なの。歯に線はどれくらいの程度で描き込むかとかね。おまけに、なくても困らないじゃない？。にもかかわらず、存在しているああいうカットの積み重ねこそが、「セックス」を連想させるってことかな。<br /><br />　<strong>★６ オマケ　ところで他の作品は……</strong><br /><br />　鈴木（敦）：あいかわらず、福田さんは偉いんだという主張にわれわれは白々しく落ち着いてしまうわけだが、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』以外の作品ってみんなどう？ワンクールものはそろそろ前半戦が終了だよね。<br /><br />　植草（甚）：「魍魎のナントカ（この漢字が読める人って日本にどれくらいいるのだろう……）」・「黒塚」・「とらドラ」・「ミチコとハッチン」・「のだめカンタービレ」あたりはもう今の勢いでそのまま終わるだろうから、逆にドキドキはさせられないなぁ。今のテンションで突っ走ればいいと思う。「カオスヘッド」は何となくイメージで敬遠されてそうだけど、気になるところ。ただ、あえて難癖を付けろと言われたら、もう少し「演出」の大胆な繊細さが欲しい気はする。あ～っ、そこは雑にやっちゃ駄目だってところで綻びが見えちゃうんだな。<br /><br />　菊池（成）：『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』についてなんだけどさぁ、主人公の女の子が「自分が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>のキャラクターだった」という衝撃の事実に気付いて、そこからの脱出を計るくらいのオープンエンドに持っていかなきゃ、色々な意味で慎みと恥じらいを欠く人騒がせな作品として終わる気がするんだよ。原作をあんまり尊重し過ぎて、細部で「からかい・ひやかし・いやがらせ（？）」ばかりやってると山本さんの立場が結構危いんじゃないか。ただ、彼のカリスマ性とセルフ・プロデュース能力の高さは、製作委員会的にはどうしても捨てがたい逸材なんだよなぁ……。あとは『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』な。<br /><br />　許（光）：「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２」も『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』と同じくポスト・プロダクション工程に圧倒的に比重を置いた作品よね。もちろんあのキャラクター原案・デザインを<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の作画で動かしまくるとコメディ・タッチになることは目に見えているわけだから、作画演出よりもポスプロ演出を重視せざるを得ない。経済的・物理的な効率化の問題もあるけれども。第６話を見た人っているのかな、カナ？<br /><br />　平林（直）：俺、見たよ。雨宮優子を演じておられる声優さんのアクトの「さ行」の発声がね、無性に気になったの（笑）。決して下手なわけじゃないよ。何と言えばいいか、見方によっては、あの背景に漢字が氾濫してゆくワンカットのロングテイク（長回し）とあれだけの長広舌が互いに「ノイズ」を発しながら、映像と音声の間における感覚的な領域を拡張するという意味で、高い評価に結びつけることは十分に可能だからな。あの緊張感はやっぱり凄いよ。だってさ、まるで「アクション」なんかしてないのにあれだけ見る者を惹きつけるわけだからね。作画チーム（あるいは出身）の人間にとって、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションとは何か」って真剣に考えざるを得ないぜ。<br /><br />　野田（ツ）：あの問題提起的な作品の性質は誰もが認めざるを得ないよな。ただね、おれは単純に「ケータイ小説」的な物語がどうしてもひっかかるんだよ。出鱈目（でたらめ）過ぎて圧巻の映像(視覚的過剰性)が、人間が頭の中で想像する「物語なるもの」を置いてけぼりにしている気がするんだ。１期は両者の溝が２期ほど深くはなかったのね。物凄く広い文脈でとらえれば、メディアミックス時代における「歪なテレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」のテスト・ケースになりうる作品だと思う。その意味ではとても重要なんだけど、その「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>2」を「面白い」という言葉で簡単に形容して良いものかどうなのか。なかなか評価が難しい。<br /><br />　大友（良）：正直な話、「本」がしっかりしてればさぁ、何とでもなると思うわけ。おれは「ワンナウツ」とか「伯爵と妖精」みたいにね、教科書の第１章に書いてあるいささか安易なキャメラワークを見てても存分に楽しめるよ。もちろん順位を決めろと言われれば決めるぜ。けどさぁ、どんな作品の制＝製作にしろね、色んな人たちの色んな思慮・思惑が入り混じっているわけで、「肯定」はできても「否定」はできないな。<br /><br />　吉田（秀）：お前は優し過ぎるんだよ。<br /><br />　大友（良）：そうかね。そんなもんかね。<br /><br />　吉田（秀）：そうだよ。そうだよ、そうだよ、ソースだよ。<br /><br />　野田（ツ）：鹿野（優以）さんに蹴飛ばしてもらえよ、雲雀っこめ。<br /><br />　<br /><br />　こうして初冬の夜長は更けてゆくのでした。<br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>日本アニメーション</dc:subject>
<dc:date>2008-11-14T05:14:55+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>斎藤千和のポケットの中の『機動戦士ガンダム００　2nd』（第6話）:ルイス・ハレヴィ研究</title>
<description> 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『機動戦士ガンダム００』シリーズの登場人物であるルイス・ハレヴィ研究会の例会であります。　今回の６話についてですが、第2期の各話において、もっともルイスの出番の多い挿話（エピソード）となりましたね。とはいえルイスさんが登場するのはBパートの冒頭からであり、アバンやAパートでその姿を見出すことはできません。Bパートの冒頭では第5話におい
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%A1%C6%B0%C0%EF%BB%CE%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0%A3%B0%A3%B0" class="tagword">機動戦士ガンダム００</a>』シリーズの登場人物である<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9%A1%A6%A5%CF%A5%EC%A5%F4%A5%A3" class="tagword">ルイス・ハレヴィ</a>研究会の例会であります。<br /><br />　今回の６話についてですが、第2期の各話において、もっとも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>の出番の多い挿話（エピソード）となりましたね。とはいえ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんが登場するのはBパートの冒頭からであり、アバンやAパートでその姿を見出すことはできません。Bパートの冒頭では第5話において描かれた「第４チュウコ小隊」の身振りを反復するかのように、またしても敬礼姿での登場となります。ナチスの親衛隊を喚起させなくもない「アロウズ」の今回の作戦への参加意図を高山みなみさんが演じる女性の大佐から問われたバラック・ジニン大尉。アメリカ映画の海兵隊というか、政治家になる前のアーノルド・シュワルツネッガーに類似した彼が暗唱文を朗読するかのようにその意図と後悔の意志がないことを告げた後、ふいに<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんをクロースアップで描いたカットが画面に挿入されます。その表情はやや口元をへの字にしてはおりますが、きわめて無機的であり、「作画」ではなく「文脈」で何事かを語らんとしているかのように見えます。すなわち、参画の意図の後悔が皆無であることをやりとりする切り返しショットに続いてこの「無表情」が編集されるわけですから、大佐と大尉のやりとりに「YESとNO」を同時に表明しているかのように見えるということです。言葉を換えますと、何かを考えてはいるが、何を考えいるかはわからない、そんなカットに見えるわけですね。<br /><br />　それでは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんは何を考えているのでしょうか。次に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんが登場するシーンにおいてその内容が明かされます。ひとり格納庫で佇んでいるソーマ・ピーリス中尉はその独白によって己が何者であるかをみずからと視聴者に対して言い聞かせておりますね。すると、足音の効果音がオフで画面に重なり、画面が左方向に横移動しますと、画面の手前に向かって歩いてくる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんがフレーム・インしますね。「お邪魔してしまいましたか？」と尋ねる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんですが、強い口調で中尉が「いいえ」ときっぱり言い放ちますと、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんはどういう当惑の声かはわからないのですが、その語調に気圧されたかのように「うっ」と声にならない声を発して「失礼しました」とつぶやきながら、うつむいてしまいます。<br /><br />　カットが変わると、ミディアム・ロングのツーショットでふたりの全身が「平面的な舞台の構図」において呈示されます。ここで見逃してはならないのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんの身長の方が微妙に中尉よりも小さいということでしょうか。これまでの挿話を思い出してください。ツーショット以上のカットで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんよりも小さいキャラクターの描かれたカットは存在しておりませんね。気付いておられた方はどれくらいいらっしゃいますでしょうか。この「小ささ」こそが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>というキャラクターのイメージを見事に視覚化しているようにみえます。そこで先ほどの「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>は何を考えているのか」という問題についてですが、異能の能力によった中尉の「あなた、無理をしている」とか「あなたは心で泣いている」、「誰かをずっと想っている」という台詞によってその答えが間接的に呈示されますね。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんは「そんなことは……」という風に台詞を切り返しますが、言葉が最期まで出てこない。まるで内面を見透かされたかのように。<br /><br />　同じシーン。大佐の息子が画面の上手からフレームインすると、画面の奥のふたりがほとんど同時に彼の方へと振り返ります。そして彼の視点ショットで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんのクロースアップが描かれます。ここは持続時間がかなり短いカットですが、Bパートの冒頭よりもさらに無表情に描かれており、彼女の戸惑いといぶかしさが同時に表象されているかのように見えます。大佐の息子の「君は……」という台詞に続いく切り返しの主観ショットでは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>は中尉の隣でいささか元気よく敬礼して自己紹介をいたしますね。そして切り返しショットが2回ほど続いて三人をミディアム。ロングショットで描いたマスターショットが描かれます。これで3人が物理的な空間において占めている位置関係を呈示すると同時に、切り返しショットの反復で高まった各キャラクターの親密さを再び客観化いたします。実際、このロングショットから大佐の息子は事務的な連絡事項を報告し始めますね。<br /><br />　敬礼を同時に終える大佐の息子と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さん。このタイミングをずらさずに同期させているあたりが、客観化の効果の中に親密さの効果が持続していることを感じさせます。そして再び、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんのバストアップショットが大佐の息子の視点ショットで描かれます。ここにも何がしかの感情の変化を感じさせるような描写はなく、あくまでも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんは上目使いのまま無表情を保っております。それに対して施された切り返しショットによる大佐の息子の註釈が「乙女だ……」という内的独白です。要するに、このシーンにおける「感情的高まり」（※映像表現における精神分析においては、視聴者はあるシーンのキャラクターたちの複数の感情に対して割合を変化させながら分散的に感情移入すると言われております）はあくまでも大佐の息子によるものだということですね。<br /><br />　シーンが換わります。高い位置のキャメラ（※画面のフレーム）が左に横移動しながらブリーフィングの光景が描かれてゆきますが、ちゃっかり<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9%A1%A6%A5%CF%A5%EC%A5%F4%A5%A3" class="tagword">ルイス・ハレヴィ</a>准尉は中尉の隣に座っておりますね。そういう自由が許されている。しかも最前列で高山みなみさんが演じる大佐の指示を聞いている模様。第4小隊を率いる大尉はどういうわけでしょうか、この重要な作戦のブリーフィングで２列目に座っております。「設定」を無視すれば、仮面をつけた金髪の男性の唐突な闖入ぶりからもあきらかなように、このシーンにおいて、すでに指揮系統が乱れているようにみえます。ちなみに「ミスター・ブシドウ」の登場の際には<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんは異能の中尉とともにその方向に振り向いておりますが、表情を読み取ることはできません。<br /><br />　そしていよいよアロウズと新生のソレスタルビーイングの両陣営が激突いたします。<br /><br />　当たり前ですが、「敵」である「アロウズ」の面々は下手（画面の左端）から上手（右）に視線を向けています。これは富野<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0" class="tagword">ガンダム</a>以来の伝統芸のようなものですね。「味方」は逆に上手から下手へ視線を向ける・登場するという映画で言うところの「スクリーン・ディレクション」が採用されております。これはテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションに限らず、漫画の世界でも「制度化」されている日本「文化」ですね。というか、この原則を無視して<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0" class="tagword">ガンダム</a>のコンテを切ると干されるくらい重要です（笑）。<br /><br />　さて、クロースアップで側面から描写された<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんも画面の下手から上手へと視線を投げかけながら「ついにこの時がきたよ、ママ、パパ……」とつぶやきます。キャメラは彼女の感情の高まりに肉迫しようとするかのようにゆっくりと重々しくズーム・インしてゆきますね。そして「ママ」がなぜ「パパ」より先に台詞に配置されているのかは言うまでもありませんよね。「パパ」は描写されたことがありませんから、先に視聴者に喚起させたい視覚的なイメージを担う聴覚的な記号をつぶやかせるのは当然であります。この順番を逆にすると「パパ」の描写を排除してきた意味がなくなりますね。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>の感情（エモーション）をモーション（動画）で呈示するためにはこういう些細な「順番」が重要になります。そして<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>の名前が言い落とされていることも無視は出来ません。というのも、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>はひたすら「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>」という名前をつぶやいているのに、彼女は「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>」という名前を口にすることはないからですね。<br /><br />　この対比の効果が、異能の中尉の「誰かをずっと想っている」という台詞と共鳴音を響かせながら、「クロスカッテイング」で編集される、「われしらず最愛の人を殺そうとするふたりの男女」という悲劇性を強調してみせます。<br /><br />　その中尉が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0" class="tagword">ガンダム</a>と合間見えていると、「中尉！」と叫んだ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんは「邪魔をして……」とつぶやくと、一気にプトレマイオスへと単独突撃をいたします。視聴者の知らないあいだに、ふたりにはとても親密な感情が芽生えていたのであろうことは、ここまでのいくつかのシーンからあきらかですね。ただし、このカットは持続時間が短い上に仰角からヘルメット越しに<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんを描いており、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%D8%C6%A3%C0%E9%CF%C2" class="tagword">斎藤千和</a>さんの演技が「キャラ」ではなく「感情」の表現になっておりますから、はやい画面の連鎖の中で彼女の存在を視聴者は見失いそうになります。こういうカットやシーンが目立つのはあまり感心しません。そのように申し上げますのも、ロボットものの乱戦は大別させていただきますと、①戦争における「匿名性」を重視する（ひたすらロボットと誰とはわからぬ兵士を描く・敵あるいは味方のどちらかの陣営を完全な他者として描く）、②キャラクターを重視する、③外野を重視する、④匿名性とキャラクターと外野を平等に重視する、という４つの「演出」の仕方しかございません。そして５つめが「中途半端」という奴で、今述べたいどれがやりたいのか、いまいちわからない「演出と申しますかディレクション」でしょう。一部の例外を除きますと、この４つ以外の何かをやろうとすると大抵は失敗します（笑）。<br /><br />　ところが、そのようなシーンに見る者がうつらうつらとしておりますと、本編の終盤、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんの操縦するモビルスーツと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>くんが「クロスカッテイング」→「切り返しショット」という流れで巧みに編集されます。この編集の仕方というか、コンテの割り方は多くの場合、主人公のものなのですが、少なくともこのシーンにおいては主人公なる「設定」を超えた「感情移入の乗り物」が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%D1%EB%C6%E1%A1%A6F%A1%A6%A5%BB%A5%A4%A5%A8%A5%A4" class="tagword">刹那・F・セイエイ</a>から<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>くんと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんに完全に移行しているようにみえますね。<br /><br />　<br />　　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>研究会的には来週が最終話になってしまいそうなBパートのラストシーンでしたが、そうは問屋が卸さない。ふたりを引き裂いた直接の原因である<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%A3%B5%DC%CD%FD%B7%C3" class="tagword">釘宮理恵</a>さんの演じるネーナ・トリニティとの絡みがまだ描かれておりませんから、「戦争を背景にしたふたりの男女のメロドラマ」は続いてゆくように思われます。<br /><br />　それでは共同討議に移りましょうか。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>サンライズ</dc:subject>
<dc:date>2008-11-10T02:45:25+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『ヒッャコ』（第5話）の批評と解説のために交わされた雑談。</title>
<description> 　　東京藝術大学での『ヒャッコ』に関するシンポジウムを終えた後、われわれは野田くんの自宅にある５５インチのブラビアで『ヒャッコ』の第5話を録画視聴することになりました。というのも、K・ワークス先生が基調講演において「あのアニメに言葉は不要だ、作品で勝負するしかない」という敗北宣言をされたからです。今年に入ってから３度目でしょうか。３期『ARIA』と『true tears』以来です。　そして、いよいよ番組が始まりま
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<![CDATA[ 　<br />　東京藝術大学での『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』に関するシンポジウムを終えた後、われわれは野田くんの自宅にある５５インチのブラビアで『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の第5話を録画視聴することになりました。というのも、K・ワークス先生が基調講演において「あの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>に言葉は不要だ、作品で勝負するしかない」という敗北宣言をされたからです。今年に入ってから３度目でしょうか。３期『ARIA』と『true tears』以来です。<br /><br />　そして、いよいよ番組が始まりました……。<br /><br />　吉田（秀）：おっ始まった。相変わらずアバンは置かないんだね。<br /><br />　許（光）：アバンやA・B・Cパート、次回予告といった挿話の構成は「制度」だからね。こういう些細な部分を「いじる」ところから<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの「制度＝文化」の批判は始まるってわけだ。「遊び」は重要ってことでしょう。<br /><br />　鈴木（敦）：サブタイトルは今回も故事成語の「パロディ」か。虎子が食べてる「じゃがこ」とか、コンビニやカラオケの背景デザインとかさ、実際に存在するお菓子や建物、他の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品のパロディは珍しくないけど、やっぱり「何をパロディ」するかというのは作り手のセンスがモロに出る。「パロディ」という技法が重要なんじゃなくて、パロディの「対象」が何なのか、という点に評価の力点が移りつつあるよね。<br /><br />　平林（直）：「パロディ」に関連した技法と言えば「引用」だね。虎子はやんちゃそうな風貌の潮の名前をやや唐突に聞いた後、シーンの末尾でひたすら藤田和日朗さんの漫画・『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%A6%A4%B7%A4%AA%A4%C8%A4%C8%A4%E9" class="tagword">うしおととら</a>』の話をしてたじゃない。抜かりないよね。あとは「スラップスティック」な学園コメディにクラシックの有名な楽曲を引用するという大胆さは賞賛に値するよ。<br /><br />　菊池（成）：そのシーンに話を戻すけど、「水面に反射」した街並みを描いたカットを頭に配置してさ、俯瞰のアングルから虎子と潮を「階段」といういかにもドラマティックな装置の上に座らせるよね。わかってるなぁ、って思う。嘘のような「虎猫」の登場には賛否あるだろうけれど、あそこで「犬」を出す勇気はさすがにないよな。猫は日本のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の歴史においてもっとも登場回数の多い動物だけれど、「潮は（虎）猫が好き」っていう設定と『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%A6%A4%B7%A4%AA%A4%C8%A4%C8%A4%E9" class="tagword">うしおととら</a>』の「引用」の効果とあいまって、これしかないという的確さをね、ふたりの女子高生を映し出した画面に与えている。単純に見えるけど上手いよ。<br /><br />　鈴木（敦）：『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%A6%A4%B7%A4%AA%A4%C8%A4%C8%A4%E9" class="tagword">うしおととら</a>』に関して言うなら、虎子のオタク耐性の強さというか、オタク知識の開陳を当然のごとく処理してるでしょ。あれって視聴者に好感度を与えるためのさり気ないけど重要な演出だと思う。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のキャラクター造形ってさ、「オタクに対する偏見」みたいなものをまったく感じさせないように描かれている。どのキャラクターも当然のごとく「オタク知識」を共有してるの。あるいはそれに対するリアル世界において生じるような自然な「反発」がきまって描かれない。龍姫のようなキャラクターについてもそれは言えるんだ。カラオケボックスでの潮の何気ないツッコミってのは覚えてる？彼女が虎子の「メタル音楽」に対する理解みたいなものを批判してたでしょ。アレはずるいよな。<br /><br />　大友（良）：階段で猫が登場した後のシーンなんだけど、「ウシオ　萌え～っ」みたいな文字が合成されてたよな。今回の挿話は「レトリスム」の使い方が抜群に巧かった。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>」みたいに完全に様式化（マニュアル化）されてないのね。画面に文字のイメージを呈示するっていう技法がさ。下手糞に「文字のイメージ」を画面に散りばめてるように見えるんだけど、とんでもない。Aパートでいきなり縦スクロールされる文字の羅列を持ってきて、本編の随所にさまざまなフォントで文字のイメージを配置する。カラオケボックスのシーンではボックスのモニターに映し出されているはずの文字が、そこから飛び出してさ、虎子や潮の歌っている姿を描いた画面の下の部分にも呈示されるという、何ともひとをびっくりさせるものだよ。「フレーム内フレーム」の技法の使用、さらには「現実的なものと想像的なもの」のリミックス。福田さんの「コンマス」ぶりは感動的ですらあるぜ。<br /><br />　許（光）：福田道生さんの見事な「コンマス」ぶりというか、富沢さんと鈴木さんとの緊密な連繋振りも見逃せないでしょう。特にね、気付いたかな、今回の挿話の冒頭、神園学園の生徒たちの登校シーンで「フォーカス送り」が使用されていたでしょ。おまけにそれが独楽ちゃんの「スナップショット」による主観ショット。さらにその映像に眼鏡くんの台詞が重なっていて「シークエンス・モンタージュ」と「クロスカッティング」の技法が同時に実現されているわけね。でさ、さりげなく龍姫が描かれていたことに背筋がゾクゾクもしたのだけれど、すこしだけ前に<a href="http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/" target="_blank" title="WebLab.ota">WebLab.ota</a>さんが『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』における技法と出崎統さんの開発した技法との類似を指摘した記事を書いておられたのね。で、唯一触れられていなかったのが「フォーカス送り」、いわゆる「ピント送り」っていうピンボケと焦点合わせ・変更を目に見える形で呈示する技法なの。「フォーカス・イン」と呼んだほうが正確かもしれない。で今回はそれが使用されていて、何が面白かったかというと、何かの均衡を保とうとするかのように、あれだけこれまでの挿話で頻繁に使用されていた「画面分割」が使用されてないわけ。その上で「ピント送り」が初めて使用されている。ここを見逃しちゃあいけない。要するに技法に溺れてないの。抑制が効いていて、いかにも慎ましく上品にみえる。<br /><br />　大友（良）：合縁虎縁か、こりゃ度肝を抜いたな。<br /><br />　吉田（秀）：というか、どんでん返しの作り方だな。あの第1話の虎子の衝撃的な登場シーンを愉快な仲間たちと、われわれ視聴者しか知らないと思い込んでいたら、実は、ここに来て唐突に描かれた男性キャクターがその光景を目撃していた、という事実が発覚。おまけに彼は、歩巳が写されたはずの写真のモブとして邪険に扱われていた虎子に惹かれていたという抱腹絶倒の展開。さらに強い風が吹き、虎子の１話における振る舞いをほとんど完璧に模倣するかと思いきや、嘘としか思えないタイミングで転んだ歩巳のゆっくりとした「ジャンプ・カット」で突き落とされることによって増大する間抜けっぷり。ここ、反復構造になってるんだよね。半地下で先輩の眼鏡くんの隣にいる小囃独楽ちゃんじゃないけどさ、このシーンは誰だって大袈裟に腹抱えて笑わざるを得ないよな、うま過ぎるだろ（笑）。ライティングの演出もやたら凝っていて、スポット・ライティングと「ハーモニー」的な劇画タッチの光を組み合わせていたね。ここは、あえて、最近流行のデジタル・エフェクトによる強烈な光のイメージの作り方を、手描きのタッチをそこに含ませることで周到に回避しててさ、滑稽さを強調してるように見えて面白いの。獅子丸くんや龍姫ちゃんの顔を覆うかのようにキラキラ光る謎の特効も「恥じらい」を知っている感じ。つまりね、やり過ぎてないところがいいんだな、これが。あと、窓辺の獅子丸くんの影の付け方でさ、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>」の『さよなら絶望先生』シリーズのそれを模倣してたよねぇ。あと「脳内メーカー」も<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>の今期作品で大沼心さんを監督に据えた『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』でも使ってた。この類似性は見逃せないかな。んであの「サスペンス」的な雰囲気をふいに画面の連鎖に導入するアイキャッチね。<br /><br />　許（光）：先ず「時計」ね。これは『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』で繰り返し描写されているモチーフ。そして割れたガラスでしょ。このイメージも反復されててるよね。さらには不穏に伸びてゆく血の色の直線。この「血の色」のイメージも作品内で反復されてるモチーフでしょ。んで鬱蒼とした背景色とが交じり合って、とんでもない「異化効果」を物語に導入している。この唐突さね、まさにコメディって感じだと思う。しかも「スラップスティック」なやつ。セックス＆ヴァイオレンスなイメージが散りばめられた笑いってわけね。実際<a href="http://yaplog.jp/sennheiser/" target="_blank" title="否定的なもののもとへの滞留">否定的なもののもとへの滞留</a>さんが第４話に関する記事で的確に指摘しておられるように、官能的でセクシャルな雰囲気と暴力的なものの雰囲気をかもし出すイメージの併置と共存はいくらでも『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』には見出せるよね。このバランス感覚がたまらなく興奮させる。<br /><br />　菊池（成）：端的にさ、「合縁虎縁」は、「物語り」を組織してゆくために必要な視点の移動が見る者を惹きつけると思うんだよね。第５話の冒頭のタイミングでまさかと思いきや、虎子と愉快な仲間たちから１８０度離れてさ、視点を変えてくるわけですよ、誰だよ、この眼鏡をかけた奴と男前は！みたいなさ。『みなみけ』からの客演なのか！？とか、GONZOの「ロミオとジュリエット」か！？、とか思わなくも無いけれど、それは瑣末な問題で、やっぱりさ、あぁやられたなって感じ。正直言うと、放映前にわかっちゃてるけど実際にテレビの画面で見ると、おおっ！て思うよな。何て言えばいいんだろ、要するにさ、制作者の連中はわかってるんだよ（笑）。「写真」っていう主題も『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』では反復されるイメージなんだけれど、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』って今放映されてるじゃん、ヤマカンさんの。あれで描かれている「神様」よりもね、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』は「写真」という「フレーム内フレーム」、「メタフィクション」、「ミックス・メディア」、何と呼んでも構わないけれども、それを使って「日常の神様」、つまり、「視聴者にとって」の非日常的で偶像的でありえない神様を呈示することに成功してるんさ。「アクションや作画」についてはいうまでもなく『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』には適わないけれど、ひとつの「コンセプト」をね、演出・コンテ・脚本のレヴェルで見ると『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』に軍配を挙げざるを得ないかなぁ。<br /><br />　鈴木（敦）：『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%AB%A4%F3%A4%CA%A4%AE" class="tagword">かんなぎ</a>』はもうちょっと複雑な事情と構造があると思うけど……。あの作品の第５話なんかは「誰が庵野秀明の正当後継者であるか」ということ、さらには現代のメディア環境における「ファシズム」批判・ヤマカンの自己批判も含んだ「スターシステム」批判という意図や思惑があるような気がするけどなぁ……、あまり品のいいシークエンスだとは思わなかったけれど、あれくらい大袈裟にやらないと視聴者には伝わらないという現状もあるんじゃないのかしらん。おっ、Bパートが始まったんじゃないか。お前ら少し静かにしろ。<br /><br />　菊池（成）：「時間に急かされること」ってのも繰り返し描かれる『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のモチーフだよね。バス停でひとり「遅刻」を覚悟した虎子が佇んでるけど、ここのカットって『ひだまりスケッチ×３６５』や『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of merodies.』でも多用されてる「プレーン・ステージング」でしょう。要するに「奥行き」よりも演劇の舞台を見ているような「平面性」を強調するカットね。律儀に画面の右端の上からやってくる入射光の演出はややうるさいかなぁ……。けどね、美術を担当している「美峰」が誇っていいのかどうかはわからんが、「カット・アウェイ」の描写な。この絶妙に手抜きされた描写が『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』っぽいの。たんぽぽ、そして街の外観とそこを走る車たち……。要するに、「どうでもいい日常」の始まりってワケだ。この「どうでもいい日々」をいかに「かけがえのない日々」に変貌させてゆくかってところに『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のような空気系マルチヒロイズム型<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の賭け金があるわけだな。「tukinohaの絶対ブログ領域」さんの指摘を借りるかたちになるかもしれないけど、言葉を換えるとね、これをどう描くかが制作者の見せ場ってワケだよ。たとえば、挿話の進展に応じてさ、光のイメージの強烈さの度合いを徐々に高くしていく「演出」とかね。もうひとつ、指摘しておきたいのは、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』と同じく、このシーンでは「モブキャラクター」の描写は完全に排除されてるね。<br /><br />　野田（ツ）：潮と遭遇した虎子だけれど、ここからまたしても第１話以来の「彷徨すること」という主題が物語に導入されるんだよな。つまり、悪の帝王を倒すわけでもなく、「行く当てもなく与えられた状況の中をただぶらぶらすることしかできないキャラクターたち」という現代的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の特徴だな。その意味で『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C5%B4%A4%CE%A5%E9%A5%A4%A5%F3%A5%D0%A5%EC%A5%EB" class="tagword">鉄のラインバレル</a>』ってのは古典的なわけよ。虎子たちは「とりあえず」という留保つきでしか「カラオケボックス」という目的の遊技場にたどり着くことができないんだ。んで当然のことながら、カラオケボックスを目指して、そこに到着して、手続きをするという描写は排除されている。その過程を描かないことが虎子の「とりあえす」という台詞に説得力を与えているように見えるわけだな。<br /><br />　許（光）：虎子と潮が「１３」号室という不吉過ぎるカラオケのボックスに入るとそれ以降は「クロスカッテイング」で１年６組の授業風景、しかも「副教科」というのが重要なのだけれど、それらが交互に編集されてゆきますね。「クロスカッティング」が発動すると、交互に描かれる（※編集される）人たちを必ず遭遇させなければならないという「制度＝文化」がテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の世界にはありますけど、その点は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』も例外ではないですよね。<br /><br />　吉田（秀）：もちろん、許さんの言うとおりだね。ただ、重要なことは、そういう「クロスカッティング」が絶えず『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』という作品の挿話に「サスペンス」というサブジャンルを導入していることだろうね。K・ワークス先生が執拗に主張していてさ、やや食傷気味になるんだが、虎子と潮は学校をサボタージュしているようにみえるんだけれど、最終的には「学校という時間」に急かされるようにして、「遅刻」しながらそれでも教室に姿をあらわすでしょう。虎子の「学校が好き」という台詞によってね。だからやっぱり彼女たちは「時間に急き立てられている」わけだ。そこに、対比的な「クロスカッテイング」が導入される。それによってね、視聴者は無意識的に「時間に急き立てられること」という主題と「ふたつの異なる時間と空間の遭遇する瞬間」の交錯を想像して、画面に「サスペンス」の存在を感じ取ってしまう。だから見ていて飽きないわけよ。言うなれば「ヒッチコック・ルール」みたいなもんよ。そしてさ、カラオケボックスから出た後に虎子がしっかり「今、何時？」と潮につぶやくよね、要するに相変わらず彼女は「時間を気にしている」というわけだ。<br /><br />　平林（直）：あとはそうね、カラオケボックスの中でふたりが拳を交えあうアクションというか、喧嘩を始めちゃうよね。色彩の強烈な変化とか漫画的な集中線がいかにもコミカルなんだよな。でさぁ、決定的な瞬間にカラオケボックスの店員のお兄さんが室内にあらわれるわけだよね。んで、俺が巧いなぁと思ったのは、このお兄さんが、あたかもボクシングやプロレスのレフリーであるかのようなコスチュームを身に纏った存在として描写されているんだよね。彼の突然の乱入によって文字通り＝映像通り、「レフリーストップ」がかかるわけだ。ささやかだけど、なかなかうまいんじゃないか。<br /><br />　許（光）：概ね同意かな。それで喧嘩しあったふたりはお互いを認め合うかのようにグラウンドを見張らす河の堤防へ向かうという王道的過ぎて爆笑せざるを得ない展開が続くよね。<br /><br />　吉田（秀）：たださ、ふたりが昼食を購入するコンビニのシーンがあったよね。仰角から描写したイスタブリッシングなワン・カットだけですべてを済ましてしまうの。まったくカットを割らないから、驚くべきことに３秒で昼食が購入されたかのような印象を受けてしまう。で、それが素晴らしいわけだ。たとえば、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』なんかはさ、必要もないのにひたすらカットを割るんだわ。これが無意味なんだけれども、だからこそ強い刺激が視聴者に与えられる。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』のこのカットはまったく逆のことやって同様の効果を視聴者に与えている。つまりね、カットを割らなきゃいけないところで、「福田道生」は断固としてカットを割ってやるもんか、という姿勢を強調してみせるんだよ。これができるかどうかってのは、センスじゃなくてさ、もう<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションに対する覚悟と居直りの問題だから、やっぱり福田さんは偉いんだと、声を大きくして言いたいね。<br /><br />　植草（甚）：ちょっと、いいかな。カット割りにかかわる問題だけど、カットを繋ぐときに『ひだまりスケッチ×３６５』や『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』はさ、ほぼ全編にわたって「ハードカット」で編集するじゃない。あのぶっきらぼうで原始的なやつ。どんどんカットを積み重ねてゆく「ストレート・カッテイング」ね。あれはあれでめっちゃ尖っててクールなんだけど、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の今回の挿話では「フェード・アウト」、しかも黒画面に溶けていって場面転換じゃなくてさ、「ホワイト・フェード・アウト」が抜群の巧みさで使用されいた点を見逃しちゃいけないな。全体の画調に対してさ、あの白く、時に輝く光のイメージが与える輪郭のしかるべき的確さってのが、画面の連鎖における色彩設計や物語の細やかな雰囲気の変化と絶妙に溶け合っていてねぇ、非常に好感を持った。普通さ、回想シーンとか、夢とか妄想シーンのの目印として「ホワイトのフエード・アウト」なんかが使われると、うっとうしいじゃん。つまりさ、そこまでわかりやすくしなくてもいいよって、思うじゃねぇか。ゴールデンタイムならともかく、「深夜<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の演出」は特にさ。でも今回の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』の「ホワイト・フェード・アウト」の使用にはそういう苛立ちをまったく覚えなかった。感覚に頼らない非常に知性的な「演出」だという印象を受けたな。<br /><br />　吉田（秀）：となると、どうします、植草さん。真摯な敬意を払う意味でも今回の演出を担当された鈴木健太郎さんに触れましょうか？<br /><br />　植草（甚）：「偶然の符合」とはいえ、遠慮しとこうよ。それよりももう一度見直してみないか。K・ワークス先生の出鱈目な講義を聞いたり、参加作品を見せられるよりよほど勉強になる。恐ろしくよくできた回だった。作画について熱く語り合うのが馬鹿らしく思われるほどの福田さんの尊敬すべき「コンマス（コンサート・マスター＝コンテ・マスター）」ぶり。この美しい第１ヴァイオリンが『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』のような優れた作品にも望まれるなぁ。<br /><br />　平林（直）：ともかく、「この<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>に言葉は不要だ」のひと言に尽きる、ということでしょうか。<br /><br />　佐々木（ア）：あのさ、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C0%DE%B3%DE%C9%D9%C8%FE%BB%D2" class="tagword">折笠富美子</a>さんの演技で尽きてもいいってK・ワークス先生がつぶやいてたよ（笑）。あと、風茉莉冬馬を演じる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%AC%C5%E7%CB%A1%BB%D2" class="tagword">桑島法子</a>さんと折笠さんとの絡みを延期し続けるのは、ある意味では最強の「演出」なんだ、とか酔っ払いながら口にしていたかな。さらに沢城みゆきさんとキタエリ（喜多村英梨）さんをブッキングできていれば……とか、新宿のゴールデン街でほざいてたよ。あと松来未祐さんをですね……、<br /><br />　平林（直）：ちょっ、おまっ、言葉に気をつけないと……！！<br /><br /><br />　そうして、若い<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーターたちを包み込むように夜は更けてゆくのでした。<br /><br />　<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>日本アニメーション</dc:subject>
<dc:date>2008-11-07T02:32:12+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『ef - a tale of melodies.』（第5話）の批評と解説、あるいは大沼心のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『ef - a tale of melodies.』というテレビアニメの第5話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？　★１　極端な「プレーン・ステージング」　相変わらず４２０は超えるであろう「破格のカット数」の素早いモンタージュによって、作画における運動感覚の欠如を巧みにをおぎなう今回の挿話（※エピソード）を見ておりますと、「プレーン
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第5話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？<br /><br />　<strong>★１　極端な「プレーン・ステージング」</strong><br /><br />　相変わらず４２０は超えるであろう「破格のカット数」の素早いモンタージュによって、作画における運動感覚の欠如を巧みにをおぎなう今回の挿話（※エピソード）を見ておりますと、「プレーン・ステージング」と呼ばれたりもする「演劇」の舞台の書き割りのような平面的な画面が、これまで以上に見る者を惹きつけます。<br /><br />　何といってもきわめて平面的な構図の画面の半分をですね、「演劇的な舞台」を間接的にあらわす「黒い影」が占めながら、その上でキャラクターたちは心理的な機微（※きび）を互いに衝突させるように見えるわけですよね。このような画面の作り方が、物語の舞台である「音羽」の街並みに何としても余計な「モブ」を登場させまいとする「設定」・「演出」とあいまって、「演劇」的なキャラクターたちの存在を画面に浮き上がらせます。また「奈落」の上に張られた板の隙間から覗き込んでいるかのような、仰角から上靴の裏が描かれた不思議なカットもAパートの序盤にございましたね。<br /><br />　これらが、とても品のよい「メタフィクション」の技法として機能しているようにみえます。そして。言うまでもございませんが、「プレーン・ステージング」において画面の半分を占める真っ黒な影の描写は、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」シリーズにおける「二重性」という主題と確かな共鳴音を響かせているようにもみえます（くらい無意識、くらい過去の記憶、地に足の着いていない不安定な心理状態……）。<br /><br />　<strong>★２　とがった光</strong><br /><br />　しかもですね、多くの方が指摘しておられるように、画面において多角形の鋭角のひとつを不自然かつ執拗なまでに形成する「とがった光」のイメージが、この「衝突」ぶりを際立たせているようにも見えます。<br /><br />　廃屋となった駅舎のシーンではもちろんのこと、それ以外の多くの場面においても、自然光の忠実な再現としてはありえない荒唐無稽な「ライティングの演出」がわたしたちを驚かせます。たとえば、実写映像を意識したような「レンズフレア」や「露出オーバー」などの演出は他の作品でも当然のごとく使用されておりますよね。けれど、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』においては、あからさまに人工的で色鮮やかな光のイメージが物語の舞台とキャラクターたちを照らしておりますね。まるで「ライブ会場」で舞台を華やかに照らしたり、「演劇」の舞台を照らし出す鮮やかな光の色彩のように。<br /><br />　この作品で傑出しているのは、この「あからさまに人工的なライティングの過剰な演出」を「叙事的でシリアスなメロドラマ」に採用している点でございます。「コメディ」を除いて「普通」はですね、こういうことは日本のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の歴史においては「制度＝文化」的にやってはいけないのです。だが、涼しい顔して「圧倒的な人工性」を作品のなかに持ち込んでいる。これがいかにも痛快だ。あたかもこのような「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>的リアリズム」だって、存在してもまったく構わないのだと主張するかのように。<br /><br />　<strong>★３　「メタフィクション」と「フレーム内フレーム」</strong><br /><br />　そして今回の挿話では、「これは現代的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ですよ」と言わんばかりに「フレーム内フレーム」の技法が多用されておりますね。<br /><br />　すなわち、わたしたちはテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の画面の見ているわけですが、さらにそのなかにビデオキャメラの画面や携帯電話のディスプレイの画面、あるいは絵画におけるキャンバスという画面が、キャラクターの「主観ショット」などを通してわたしたちが見ているテレビと重なるようにあらわれる。京介のキャメラがそうですし、「オーヴァーラップ」や「ワイプ」のような技法と組み合わされた新藤<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>の携帯電話のシーンもそれに当てはまりますよね。<br /><br />　ここで指摘しておくべきことは、「現実的なものと想像的なもの」、「客観的なものと主観的なもの」、「物理的なものと精神的なもの」が画面において共存しているということであり、見逃してはならないのは、Aパート。京介の撮影した「新藤<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>の映像」がコンピュータのディスプレイで「編集」されてゆき、そこに映し出されていたはずの「想像的な（※デジタル撮影された）過去の映像」が、そのまま「現実的な現在の映像」として、別の時間と空間に属しているであろう次のシーンの「ファースト・カット」をかたちづくっていることであります。<br /><br />　あらためて言葉にするとおわかりかとは思いますが、ここでは、きわめて周到かつ巧妙な「舞台の移行と時間操作の技法」が使用されております。「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は動いてナンボ」ですが、描写された「空間における運動」だけを注視して、「あからさまな時間の操作をみない」というのはいかにも偏っているということですね。<br /><br />　<strong>★４　<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%FE%C5%D4%A5%A2%A5%CB%A5%E1%A1%BC%A5%B7%A5%E7%A5%F3" class="tagword">京都アニメーション</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>、あるいは日本とアメリカ。</strong><br /><br />　ですから、お話は逸れますけれども、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%FE%C5%D4%A5%A2%A5%CB%A5%E1%A1%BC%A5%B7%A5%E7%A5%F3" class="tagword">京都アニメーション</a>の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CE%C3%B5%DC%A5%CF%A5%EB%A5%D2%A4%CE%CD%AB%DD%B5" class="tagword">涼宮ハルヒの憂鬱</a>』（2006年）に代表される「過度な運動感覚の強調」や<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>における「止め画の多用とモンタージュ主義」、ポスプロにおける強烈な「デジタル・エフェクト」や「反＝ミッキーマウジングな音響演出」などは、「フル・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションとリミテッド・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション」というアメリカと日本における<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>製作の歴史的な差異とともに、うえのような文脈を考慮しておかなければ、なかなか「理解」することが難しいように思われます（※もちろん、感覚的に楽しんで、その場限りの消費を満喫することも人生においては重要だと思います。テレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>はそのような目的に耐えうるように作られている産業芸術ですから、ことさらに難しく考える必要があるわけではございません）。<br /><br />　つまり、「節約術」を旨とする日本のリミテッド・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションにおいては、唐突にして「過剰な運動感覚の強調」や「過剰な時間操作の強調」が、アメリカの、たとえば<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%C7%A5%A3%A5%BA%A5%CB%A1%BC" class="tagword">ディズニー</a><a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>に対するカウンターとして機能しているということであります。この問題はとても難しいのですが、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの制＝製作者たちにとってきわめて切実な問題であるということを忘れてはなりますまい。<br /><br />　<strong>★５　廃屋になった駅舎における奇妙な画面たち</strong><br /><br />　さて、今回の挿話においては、ありえない画面が堂々と幅を利かせて見る者の眼前に立ちはだかっております。ただ、「ありえない」というのは「奇妙に見る者を惹きつける」といった程度の意味でございます。とくに廃屋になった駅舎のシーンにおける「ありえなさ」はきわめて興味深い効果を発揮しております。<br /><br />　たとえば、古びたベンチに腰をおろしている新藤<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>が画面の外に視線を向けているカットでは背<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>画として奥まで伸びてゆく黒っぽい「線路」が描かれております。けれども、駅舎の柱と交錯しており、角度を考慮すれば交錯した先までも描かれていなければならないはずの「線路」が描かれていないのです。描き忘れでしょうか。いや空気遠近法の問題で、薄く見えにくく描かれているだけなのでしょう。けれど、「もう二度と列車のやって来ない廃屋になった駅舎」のイメージ、画面の連鎖にインサートされる「極端に歪曲した線路」の描写の存在によって、描かれていなければならないはずなのに「途中で切れている（ように見える）線路」が、奇妙に幻惑的な震えを画面に波及させているように見えるのであります。<br /><br />　もうひとつだけ。それはベンチに並んで座る双子の新藤姉妹を背中から描いたバックショットです。ひとつはふたりの後頭部を捉えながら後退移動してゆくキャメラ。もうひとつは、空に視線を注いでいるであろうふたりを舐めながらキャメラが空に向かってパン・アップしてゆくカットです。それ自体は何ら不思議ではないのですが、「キャメラ位置と自然光」を想定した場合、これらのカットではどうにも駅舎の壁が後方にずらされたようにしか見えません（※どうも私には毎回ベンチと壁の距離感が変化しているように見えるのです）。これは「チーティング」などと呼ばれることもありますが、いずれにせよ、駅舎の壁に目がついているわけではありませんから、やはり壁の確固たる存在を脅かす想像的で主観的なカットであると考えるのが妥当でございましょう。要するに、駅の「壁をのけぞらせる」ほど強烈な新藤千尋と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>の「心理」を描き出すキャメラワーク（※同時に開ける視界・上昇してゆくふたりの気持ち）にみえるのであります。<br /><br />　そして、このような「心理描写」が画面の連鎖に違和感を与えることなく、しかるべき輪郭におさまっているのは、「廃屋になった駅舎」という舞台設定の効果であるようにも思われます。<br /><br />　<strong>★６　二重性という主題</strong><br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』という作品を視聴しておりまして、誰の目にもあきらかなのは二重性という主題の存在ですね。<br /><br />　仮面、分身、反射、模倣、反復、あるいはふたつの「音羽」、現在を欠いた過去と未来というふたつの時間、双子の姉妹、反射する眼球や鏡、眼鏡、割れた教室のガラス、「フレーム内フレーム（※<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>内漫画、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>内裸体デッサン、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>内映画、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>内携帯ディスプレイ…）」、演劇的な舞台、過去の出来事が反復される悪夢、同じ台詞や同じ身振り、同じ構図や記号の繰り返し、これらのイメージはすべて、「二重性」という主題のヴァリエーションであるようにみえます。だが、このような「二重性」のイメージ自体が、それほど珍しいわけではございません。<br /><br />　<strong>★７　多重性という主題</strong><br /><br />　そうではなく、そのような「二重性」がときおり、強烈なイメージに変貌することが恐ろしいのです。ひとつは久瀬修一についてまわる増殖してゆく仮面のイメージ（それらと共鳴する十字架・×のイメージ）や、加速してゆくメトロノームの反復運動、今回の挿話では超クロースアップで描写された火村夕の左の「眼球」が次々と三色の色彩を反射させてゆくカットなどが描き出す「二重性」から「多重性」のイメージへの変貌ですね。また今回は夕暮れ時の学校の屋上に並んでいる幾つかの「はめガラス」に反射した紙飛行機が次々と俯瞰ショットで描写されてゆくという美しいイメージもございましたね。<br /><br />　そしてさらには、「二重性」が「識別不可能性」のイメージへと変貌する瞬間というものがございます。<br /><br />　<strong>★８　識別不可能性という主題</strong><br /><br />　たとえば、「フラッシュフォーワード（※未来のシーンを先に提示する「錯時法」）」にもなっているアバンの駅舎のシーン。羽山ミズキと視聴者は、「影」から「よっ」と声をかけて「光」の当たっている部分に<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>が姿をあらわすほんの一瞬、その少女が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>であるのか千尋であるのかを識別することが不可能な状態に置かれます。またAパートにおける事故の回想シーン。視覚的には千尋か<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>か識別できない、しゃがみこんだ幼女を囲んで時計回りに容赦なく回転する多重化した扉の不気味さときたら、いかにも恐ろしく、見るものを当惑させます。<br /><br />　Bパートを見てみましょう。冒頭で火村くんと美術教師の雨宮先生が対峙するシーン。やや間の抜けた無数の空き缶が空中に浮いたイメージが呈示され、コツコツという足音の効果音とともに実体を欠いた「幾つもの影」がうっすらと棚の「ガラス」に描写されます。これらの複数の影のうち、いったいどれが現実の雨宮先生に対応しているのか、見る者が識別することはできないでしょう。さらには画面の奥に向かって並べられた無数の鏡と画架のキャンパスに描写された全裸の広野凪についても実体と虚像を識別することはできず、ひたすらに彼女の後姿だけが反復された想像的で主観的なイメージが見る者を混乱させますでしょう。そしてきわめつけは、画面の中央を軸にした三角形の光の傘の下で、左右対称に描かれた凪のイメージですね。この想像的で主観的なカットにおいても、右側の凪と左側の凪のどちらが実体であり、虚像であるのか識別することは不可能であります。<br /><br />　これらにおいて重要なことは、「流麗華美で滑らかな運動感覚」によって視聴者に視覚的快楽を与えることが目指されているのではないということです。そうではなく、錯時法と独特のモンタージュのリズム感に支えられながら、二重化・多重化する錯乱した視覚的・聴覚的なイメージが視聴者に与える印象の「混乱・氾濫・錯綜」という「運動」が目指されているように見えるということです。<br /><br />　言葉を換えますと、「反＝常識的な運動感覚」、「空間におけるリアルな運動感覚」ではなく「時間に癒着した特異な運動感覚」が目指されているように見えるということであります。<br /><br />　<strong>★９　「時間に癒着した特異な運動感覚」って何さ？</strong><br /><br />　これを解説するのはなかなか、むずかしい。ですからいくつか例を挙げてゆきますね。<br /><br />　たとえば、「錯時法」。時系列的な時間軸を意図的にばらしたり、語り手や視点を変えながら、反＝時系列的な順序でカットを配置してゆきます。次に「ストレートカッティング」。何らかのトランジション（「<a href="http://blog.fc2.com/tag/CLANNAD" class="tagword">CLANNAD</a>」のワイプや黒画面に溶けてゆくフェード・アウトなどを思い出してみてください）を使用すると物語的な連続性は強固になりますが、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - atale of melodies.』では<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>の前作である『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』と同様にぶっきらぼうで原始的な「ストレート・カット」で次から次へとさまざまな時間と空間、客観的なイメージや主観的なイメージを編集してゆきます。これはあからさまに「わかりにくい物語」、難しく申し上げますと「反＝物語」的な雰囲気を画面に波及させます。また、４００を越える破格のカット数。視聴者に「考えて咀嚼する暇（＝時間）」を与えずに次から次へと刺激的なイメージを呈示してゆきます。見る人によっては、ひとつらなりの物語よりもむしろ、あの幻惑的で「グラフィック・デザイン」的な光と色彩、肌理や構図からなるカットの方が断片的に記憶に残っている、という視聴後の感想を抱く方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか。また「モンタージュ主義」と呼びたくなるくらい短い持続時間しか持たないフラッシュ・カットを積み重ねたり、必要性が無いところで、どいうわけだかカットをどんどん割ってゆく。物語ではなくイメージの連鎖によって次のカットの配置を決定する。または、キャラクターの「アクション」で何かを視聴者に伝えるのではなく、どんどん切り替わる画面の「光や音」の威力によって、あるカットなり、シーンなり、シークエンスにおけるニュアンスに富んだ「メッセージ」を視聴者に対して、たたみかける様に、叩き込んでゆくようにみえるのであります。<br /><br />　これらの効果によって生み出されるのが「時間の運動」とでも言うべきものであり、それは「空間における正常な運動」感覚に対してあからさまに反旗を翻す振る舞いでございます。要するに「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は動いてナンボ」、古典劇の基本である「三一致の法則(※空間・時間・プロットは一致していなければならない)」、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の質は資本力に左右される」、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>は圧倒的な才能を持つ天才的な個人のアイディアと技術よって左右される」という命題はどうにも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>作品には通じない。<br /><br />　とういうよりも、それは本当に正しいのだろうか、という「作り方」をしているように思われるのです。そういう種類の「強度」が各挿話を担当する演出家やコンテ屋の個性の枠を超えて、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』の画面の全体に漲っている。ややお話は逸れますが、そのことと本作で監修を務めておられる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>さんが顔出し取材にNGを出し続けている事実は必ずしも無縁ではありますまい。どんな照れ屋でも、「E」のプロデューサーに命令されれば、「普通」は顔出し取材は断れない。だが、「作家」の顔出しとインタビュー攻めが、メディアにおいて「作品の宣伝」とは別の機能を果たしうることに充分に自覚的であるならば、断固としてNGの姿勢を貫くことができる。このような慎みを身につけることも、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの制作者には必要なのかもしれません。<br /><br />　<strong>★１０　オマケ、あるいは、双子の姉妹は座っているのか、それとも立っているのか？</strong><br /><br />　大幅にお話が逸れましたね。どうもすいません。具体的なお話に戻りましょうか。<br /><br />　Bパートの終盤で抱き合うふたりの双子の姉妹。彼女らはベンチに座って抱き合っていたはずなのですが、ワンカットだけ何の前触れもなく、立って抱き合っている姿が強烈なデジタルエフェクトに晒されながらインサートされます。そして次のカットでは何事もなかったかのようにふたりはさめざめとベンチの上で抱き合っている。これは「イメージ・カット」という言葉で済ましてしまうこともできますが、「座って抱き合うこと」に対して「立って抱き合うこと」のプライオリティが考えられないので、妥当であるとは言いがたい。ですから、ここは「錯時法」として説明することもできるだろうと思います。要するに、あのカットは「過去」の回想や別の誰かのイメージであると説明することも、後続するシーンにおける広野凪さんの台詞から察するに、不可能ではないということでございます。<br /><br />　<strong>★１１　きわめて評価の難しい、だが無視することの出来ない場面構成。</strong><br /><br />　ふたりの姉妹のシーンが終わったと思ったら、今度はプラットフォームの、おそらくかなり離れた場所でミズキさんと凪さんのアクションが再び始まってしまいますよね。視覚的には、「マルチレヴェル・アクション」とも呼ばれる技法がワンカット存在しておりまして、クロースアップで描写されたミズキの背後に抱き合うふたりの姉妹がぼんやりと小さく描かれておりますね。「被写界深度」が浅く演出されているので、前<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>のミズキに対して、後<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B7%CA" class="tagword">景</a>のふたりはピンボケしているということです。<br /><br />　ただ、ここで疑問なのは、ふたりの姉妹がアクションをしている間、ミズキは何をしていたのだろうか、ということであります。その描写の省略ぶりが、どういうわけか、笑いを誘う。というのも、あれだけ長い距離を延々と歩いてふたりから離れておきながら、ふたりのやりとりをすべて見聞きしているとしたら、どこか滑稽な気がするからであります。おまけに、そのすべてを凪さんまでがこっそり隠れて見聞きしていたらしく、ミズキとのやりとりが始まるわけですよね。けれども、ミズキが確かに声を荒げて台詞を口にしているというのに、新藤姉妹はミズキ・凪とは対照的にそれに対してまったく気付いている素振りを見せない（※そのような描写が存在しない）のであります。<br /><br />　すなわち、まるで同じひとつの舞台が、空間的な連続性を失っているかのように見えるということですね。<br /><br />　こういうシークエンスの作り方を見るにつけ、ますます「演劇的だ」という印象をわたしなどは強く抱いてしまうのです。「普通」（というよりも、わたしならば）、こういう場合はシークエンスを変えると思うのですが、えいやっと思い切りよく同じシークエンスの中に組み込んでしまう大胆な潔さは、決して簡単に評価を下せる類のものではないように思われるのですが、いかがでしょうか。<br /><br /><br />　それではこの辺りにしておきましょうか。今回も１回視聴でお話させていただいたので、もしかしたら細部にわたしの記憶違いがあるかもしれません。そのときはご指摘くださるか、ご容赦くださいな。<br /><br />　ここまでお付き合いしてくださったみなさん、どうもありがとうございます。<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>シャフト</dc:subject>
<dc:date>2008-11-04T13:31:19+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>斎藤千和のポケットの中の『機動戦士ガンダム００　２nd』（第5話）：ルイス・ハレヴィ研究会</title>
<description> 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『機動戦士ガンダム００』シリーズの登場人物であるルイス・ハレヴィ研究会の例会でございます。　今回の挿話でのルイスの出演はBパートに限られておりましたね。合計で4カットに描かれておりました。最初のカットは室内の俯瞰ショットです。同じ部隊の隊員たちとともに、列のもっとも右端で他の4人の隊員たちと同じく、視聴者に背中を向けている上官に敬礼
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%A1%C6%B0%C0%EF%BB%CE%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0%A3%B0%A3%B0" class="tagword">機動戦士ガンダム００</a>』シリーズの登場人物である<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>・ハレヴィ研究会の例会でございます。<br /><br />　今回の挿話での<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>の出演はBパートに限られておりましたね。合計で4カットに描かれておりました。最初のカットは室内の俯瞰ショットです。同じ部隊の隊員たちとともに、列のもっとも右端で他の4人の隊員たちと同じく、視聴者に背中を向けている上官に敬礼をしている姿が正面から描かれております。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>の表情は描かれておらず、他の男性隊員と比較して、とても小柄に見えますね。<br /><br />　このカットにおける会話のやり取りから、彼女がバラック・ジニン大尉の率いる第４コウチュウ隊に所属する准尉であることが判明いたします。<br /><br />　ふたつめのカットも同じシーンです。キャメラ（※画面のフレーム）は低い位置からの固定されたミディアムロング・ショットですね。多人数の位置関係を把握できるグループ・ショットでもあります。右側にずらっと並ぶ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんたちを描き、左側には彼女らと向き合う「司令」を描き、画面奥の中央にはでっぷりと太った金髪の士官らしき人物を描くという構図が採用されております。画面の手前には彩度・明度・色相という点で、もっとも存在感の放つ色彩設計の施されている<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんが配置されておりますね。だから彼女が何もつぶやかず、また画面に占める割合が少なくても、その存在が埋もれるようには見えません。<br /><br />　みっつめのカットは、ふたつめのカットからの「カット・ズームイン」で繋ぎます。キャメラは画面の奥に向かってややでこぼこと並んでいるアロウズの隊員たちのバスト・ショットに切り替わって、ぐっと寄りますね。ここで見逃してはならないのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>がきつく唇をへの字にして眉間にしわを寄せて見せることでしょう。表情の作り方自体はきわめてシンプルであります。<br /><br />　よっつめのカット。これも同じひとつらなりのシーンです。出撃命令が第4小隊にはくだされません。ここで思い出していただきたいのは、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>が「いつまでたっても出撃できない」という類似したイメージが第一話以来、繰り返して描写されていることでしょうか。それによって彼女のフラストレーションは募りますが、もちろん視聴者のフラストレーションも募ります。この「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>のフラストレーションの蓄積」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>・クロスロードのフラストレーションの蓄積」はまったく異なる質のものですが、「フラストレーション」が蓄積されている事実に違いはなく、さらにふたりを交互に「切り返し編集」しながら、なおかつ、個人の感情のレヴェルではなく、全体の大きな図式として、今回の挿話ではふたりがそれぞれに属する（<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>の場合は属するであろう）憎しみ合うふたつの陣営の対立が視聴者に提示されました。<br /><br />　こうして、視聴者はまだかまだか、とふたりの「遭遇」の瞬間を早く見たいという「フラストレーション」に駆られてゆきます。要するに、わたしたちは焦らされているわけですよね。まさに「戦争を背景にしたふたりの若い男女のメロドラマ」がそれとは気づかれぬままに「サブジャンル」として、あるいは小文字の「歴史＝物語（※イストワール）」として『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%A1%C6%B0%C0%EF%BB%CE%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0%A3%B0%A3%B0" class="tagword">機動戦士ガンダム００</a>　2nd』という作品に導入されているようにみえるのです。これらはとても基本的な映像作品のテクニックにしか過ぎませんが、何せこのテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>では、そのようにして描かれる細かい人間関係が網目状の組織を形成しております。だから、どのキャラクターの視点に立ってもそれなりに何かを論じたりすることができますね。この度合いが、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B3%A1%BC%A5%C9%A5%AE%A5%A2%A5%B9" class="tagword">コードギアス</a>　反逆のルルーシュ　R2』と無理に比較した場合、いささか異なっているようにみえます。ただし、いつも主張させていただいておりますが、そのなかでも、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>と<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>のメロドラマが特権的に重要だということであります。この軸が「今」は、ぶれることはございません（※物語の舞台は戦時下なわけですから、どちらかが死んじゃうかもしれませんからね……）。<br /><br />　さてよっつめのカットに戻りましょう。このカットでは抑圧的な俯瞰のアングルからクローズップで<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>の頭部とその表情が描かれておりますね。キャメラはぐぐぐっと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>にズーム・インしてゆきます。そしてそのキャメラの重たい動きと同時に、低い声音で<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%D8%C6%A3%C0%E9%CF%C2" class="tagword">斎藤千和</a>さんの外の人である<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>はやや大げさにうつむき、「くっ、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0" class="tagword">ガンダム</a>がいるというのに……！」という内的独白が映像に重なります。ここでは「フォロースルー」でロングヘアーであったときの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんの髪の毛のたなびく感じと、第2期にはいってからのそれとではまるで受ける印象が違いますね。当たり前ですが、同じ風量（力）に対して髪の毛がたなびくときのたなびき方は異なりますよね。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの世界ではそんな物理法則はときどき「演出」という神の力によって完全に無視されることがありますが、やはり、原則として短い髪の毛がサッとはやいスピード感で動くことで、どこか余裕が無く、「鋭角的である」というイメージを視聴者に与えるかのようにみえます。<br /><br />　また、ふたつめのカットからは「音先行」が使用されており、画面に向かって接近してくる艦船から始まる後続シーンの主調音である軍隊の行進をイメージさせる短調の吹奏楽曲がBGMとして流れておりました。まさに、いや増す戦争の緊張感、あるいは戦争という恐ろしく緊迫した物語の背景が迫り来るかのように感じられます。このような「ミッキーマウジング」的な音響演出も、今回の挿話における明確な憎しみのイメージと対立関係の形成にひとやくを買っているようにみえるのではないでしょうか。<br /><br />　<br />　それではみなさん、本日の例会の基調講演はここまでにいたしまして、討議に移ってゆきましょう。<br /><br /><br /><br /><br />　 ]]>
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<dc:subject>サンライズ</dc:subject>
<dc:date>2008-11-03T02:22:27+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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<title>『ef - a tale of melodies』（第4話）の批評と解説、あるいは大沼心のために。</title>
<description> はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『ef - a tale of melodies.』というテレビアニメの第4話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？　★１　視覚的な過剰性と物語的な機能の希薄さ　「普通」のアニメ好きが『ef - a tale of melodies.』という作品を視聴して、最初に抱く感想ないかなるものか、と本放送が始まってから、常々、考えておりました。その結果を要約するのなら
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<![CDATA[  はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』というテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第4話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？<br /><br />　<strong>★１　視覚的な過剰性と物語的な機能の希薄さ</strong><br /><br />　「普通」の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>好きが『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』という作品を視聴して、最初に抱く感想ないかなるものか、と本放送が始まってから、常々、考えておりました。その結果を要約するのならば、「視覚的な過剰性と物語的な機能の希薄さ」というひと言につきる、のではないでしょうか。とは言っても、抽象的な物の言い方ですから、具体的に例を挙げますね。<br /><br />　今回の挿話も破格の４００カット以上で構成されておりますが、Aパートの冒頭近いシーンを思い出してみてください。どうやら羽山<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんが体調不良であることが、その従兄弟である麻生蓮冶くんによって<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんと視聴者に告げ知らされます。このシーンで差し挟まれる「イメージ・カット」では、全裸の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんの全身は黒っぽく、長い髪は白く彩られ、その無機質な肉体に鮮やかな色彩とどこか不穏な黒っぽい多数の「鎖」が巻きついて拘束しているイメージが呈示されますよね。そして、このカットに重なる蓮冶くんの台詞が<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんに向けられた「少し気分が悪いってみたいで今は大丈夫です。今は薬を飲んで寝ています。」というものです。「鎖」のイメージは第1期から継続して見る者の瞳を動揺させ続けるものですし、他のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品でも多用されるイメージですよね。最近では『コードギアス　反逆のルルーシュ　R2』（のキャラクター原案のCLAMPさん）のEDにおいて、これまた「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２」との共鳴音を「間＝テクスト」的に響かせる「翼」と「舞い散る羽」が印象に残っているのではないでしょうか。<br /><br />　もうひとつがですね、夕暮れ時の広野凪さんを過剰なほどに高速でカット割りするシーンがわかりやすいでしょうか。これは「ジャンプ・カット・シークエンス」とか、「サーチ・アップ」などと呼んでも意味は通じると思うのですが、視聴者にとって既知であるはずの女性キャラクターである凪さんの全身を下半身から上半身に向けてワン・ショット（※カット）でさーっとパン・アップすればいいだけのカットを、偏執的にカット割りして、しかもそれを2回も「やり直している」ように見えるわけですが、この「視覚的な過剰性」が「物語的な機能の充実ぶり」とほとんど無縁なかたちでなされているように見えるのです。<br /><br />　例に挙げたカットはいずれもが「物語の充実」とは背反するような過剰なまでの「視覚的な効果」を画面に波及させており、いかにも視聴者を当惑させざるを得ない。とくにふたつめの例は、第3話で街の外観をたたみかけるように描くシーンにおいても使用された「過剰なカット割り」と同様で、むしろ目には見えない「物語内容の希薄さ（※実際、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんの病気の設定などは、携帯小説的な意味で、いくらなんでも俗情と結託し過ぎでしょう。内容がないと言われても仕方が無い。）」を誇張的に可視化しているようにみえます。テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>版と原作版を比較する論者の皆さんには、この点をぜひとも見逃さずにいて欲しいと思います。つまり、「大沼心」は、「物語の内容」を丹念に描いてゆくのではなく、「視覚的な過剰さ」とその「威力」をあからさまに尊重しているようにみえるということです。<br /><br />　<strong>★２　われわれはこの意味不明な背景を肯定するべきなのか</strong><br /><br />　相変わらず演劇の舞台を鑑賞しているかのように、わたしたち視聴者は、街に住まう人々を<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B2%D0%C2%BC" class="tagword">火村</a>夕くんと雨宮<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%A5%BB%D2" class="tagword">優子</a>さんとのデートシーンにおいて見出すことはできません。ふいに自動車が申し訳なさそうに画面の上手（※画面の右端）から下手（※画面の左端）へと流れてゆきますが、運転手は描写されておらず、とりわけ重要な役割を果たしているようにも見えませんね。重要なことは、海辺をはるかに見晴らす街路を戯れながら歩くふたりの背景の常軌を逸した変容ぶりが、見る者に、ある種の倫理的決断を迫ってくることです。<br /><br />　「いじめ」によって引き裂かれた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%A5%BB%D2" class="tagword">優子</a>さんの靴を購入した直後らしいシーン。平面的で舞台のステージのような街路で戯れるふたりですが、誰もが指摘するように、背景の描写の仕方がそもそも「反＝リアリズム（※≒写実主義・自然主義）」的である上に、会話するふたりの間に流れているはずの時間と背景に流れているはずの時間が完璧にずれているように見えますね。このシーンの冒頭には浜辺をざくざくっと新品の編み上げブーツを履いて「アイドルのPV」のように走り回る<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%A5%BB%D2" class="tagword">優子</a>さんを描いた幾つかのカットが配置されています。その直後に続いてゆく街路沿いのシーンにおける背景画は、ありふれた波音の効果音が確かに重なり合っているのですが、まるでデパートの「ショーケース」越しに映された光景や、壁に描かれた画であるかのように見えるのではないでしょうか。これはあきらかに「演出のやり過ぎ」であり、「視覚的な過剰性」に対して「物語の内容と展開」が置いてけぼりにされている証拠でもあります。けれども、このような見解に納得してしまったかたは残念ながら、現代の「若い」テレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの制作者の思考についてゆくことはまだまだ難しいように思われます。<br /><br />　どういうことでしょうか。ひと言で申し上げますと、ワン・カットの中には「ひとつの時間軸・ひとつの空間だけがリアリスティックに描かれていなければならない」という常識は、もう崩壊しているということです。つまり、ワン・カットのなかに、たとえば７つの時間軸が流れていたからと言って、それを否定する時代はもう終わっているということなのです。これは批評的な問題であり、倫理的な問題でもあるのですが、「複数の時間軸と空間をワン・カットのなかに同時に共存させることができるのならば、よし、やってみてもいいじゃない、だって<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションなのだから」という出鱈目（でたらめ）な認識を肯定しなければ、古典的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ばかりを評価することになり、結果的には現代的な<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーション表現を抑圧することになるだろう、ということであります。<br /><br />　要するに、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies』という作品は、どうしようもなくリリカルな物語と、いささか時代の潮流から置き去りにされそうになっている「キャラクターのデザイン」を、圧倒的な映像表現でカヴァーしているということなのです。<br /><br />　<strong>★３　キャラクター・デザインについて</strong><br /><br />　とは言え、わたしは、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>2」の「キャラクターデザイン」、あるいはその原案が駄目だと言いたいわけではもちろんございません。そこには趣味と実質的な経済・宣伝効果の問題がございますから、安易に論じることはできないものがあります。ただし、現在の業界全体を見回してみた場合、趣味が細分化されているな、という印象はもはや受けず、むしろ、大手の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>制作会社を中心に９０年代半ばから隆盛を誇ったいわゆる「萌え・美少女キャラ」の文化的に制度化されつつあるイメージを何とかして刷新しようとする動きが生まれつつあることを、消費者は敏感に察知せねばならぬ、と思うのでございます。<br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies』の美少女たちの「キャラクターデザイン」は、たとえば、「プロダクションI.G.」の作品（『攻殻機動隊』シリーズ、「神霊守」、『RD潜脳調査室』など）やフジテレビの「ノイタミナ」および深夜枠（『二重面相の娘』、『ミチコと八ッチン』など）、WOWOW作品などにおけるそれらの地殻変動（※パラダイムシフト？）に鋭敏に反応できてはいないということであります。そのようなキャラクターたちをシャフトの「あまりにも鮮烈で先鋭的な映像美」のなかに置いてみるとき、ある程度は限界が見えているんじゃあないか。あるいはサテライトの『しゅごキャラ』や京都<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの「CLANNAD」シリーズにおける電子的な光のイメージのなかで輝く細い髪の毛がたなびきまくる「フォロー・スルー」の繊細さなどと比較してみてもよいでしょう。わたしたちが、今後に予定されている「新房昭之（シャフト）×西尾維新」による作品の放映に胸を踊らせるとき、そういう意味合いが含まれていてしかるべきでありましょう。さらに申し上げるのであれば、「声優」の問題がございまして、危険過ぎてどなたも触れてはおられないようにみえます。深く立ち入ることはいたしませんが、声優論的なアプローチがあってもしかるべきなのですが、大手の有力サイト・ブログさんは周到に発言を回避されてますよね。「声」を抜いて現代のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションのキャラクターについては論じられませんから、あえて、声優について黙殺している１００万アクセスを超えるような大手のブログさんには「それなりの理由」があるとのだろう勘ぐるべきでしょうな。<br /><br />　<strong>★４　水分に気をつけろ、あるいは夜と黒と燃える炎と。</strong><br /><br />　はてさて、そろそろ視線を今回の挿話に注いでゆきましょうか。すると、どういう無意識のいたずらでしょうか、「水分」の存在がわたしたちの注目を惹きつけます。アバンでは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんの部屋の冷蔵庫のなかの大量のビールの缶と水の入ったペットボトルが描かれておりましたね。そしてビールの泡のイメージとともに、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんを回想する第3話の「海辺」のイメージを挟んで彼がビールを口にする姿も描かれております。<br /><br />　Aパートの幕が開きますと、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんは眠っているはずの<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんの流れ落ちる涙に遭遇してしまいますね。また<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%A5%BB%D2" class="tagword">優子</a>さんとのデートシーンでコップに入った水をのむ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B2%D0%C2%BC" class="tagword">火村</a>くん。そして先ほどもお話させていただいた「海辺」でのシーンが描かれますね。Bパートでは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B2%D0%C2%BC" class="tagword">火村</a>くんの回想シーンでストーブの上の蒸発する水分も見逃せません。それは「震災」によって確かにこぼれ落ちます。さらに<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんを大樹の下で膝枕している<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんは再び、彼の恋人の話を聞いて涙をこぼしてしまいますね。そしてED終了後のCパート。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんが印をつけるカレンダーの2月分の景観が嘘のように水分で満たされております。<br /><br />　これらの繰り返される「水」のイメージは、きまって物語に「夜と暗闇」のイメージを導入いたします。実際、今述べさせていただいた水のイメージは、例外なく「夜のシーン」か「ブラック・アウト」（鮮やか過ぎる画面と対位法を奏でさえもする真っ黒な画面の唐突なインサート）の技法をその前後に導入する役割を果たしております。<br /><br />　そして勘の良いかたはお気付きのように、反復する「水」のイメージは、繰り返して描かれる「火が燃える」イメージと相関関係に置かれております。今回の挿話における「水」のイメージは文字通り＝映像通り、「夜と黒のイメージ」の呼び水となりますが、それらは同時に「火」のイメージを招きよせるかのように、律儀に「火」のイメージが反復されることによって、二項対立を形成していることは間違いないでしょう。事実、今回の挿話では「水のイメージ」と同じくらいの頻度で「火のイメージ」が描写されているのですから、これを見逃しては画面を見たことにはなりますまい。身近にそういう人がいたら、ちょいとばかり、からかってやりましょう（笑）。こういうわかりやすい図式が使用されている場合、コンテ・演出家は大抵「ねらって」ますからね。<br /><br />　<strong>★５　新しい「画面分割」の技法</strong><br /><br />　さて、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんが熱に浮かされてベットに横たわる<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんをお見舞いして、その帰り際、「画面分割」の技法が使用されますね。ただし、この「画面分割」は、通常は「マルチテイク」による高速モンタージュで処理するべきさまざまなアングルから描いた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんをワン・カットで四分割して一挙に呈示しておりますね。これはなかなか見事です。しかも分割された「4人の<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さん」は、それぞれが、赤・青・黄・緑という風に別の色彩と申しますか、光で彩られることによって、さらに分割されております。この色彩＝光彩の分割とアングルの多数性が、あの反復される鮮烈で無数の「仮面のイメージ」と「歯車のイメージ」の色彩と的確な共鳴音を響かせているようにもみえるのではいでしょうか。<br /><br />　このような新しい画面分割の技法を正当化するかのように、この技法が使用された前後では、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんの「暗闇の中で光る涙」の描写を挟んで、彼女の眠る部屋の画調が、暗いそれから明るいそれへと１８０度の反転をしているかのような印象を見る者は受けます。あたかも不安のなかで揺れ動き、分裂していた複数の色彩＝光彩が、暗闇の中で輝く涙というたったひとつの光によって統一されたかのように。<br /><br />　そしてこのような観点から見た<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%D7%C0%A5" class="tagword">久瀬</a>さんと<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%BA%A5%AD" class="tagword">ミズキ</a>さんの関係は、今後の物語の展開におけるふたりの関係の推移を占う上で、非常に示唆に富んでいるように思われるのではないでしょうか。<br /><br />　<strong>★６　瞳とくちびる</strong><br /><br />　ところで、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』を見ておりますと、誰もが「瞳」の超クロースアップが多用されていることに気付きます。それは今回の挿話にも言えることなのですが、第3話の批評と解説でも指摘しておいたように、実は、「くちびる」のクロースアップというものも非常に多く見出すことができます。<br /><br />　別にシャフトの制作チームの中に「フロイディアン」がいるわけではないにせよ、「水島努」による今期放映の『ケメコデラックス！』のEDの歌詞に耳をそばだていただければわかるように、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の制作者がフロイトやニーチェやマルクスにまったくの無知であるということは、正しくありません。今回の挿話も含めて、全話を通して、やたらに雨宮<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CD%A5%BB%D2" class="tagword">優子</a>さんの両目をデカドラージュで画面外に排除した、その「くちびる」のクロースアップショットの描写を多々見出すことができるでしょう。視線やくちびるのクロースアップショットを多用いたしますと、どういう「解釈学」を招き寄せるかということは、制作者レヴェルでも、わかっている人はわかっています。手前味噌で恐縮ですが、わたしでさえもわかっております。ちなみにこれは、同じシャフト制作の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』にも適用できるパターンでありまして、「瞳の超クロースアップを描いたら、今度はくちびるの超クロースアップを描きなさい」という均衡の原理が存在しているかのようにみえます。<br /><br />　そうして「瞳」と「くちびる」、あるいは「見ること」と「話すこと」の均衡が崩壊するとき、「物語」にいかなる「出来事」が導入されるのか、ここまでお話に付き合ってくださったみなさんならば、当然のことながら、もうおわかりですね。言うまでもございませんが、みなさんが予想していらっしゃるとおりの出来事がきっちりと、「見ること」と「話すこと」の不均衡が生じることによって、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』という「メロドラマ」に導入されます。こんなことはわざわざ原作の漫画やゲームや小説を知らすとも、「テレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>」をすみずみまで見てくださっているだけで、自然と「説明すること」ができるようになるのだ、ということをぜひとも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ファンのみなさまには知っていただきたく思います。<br /><br />　<strong>★７　誤った「並行世界」の理解</strong><br /><br />　多くの方が既に指摘なさっておられるとおり、第１期と同様に、今回の挿話でも「過去」の世界と「未来」の世界がさまざまな細部においてパラレルな類似性と差異をわたしたち視聴者に呈示しているように見えますね。この両者の「共通点」の列挙については、信頼の置ける他の論者の方にお任せしたいと思います。<br /><br />　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』は「現在」が存在しない物語であるということは、第3話の批評と解説でお話させていただきましたよね。今回もひとつ、ご指摘させていただこうと思っているのです。それは、このテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>作品における「過去」と「未来」は「並行世界」ではなく、「反復世界」であるということでございます。どなたも指摘しておられませんが、ものすごくおおざっぱに申し上げますと、主題としては「今千秋」の『ひぐらしのなく頃に』シリーズにきわめて近いということですね。<br /><br />　言葉を換えてみるべきかもしれません。確かに説話論的なレヴェル（※≒物語の内容）では、「過去世界」は「未来世界」と図式的に近似しているのですが、両者はひとつらなりの世界というよりもむしろ、「相互に模倣しあい影響しあう合わせ鏡のような世界」として各挿話の展開とともにふたつの系列として呈示されているということでございます。あるいは、少なくともテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>版においては、目に見える事実として、そのように構成が組まれているということですね、そして両者には明確な「現在」がございませんから、絶えざる「交換関係」におかれている。このような「時間」の呈示の仕方こそが、原作者や制作者の意図と思惑を超えて、きわめて現代的な事態をかたちづくっているのであります。<br /><br />　このような「運動感覚の滑らかなイメージ」から「錯乱した時間のイメージ」へという映像表現における「クリティカル・ポイント」と「現代性」をわたしたちは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションに見出せるかどうか。<br /><br />　それが「視覚的な過剰性」と「物語的な機能の希薄さ」の不均衡を肯定するための「チャンス」でございましょう。<br /><br />　<strong>★８　オマケだよ</strong><br /><br />　あいかわらず『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> -a tale of melodies.』における徹底した演劇的な舞台の構築にゆらぎはございませんし、演劇的としか言いようがないライティングの演出は、自然光の原理を「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>的なリアリズム（※東某とは関係ありません）」の名の下にはるかに凌駕しておるようにみえます。音響・録音チームに関しては、作品が叙事的な「メロドラマ」であるという事実を考慮して、たとえば『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』のように奇を衒うことなく「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%DF%A5%C3%A5%AD%A1%BC" class="tagword">ミッキー</a>・マウジング」（※映像に対して音響を大衆的な想像力を前提にマッチングさせること。これができなきゃ仕事はあげませんというくらい重要な視聴者を泣かせるための必須テクニック。）に徹しております。そのようなわけで、シリーズの終幕に向かってこの作品がおさえるべきポイントはきっちりと押えてくるだろうということは想像に難くはございません。<br /><br />　<br />　はてさて、今回のお話はこのあたりにしておきましょうか。ここまでお付き合いしてくださったみなさん、どうもありがとうございます。『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』についてのお話は折を見て、再開する必要を感じたら再開いたしますね。あとは、そうですね、今回のお話はオンタイムで1回見ただけでさせていただいておりますから、再度見る機会などがございましたら、どんどん追記・修正してゆきますよ。<br />　 ]]>
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<dc:subject>シャフト</dc:subject>
<dc:date>2008-10-29T07:41:55+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>斎藤千和のポケットなかの『機動戦士ガンダム００　２nd』（第4話）：ルイス・ハレヴィ研究</title>
<description> 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日はルイス・ハレヴィ研究会の会合でございます。　今回の挿話におけるルイスさんの出番はAパートに限られております。出演カット数はいささか寂しくはありますが、3カットでございます。ひとつめは重ね合わせられた手袋をはめた両手のクロースアップショットですね。その白い手袋がはめられた左手の「素肌」が露呈される瞬間は、遠からず訪れるでしょう。そして
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>・ハレヴィ研究会の会合でございます。<br /><br />　今回の挿話における<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんの出番はAパートに限られております。出演カット数はいささか寂しくはありますが、3カットでございます。ひとつめは重ね合わせられた手袋をはめた両手のクロースアップショットですね。その白い手袋がはめられた左手の「素肌」が露呈される瞬間は、遠からず訪れるでしょう。そして次のカットでキャメラ（※画面のフレーム）は「ライズ・アップ」しながら、うつむき加減で、どこかしら落ち込んだ風の彼女の姿を膝上から徐々に画面に呈示いたします。舞台は無機的な壁に囲まれた個室であるように見えます。<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんはベットに腰をおろしておりますね。ピコッという電子的な効果音とともに画面の奥に描かれているディスプレイに映像があらわれます。さりげなく「フレーム内フレーム」の技法が使用されていること見逃してはなりませんよ。これがなければ『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%A1%C6%B0%C0%EF%BB%CE%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0%A3%B0%A3%B0" class="tagword">機動戦士ガンダム００</a>』シリースは成り立たないといっても過言ではない頻出テクニックですからね。さて、「うあっ」とそれに気付いた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>・ハレヴィさんは声にならぬ小さな当惑の呻き声を上げて、ディスプレイの方へと首を曲げます。するとディスプレイに映し出されている男性の軍人が、どうやら出撃命令が彼女（たち）に下ったことを告げます。<br /><br />　この男性軍人の台詞によって、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんが第４小隊所属の准尉であることがわかりますね。<br /><br />　少なくとも彼女は「一兵卒」とでも言うべき「下っ端の軍人」でないことがわかります。また彼女がいるのはおそらく艦内の下士官用の個室でしょう。「第4小隊」という部隊については今のところ深い意味は見出せません。「第8小隊」にするくらいの設定の遊び心は欲しかったのですが、まぁ許せないわけではない。いずれにせよ、「アロウズ」と呼ばれる特殊な軍隊がいかなる組織編制で成り立っているのかは、いまひとつわかりません。<br /><br />　３つめのカットでは、同じ場面で男性軍人の台詞に耳を傾けながら、仰角から<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんが描かれでおりますね。それによって、先ほどのカットに見られた暗い雰囲気が一転。背中越しから捉えられた彼女は強い視線を画面のフレームの外にあると想定されるディスプレイに投げやっているかのように見えます。「ブリッジに来るように」との指示にたいして、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんは「了解」と事務的でありながらも明確な意思の存在を感じさせる台詞で応じます<br /><br />　今回の挿話における<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>・ハレヴィさんの出番は以上です。他方で、ソレスタル・ビーンイングでメカニックとしての仕事をこなしてしまう<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>・クロスロード君が描かれていたことは皆さんもご記憶でしょう。巻き込まれるという受動的なかたちではありますが、「ソレスタ」の一員として描かれてゆく<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC" class="tagword">沙慈</a>くんと、第1話ではパニック発作（のような症状）に陥っていた新人パイロットとしての<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんが「出撃回数を重ねる＝経験を積み、アロウズの一員としての立ち位置を与えられてゆく」、という構図が鮮明に浮き彫りされてゆくように見えるのではないでしょうか。まさに「戦争を背景にした若き男女のメロドラマ」の王道的な展開をひた走るふたり。これからがとても楽しみでございます。<br /><br />　続いて＜　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%A1%C6%B0%C0%EF%BB%CE%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0%A3%B0%A3%B0" class="tagword">機動戦士ガンダム００</a> 2nd』の第4話の鑑賞会＞。<br /><br />  　 そして、ほとんどまったく人影の見当たらない暗い会場からのパラパラとまばらな拍手……。<br /><br />　 無言のまま、会場の簡易的な椅子を面倒くさそうにかたづける「ガンダム」を愛しているはずのボランティアたちの機械的な身振り……。<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>サンライズ</dc:subject>
<dc:date>2008-10-27T02:16:43+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>『ef - a tale of melodies.』（第３話）の批評と解説、あるいは大沼心のために。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『ef - a tale of melodies.』というテレビ・アニメの第３話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？　★１　『ひだまりスケッチ×３６５』と『ef - a tale of melodies』 前回と同様に、今回の挿話（※エピソード）においても久瀬修一さんの背景において機械的な車輪の歯車が圧倒的な威圧感と存在感を放ちながら画面に呈示されますが、
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』というテレビ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の第３話についてのお話でございます。みなさんはご覧になられましたか？<br /><br />　<strong>★１　『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』と『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies』</strong><br /><br /> 前回と同様に、今回の挿話（※エピソード）においても久瀬修一さんの背景において機械的な車輪の歯車が圧倒的な威圧感と存在感を放ちながら画面に呈示されますが、これは同じ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>が制作した『ひだまりスケッチ』シリーズで、高熱に冒された主役のゆのさんの夢において描かれたイメージと類似した輪郭に収まるように見えます。また、みなさんはAパートの冒頭における階段での火村夕くんと雨宮（義）兄妹のやりとりが描かれる場面（※シーン）をご記憶でしょうか。最初のショット（※カット）で火村くんが階段を登っていることを暗示するために描かれる「黒い背景と流れてゆく白い線」の描写は、完全に『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』で使用された階段の上り下りを暗示する描写と同じ技法が用いられております。編集に関しても、両者はほとんど全編がぶっきらぼうで簡潔な「ストレート・カッテイング」で構成されているという点も共通しております。また誰も指摘しておりませんが、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』における平均カット数はテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>業界においては破格の４００カットなのですが、実は『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』の第３話もやはり４００カットを超えているようにみえるのです。<br /><br />　これがどれだけ凄いかというと、同クール<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ですと「松尾衡」の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%CC%EB%BA%F9%BB%CD%BD%C5%C1%D5" class="tagword">夜桜四重奏</a>』や「福田道生」の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%D2%A5%E3%A5%C3%A5%B3" class="tagword">ヒャッコ</a>』が約３００カット、「五十嵐卓也」の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%BD%A5%A6%A5%EB%A5%A4%A1%BC%A5%BF%A1%BC" class="tagword">ソウルイーター</a>」がだいたい３００～３５０カットであるように見えます。ちなみに「展開がはやい、はやい」と評判を呼んだ「谷口悟朗」による『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B3%A1%BC%A5%C9%A5%AE%A5%A2%A5%B9" class="tagword">コードギアス</a>　反逆のルルーシュ　R2』にいたって、ようやく３５０～４００カットで構成されておるのです。そして言うまでもございませんが、３０分あたりのカット数が多ければ多いほど、視聴者に対して、「幻惑的」で「はやい」というイメージを与える効果がございます。<br /><br />　さて、あえて制作者の言葉を信じるのならば、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』では「美術」セクションが、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』では「彩色」セクションが、視聴者の瞳を刺激する画調に特権的で曖昧な揺らぎをもたらしております。実際のところ、前者においては「背景の色彩のイメージ」が、後者においては「背景の光彩のイメージ」が、画面にみなぎる作品の雰囲気を決定しているように感じられるのではないでしょうか。ここで色彩の魔術師としての「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」（※新房組：ご存知のとおり大沼さんも含まれます）と光の魔術師としての「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」（※大沼組：監修はご存知のとおり新房さんですよね）という対比構造を見出すことができるのではなかろうかと思います。<br /><br />　<strong>★２　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」</strong><br /><br />　そこでですね、あえて「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BF%B7%CB%BC%BE%BC%C7%B7" class="tagword">新房昭之</a>」と「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%C2%E7%BE%C2%BF%B4" class="tagword">大沼心</a>」というふたつの固有名にこだわってみましょう。すると多くの類似と差異を見出すことができるのですが、誰の目にもあきらか点を指摘するにとどめておきたいと思います。<br /><br />　ひとつは多くの方が指摘しておられる「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」における廃屋となった駅舎をロングショットを中心に捉えるシーンです。このショットはきわめて平面的に描写されておりますね。けれども前景に折れた材木などの遮蔽物を配置して光の陰影を強調することによって、空間の「平面性」と「奥行き」が共存しているかのように見えます。それに対して、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A4%D2%A4%C0%A4%DE%A4%EA%A5%B9%A5%B1%A5%C3%A5%C1%A1%DF%A3%B3%A3%B6%A3%B5" class="tagword">ひだまりスケッチ×３６５</a>』においては、ほぼ例外なく折り重なっているはずの印象的な描写物がひたすらに「平面性」へと還元される傾向がございます。<br /><br />　さらに、両者の違いは前者（「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」）における「広角・魚眼レンズ」の効果を意識した歪曲した構図の多用と、後者（「ひだスケ」）の「望遠レンズ」の効果を意識した平面的で凝縮された構図の多用として的確にトレースすることができるように見えるのではないでしょうか。言葉を換えてみますと、「新房組」が「デプス・ステージング（遠近感を重視した構図）」を「プレーン・ステージング（※演劇の舞台のような描写に代表される平面性）」に還元することに繊細な配慮を払っていたとすれば、後者では大胆に「プレーン・ステージング」と「デプス・ステージング」を併置させようとしているかのように見えるのであります。この点を決して見逃してはなりますまい。<br /><br />　　<strong>★３　「現在」が存在しない物語</strong><br /><br />　はてさて、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B7%A5%E3%A5%D5%A5%C8" class="tagword">シャフト</a>」と言えばと申しますか、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」シリーズと言えばと申しますか、いささか衒学的ではございますけれども、やはりわたしたちの注意を惹きつけるのはその「時間操作の技法」についてでございます。少しだけ、抽象的なお話をさせてくださいね。<br /><br />　原作や制作者たちの意図や思惑を思い切り無視させていただきまして、結論から申し上げますと、テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>の『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』には、驚嘆すべき事実として、「現在」という時間の軸が存在いたしません。要するに、久瀬さんや火村さんの成長ぶりから、「過去（※技法的にはフラッシュ・バック）」と「未来（※技法的にはフラッシュ・フォーワード）」は特定できるのですが、どちらが「現在」であるかを特定することはできず、たえず過去が未来に対して現在の役割を果たし、未来が過去に対して現在の役割を果たしているようにみえるのです。言い換えますと、過去と未来がたえず「交換関係」に置かれており、そのような「絶えざる交換関係」において、「現在なるもの」は抹消されているということです。これは、「過去」と「未来」が視聴者の生きる世界の客観的な時間の単位においてもほぼ等価に扱われており、物語的な連続性を考慮することのないぶっきらぼうな「ストレートモンタージュ」の使用や、「過去」と「未来」が「今という現在を生きているはず」の誰に帰属しているのか特定することができないこと、意味が不明瞭な白い数字と文字が描かれた黒画面の短い「フラッシュ・ショット」の挿入で、いきなり「過去」と「未来」が画面において「交換」されたりする事実をかんがみれば、あきらかではないでしょうか。<br /><br />　「普通」の古典物理学的な時間感覚においては、「過去」は「未来」に接続されるわけですが、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』を見ておりますと、あたかも「並行世界」であるかのように、「過去」と「未来」が同時的に共存しており、視聴者は「過去」が本当に「未来」に接続されるのか、そして「未来」はまたどのような「新しい未来」へと接続されるのか、それらを知ることが出来ません。そうして同じひとつの世界で起きている（た）はずの出来事を、まるでふたつの世界の未来を見守らねばならぬかのような、そんなスリリングな心理状況に追い込まれるようにみえるのであります。<br /><br />　このような時間の感覚が、時に粗野（※人によってはかなり雑に見えることもあると思います）で時に丹念な編集のリズム（※律動）感とあいまって、二重奏の旋律（※melodies）として織り上げられてゆくようにもみえます。詩的な隠喩をさらに重ねますと、さらには個々のキャラクターたちの心理的な相関関係をハーモニー（※調和感）として喩えることもできるでしょう。もちろん、それらの「ソルフェージュ（リズム・メロディ・ハーモニー）」が、最終的に協和音を奏でるのか、それとも不協和音を唐突な「インプロヴィゼーション（※原作を重んじない即興的な演出）」によって奏でることになるのか、今はまだ、その断言を避けねばなりますまい。<br /><br />　<strong>★４　眼球譚、あるいはキャラクターの瞳から目を逸らすことなかれ。</strong><br /><br />　前置きが随分と長くなってしまいました。それでは、具体的に第３話の画面に視線を注いでゆきましょうか。<br /><br />　そうしますと、先ずはどうしたって、あの「眼球」を描写した「超クロースアップ・ショット」がわたしたちの注意を惹きつけてしまいます。眼球の超クロースアップの描写と言えば、最近なら『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%B3%A1%BC%A5%C9%A5%AE%A5%A2%A5%B9" class="tagword">コードギアス</a>　反逆のルルーシュ　R2』との類縁性を思い浮かべてしまうかたも多くいらっしゃるのではないでしょうか。両者の比較論は次の機会に譲るといたしまして、今はお話を続けましょう。<br /><br />　「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」の今回の挿話では、アバンの黒画面を背景にして電子的な光の花びらがぱっと散り散りになるカットに続く羽山ミズキさんの両目の超クロースアップショットに始まり、片方の眼球のそれも含めて、海辺での久瀬さんとミズキさんの両目のクロス・ショットにいたるまで、２０～３０ショットは存在しているように見えます。それらの膨大な超クロース・アップで描写された「眼球」は、きまって不吉なものの予兆としての機能を担っております。それらの眼球の描写、より正確には、描写された眼球から放たれている「描写不可能なまなざし」は、「危うさを感じさせる家族関係」、「いじめ」、「病気(※麻生蓮冶くんによれば特殊な心筋症)による死の恐怖と不安」という暗い「出来事」をいささか冗長に「物語」に導入しているように見えるのであります。少なくとも、「アカルイミライ」に向かって放たれたであろう接写による「視線」というものを今回の挿話において見出すことはきわめて難しいのではないでしょうか。ですから、今回の挿話を振り返ってみますと、そこで描かれていた大写しの眼球はなんとも痛ましく、実に恐ろしい。<br /><br />　そして当然のことながら、それに関連させますと、周到に両目の描写を画面のフレームによって切り取る「デカドラージュ」と呼ばれる技法がバランスよく多用されていることも見落としてはなりますまい。というのも、このようなショットは決まって「コミカルな軽快さ」と「重たい諦念（※あきらめ）」を同時に物語に導入する役割を果たしているように見えるからであります。ミズキさんが千尋さんに廃駅で抱きつくいかにも無邪気なシーンでさえ、両目を排除されたミズキさんがつぶやく「鼻血でそう……」というコミカルな台詞には、密やかに「血のイメージ」を喚起させる力が宿っております。<br /><br />　<strong>★５　「ブラック・アウト」＝「男と女が出会うとき」</strong><br /><br />　今回の挿話を眺めておりますと、いかにも思い切りのよい「ブラック・アウト」の技法が独特のリズム感と同時に、ある出来事を物語に導入いたしております。<br /><br />　「ブラック・アウト」とは、「フェード・アウト」のようにゆっくりと画面が暗闇に解けていくような「トランジッション」、あるいは「演出」ではなく、いきなり画面がばっと真っ暗になる技法であります。もちろん、技法の効果は文脈に左右されますから、重要なことは、それを列挙して文法的に解説することでも、その列挙ぶりを批判することでもありません。あくまでも、その技法が、画面においていかなる「出来事」を「物語」に導入しているのかを指摘するということでありましょう。<br /><br />　それでは、今回の「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>２」では「ブラック・アウト」によって何が起こるのか。ひとことで申し上げますと、「男が女と遭遇する」という出来事につきます。あのやや不自然に見えなくもない「ブラック・アウト」ショットの挿入は、まばゆいばかりの色彩と光彩との対比をかたちづくり、時間の転調・経過を機能的に示しながら、「男と女が遭遇する」という出来事を準備する機能を担っているかのように見えるのであります。<br /><br />　たとえば、高校生の火村くんと久瀬くんと「裸体デッサン」に偏執的なこだわりを見せる広野凪さんが下駄箱の上に隠された雨宮と書かれた上靴を発見するシーンで瞬間的に差し挟まれる１秒にも満たない「ブラック・アウト」は、「火村くんと優子さんの遭遇」という出来事を招き寄せますし、ミズキさんと新藤千尋さんの会話のやりとりに「ブラック・アウト」が差し挟まれますと、次のショットでは嘘のように蓮冶くんが姿をあらわします。また、的確な心理描写でもある「前後に揺れる」安楽イスに座っているミズキさんのショットに続いて、「ブラック・アウト」が使用されると千尋さんが柵の向こう側に姿をあらわしますよね。千尋さんは「女」であるわけですが、「火村夕という男」のメッセンジャーとしてミズキさんの前にあらわれているのです。さらに間もなく、ミズキさんが海辺に向かって疾走する彼女の足元をキャメラ(※画面のフレーム)が正面から後退移動しながら捉えるカットがあらわれますが、その直前に「ブラック・アウト」が使用されており、この「ブラック・アウト」は、誰の目にもあきらかなように、ラストシーンにおける「ミズキさんと久瀬さんの遭遇」という出来事を物語に導入するのです。<br /><br />　そしてまた、目が痛くなるような画面に差し挟まれる真っ黒な画面は、「遭遇」の準備にともなう「戸惑い」の「いたましさ」をも表象しているようにみえるのではないでしょうか。<br /><br />　<strong>★６　舞台装置と演劇</strong><br /><br />　ところで、今回の挿話で描かれた物語の舞台装置である街の外観を見ておりますと、誰一人として「モブ・キャラクター」が描かれておりません。<br /><br />　天気は快晴。時刻はおそらく早朝で真夜中でもないでしょう。外出するには絶好の気候であるようにも見えます。にもかかわらず、まさに「演劇の舞台」や「映画のセット」であるかのように、必要のない人間の描写は完全に排除されておるのです。「普通」の商業テレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>、とくに「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」シリーズのような叙事的メロドラマにおいて、「モブ・キャラクター」は「リアリティ」を街の景観に付与すると同時に重要な場面においては、モブをしかるべきタイミングで排除することによってその場面の重要さを際立たせる効果がございます。けれども近年のテレビ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を視聴しておりますと、空気系のマルチヒロイズム型萌え美少女<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>やコメディ・<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>を中心に「モブ・キャラクター」の価値下落が起こっているように思われます。それらはモブを完全に黒塗りしたり水玉模様だけで表現することによって技法的に昇華されている場合もございますよね。それでも相対的に「モブ・キャラクター」の必要性は低下しており、そのような観点からは、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』はひとつの極北を実現させてしまったという意味で、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>ーションの歴史においてきわめて重要な位置を占めているということができるのでございます。<br /><br />　この「演劇の舞台」や「映画のセット」のような舞台装置は、久瀬修一さんがアバンでヴァイオリンを演奏する「ステージ」や「仮面」という演劇的な意味作用を強く担っているイメージ、さらには先ほどもご指摘させていただいた技法としての、演劇の舞台の書き割りのような平面的な「プレーン・ステージング」が画面に描いてみせるイメージとはるかに共鳴音を響かせているようにみえます。さらに言えば、ありえない速度でながれてゆく雲の動き、同じひとつの時間と空間に半袖の衣装を身に纏ったキャラクターと暑苦しそうな長袖の衣装を身に纏うキャラクターが共存しているという点では、舞台装置における「気候のリアリティ」というものは完全に無視されており、言うまでもなく、舞台装置を照らし出す常軌を逸したライティングの「演出」（当然「影」の作り方も含まれます）は完全に「自然光」と呼ばれる「光のリアルな描写」を凌駕しております。<br /><br />　要するに、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」においては完璧に「演劇的な舞台装置」の実現が目指されており、それがほとんど実現されているという「凄み」があるわけです。これはやたらな人間たちにはできない。こういう舞台装置の構築（※描写の積み重ね）が、「<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a>」シリーズに先ほど述べたような「時間的な厚み」だけではなく、「空間的な厚み」をも与えており、そのような重層性が、いかにも<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%A2%A5%CB%A5%E1" class="tagword">アニメ</a>的という他はない「幻惑」的な雰囲気を『<a href="http://blog.fc2.com/tag/ef" class="tagword">ef</a> - a tale of melodies.』の画面のすみずみにまで波及させているようにみえます。<br />　<br />　<strong>★７　あの感動的なシーンについて、あるいは「ある視点」。</strong><br /><br />　Bパートのラストシーンでは、久瀬さんとミズキさんが「クロス・カッテイング」（※交互編集で両者の物理的・心理的な距離感を縮めながら、サスペンスのドキドキ感を見る者に与える技法）の果てに、海辺で「遭遇」いたします。このシーンが今回の挿話の山場であるように見えるわけですが、私のような者の瞳を動揺させるのは、水しぶきとともに海へと向かうミズキさんの後姿を仰角から描いたフリーズ・ショットではなく、このシーンでさまざまなショットサイズで延々と描かれている「打ち寄せる波」の描写なのです。<br /><br />　波というにはあまりにも抽象的でリアリズムに欠けるけれども、完全に抽象化された記号として描かれてはいない「寄せては返す波」のイメージ。それは上下動を繰り返す久瀬さんの弦さばき、校舎裏で話し込んでいる火村くんと久瀬くんの前景に遮蔽物として配置され、水平方向に反復されている半円形の柵のイメージ、鉄道のレールの上でバランスを取りながら前進するミズキさんの回転運動がくるくると描き出す軌跡のイメージ、ミズキさんと千尋さんの廃駅の場面における「チクタクチクタクチクタク……」という切迫感をはらんだ聴覚的なイメージの反復、ミズキさんをのせた安楽イスの前後運動が描く軌跡のイメージ、燃えるヴァイオリンを消すためにミズキさんが行う疾走の往復運動が描き出すイメージ……。これらの反復されるイメージが、夜の闇に覆われた海辺で何度も何度も「寄せては返す大きな波」のイメージと重なり合うという「出来事」の非情な「いたましさ」こそが、「俗情と結託した、ありがちな筋立て」を越えて、真に見る者を感動させるにふさわしい画面をかたちづくっているのではありますまいか。<br /><br />　<br />　<br />　そのようなわけで、今回は時間ですから、このあたりにしておきましょうか。もう少し論点を提示したいところではありますが、実はもはや記憶が定かではないのです（笑）。差し当たり、ここまでお付き合いしてくださったみなさん、どうもありがとうございます。<br />　<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>シャフト</dc:subject>
<dc:date>2008-10-25T01:17:21+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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<title>斎藤千和のポケットのなかの『機動戦士ガンダム００　２nd』（第３話）、あるいはルイス・ハレヴィ研究。</title>
<description> 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日も日本におけるルイス・ハレヴィ研究の最先端を担っている当研究会の報告会にお越しいただきまして、まことにありがとうございます。　今回の第３話において、ルイスさんはAパートのみの出演となります。しかも、第２話における描かれ方と大差を付けられているわけじゃあございません。男性の上官に自分も出撃あるいは戦線に加わりたい旨の身振りを示しはする
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<![CDATA[ 　はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。本日も日本における<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9%A1%A6%A5%CF%A5%EC%A5%F4%A5%A3" class="tagword">ルイス・ハレヴィ</a>研究の最先端を担っている当研究会の報告会にお越しいただきまして、まことにありがとうございます。<br /><br />　今回の第３話において、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんはAパートのみの出演となります。しかも、第２話における描かれ方と大差を付けられているわけじゃあございません。男性の上官に自分も出撃あるいは戦線に加わりたい旨の身振りを示しはするのですが、まったく相手にはしてもらえません。これは第２話における描き方（※表象）と大差はございませんね。要するに「<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0" class="tagword">ガンダム</a>に対する固執振り」と「出撃したいが出撃できない」という鬱屈とした感情の蓄積過程の反復が描写されているように見えるわけです。とりわけロング・ショットで画面の奥に取り残された<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんを描いたショット（※カット）は印象的だったのではないでしょうか。「普通」は「カット・ズームイン」という技法を用いてワンカットは<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんの悔しげでやりきれない表情を描いたクローズアップ・ショットを差し挟んでおくべきなのですが、そのような「ルール」は省かれていましたね。あくまでもキャメラ（※画面のフレーム）は彼女を突き放したままに、小さく中途半端なショットサイズで描かれた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんの姿を画面の奥に置き去りにしておくことの残酷さ。<br /><br />　「意義深い細部」にこだわるのであれば、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0" class="tagword">ガンダム</a>における緑色を基調とした緑色の「ザク・カラー」のユニフォームを身に纏うことになった淡いピンク色のイメージが強い<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんについて、ヘルメットという装身具を着用しているか（第２話）、そうではないか（第３話）といった観点から言葉を紡ぎだしてゆくことは難しくはないでしょう。さらに第２話では「宙に浮いていた<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さん」が、今回の挿話においては、少なくとも「床に足をつけている」。さらには上官と下士官という明示的な階級関係を見出すことも容易でございましょう。勘の良い方であれば、以上の情報から構造論的な批評であれ、テマティスム的な批評であれ、何らかの議論を展開してゆくことは造作もない所作であろうと想像いたします。<br /><br />　本編のかなり多くの部分を端折りますと、『<a href="http://blog.fc2.com/tag/%B5%A1%C6%B0%C0%EF%BB%CE%A5%AC%A5%F3%A5%C0%A5%E0%A3%B0%A3%B0" class="tagword">機動戦士ガンダム００</a>』シリーズにおける<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9%A1%A6%A5%CF%A5%EC%A5%F4%A5%A3" class="tagword">ルイス・ハレヴィ</a>というユダヤ系スペイン人女性と、いかにも不吉な性を持つ<a href="http://blog.fc2.com/tag/%BA%BB%BB%FC%A1%A6%A5%AF%A5%ED%A5%B9%A5%ED%A1%BC%A5%C9" class="tagword">沙慈・クロスロード</a>（十字架）というのふたりが交互に編集されてゆく「クロス・カッテイング」が、物語に二元論的なメロドラマを導入しているかのようにも見えます。そのような認識は、今回の挿話においても変わりません。あくまでも、ふたりは、これからの物語の展開に従って、ある決定的な場面で弁証法的に遭遇を果たしてしまうかのように描かれております。もちろん、それが、「クロスカッティング」と呼ばれる編集の技法なのですから、いかなる不可思議もございません。ふたりは同じ時空を共有することによって今後の挿話において間違いなく遭遇するだろうと断言することができます。<br /><br />　「戦争を背景にしたふたりの男女のメロドラマ」に焦点を絞っているわれわれではございますが、今回の挿話では、<a href="http://blog.fc2.com/tag/%A5%EB%A5%A4%A5%B9" class="tagword">ルイス</a>さんの「鬱屈感の反復」と、沙慈くんの「真相の理解」がいかにもドラマティックに対比されているように見えますね。両者が遭遇するとき、何が起こるのか。<br /><br />　わたしたちは画面の前では対等な視聴者でございますから、その成り行きを見守りましょう。<br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>サンライズ</dc:subject>
<dc:date>2008-10-20T00:36:46+09:00</dc:date>
<dc:creator>　K・ワークス</dc:creator>
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